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収穫祭の攻防

 俺たちが蒔いた「情報」という名の種は、乾いた大地に染み込む水のように、瞬く間にマーカム侯爵の領地全体へと広がっていった。


『セラフィーナ様の呪いは、土地の精霊の怒りが原因らしい』


『その怒りを鎮めるには、収穫祭で最も穢れなき乙女が最も豊かに実った麦を捧げる儀式が必要なんだと』


 この噂は、二つの意味で領民たちの心を掴んだ。

 一つは、自分たちの信じる「土地の精霊」という存在が、侯爵の嘘ではなく本物だったという安堵感。

 そしてもう一つは、侯爵家の一人娘の命が自分たちの行動にかかっているという一種の使命感だった。


 噂の出どころは、俺たちが意図的にリークしたクラウスの協力者たちだ。

 もちろん、侯爵の耳にもこの噂はすぐに届いていた。


 彼は最初これを俺たちの策略だと疑っただろう。

 だが、領民たちが、まるで神のお告げのようにこの噂を信じ始め、熱狂的に支持していく様子を見て、彼は動かざるを得なくなった。

 娘を救いたいという親心とこの機運を利用すれば領民の支持を再び集められるという政治的判断。

 そして何より、他にセラフィーナを救う術が彼にはもう残されていなかった。


 収穫祭の三日前。

 侯爵は、ついに公式の布告を出した。


『――収穫祭の日、領主マーカムの名において、聖なる儀式を執り行う。土地の精霊の怒りを鎮め、我が娘セラフィーナの平癒を祈るため、領内で最も穢れなき乙女に最も豊かに実った麦を献上させる』


 侯爵は自らのプライドを捨て、俺たちの作った土俵の上に乗ってきたのだ。


 ♢


 そして、運命の収穫祭当日。

 村の中央広場には、領内の全ての民が集まったのではないかと思うほど多くの人々でごった返していた。

 広場の中央には儀式のための祭壇が組まれ、その脇には、マーカム侯爵が荘厳な儀仗兵を従えて座っている。

 その表情は硬く俺たちを一瞥することすらない。


 やがて、儀式の始まりを告げる鐘が鳴り響く。

 侯爵の家臣が甲高い声で宣言した。


「これより聖なる儀式を執り行う! まずは、精霊様に捧げる『最も豊かに実った麦』の選定である!」


 村中から今年収穫された自慢の麦が、次々と祭壇の前に運び込まれる。

 だが、その結果は誰の目にも明らかだった。


 クラウスたちの畑で収穫された『地根草』とリナの祈りを受けて育った麦。

 その麦穂は、他のどの麦よりも大きく、その黄金色はまるで太陽の光をそのまま閉じ込めたかのように、まばゆい輝きを放っていた。


「……こ、こんな麦、見たことがない」


「これが、あのゴードン殿の……」


 農民たちが、どよめく。

 侯爵の家臣は苦々しい表情で結果を報告せざるを得なかった。


「……最も、豊かに実った麦は、クラウスの畑のものと認める!」


 その瞬間、農民たちの中から抑えきれない歓声が上がった。

 それは、ゴードンの教えが俺たちの行動が正しかったと証明された瞬間だった。


 侯爵は唇を噛み締め、屈辱に耐えている。

 だが、儀式はまだ終わらない。


「次に『最も穢れなき乙女』の選定である! 我こそはと思う者は、祭壇の前へ!」


 その宣言に、村の娘たちがおずおずと顔を見合わせる。

 だが、誰一人として前に進み出る者はいなかった。

 皆、分かっていたのだ。

 この儀式のために、本当に選ばれるべき人間が誰なのかを。


 群衆が、モーゼの海割りように自然と道を開ける。

 その道の先に立っていたのは、白い簡素な儀式用の衣装を身にまとったリナだった。

 アイリスが、彼女の背中を優しく支えている。


 リナは、緊張で震えながらも、一歩、また一歩と祭壇へと歩みを進める。

 彼女が通る道すがら、農民たちが自然と頭を下げていく。

 彼らは、王子を救い呪われた兵士を癒やしたというリナの奇跡の噂をすでに知っていた。


 彼女こそが、本物の「聖女」なのだと。


 リナが、祭壇の前に立つ。

 侯爵の家臣は、もはや何も言えず、彼女が「乙女」役に選ばれたことを宣言せざるを得なかった。


 儀式の準備は全て整った。

 リナが黄金の麦穂を手に取り祭壇に捧げようとした、その時だった。


「――待て」


 静かだが有無を言わせぬ声が広場に響いた。

 声の主は、デュランだった。

 彼は、儀仗兵の壁をいとも簡単に抜け、祭壇へと続く階段の前に剣を杖代わりに突き立てて立ちはだかった。


「……何の真似だ、デュラン殿。儀式の邪魔をする気か」


 侯爵が、低い声で威嚇する。


「邪魔をするのは、あんたの方だろう、マーカム侯爵」


 デュランは、侯爵をその鋭い瞳で真っ直ぐに射抜いた。


「あんたは、この儀式の本当の意味を分かっていない」


「……何だと?」


「この儀式は、精霊の怒りを鎮めるためのものだ。ならば、まず、その怒りを買った張本人が、自らの罪を認め、民に謝罪するのが筋というものではないのか?」


 デュランの言葉に、広場が水を打ったように静まり返る。

 侯爵の顔が、怒りと屈辱で赤く染まっていく。


「……き、貴様! 一介の傭兵風情がこの私に説教をするか!」


「一介の傭兵ではない。俺は、この国と民を守ると誓った一人の騎士だ」


 デュランは、言い放った。


「侯爵。あんたが、自分の口から罪を認めないというのなら、俺が代わりに全てを話すまでだ。あんたが、私腹を肥やすために『精霊の森』を伐採し、その呪いが娘のセラフィーナ様にかかったという全ての真実をな!」


 その暴露に、広場は大騒ぎになった。


「何だって!?」「呪いの原因は、侯爵様自身……!?」


「黙れ! 黙れ黙れ! こやつは王都から来た反逆者だ! 皆、騙されるな! こいつらを捕らえろ!」


 侯爵が、錯乱したように叫ぶ。

 儀仗兵たちが、一斉に剣を抜きデュランに襲い掛かった。


 だが、デュランは、もう一人ではなかった。

 彼の隣に、クラウスを始めとする村の若者たちが鍬や鋤を手に立ちはだかる。


「……もう、あんたの嘘には付き合わねえぜ、侯爵様」


「そうだ! 俺たちの畑を、未来を、これ以上あんたの好きにはさせねえ!」


 農民たちの、初めての反逆。

 その光景に、侯爵は、そして兵士たちは怯んだ。


 デュランが、俺を見た。

 その目は「あとは、お前の出番だ」と語っていた。


 俺は、頷いた。

 そして、この茶番を終わらせるための、最後の言葉を広場に響かせた。


「――その必要はない。侯爵。あんたの罪を、今、ここで証言してくれる人が来てくれている」


 俺の言葉と同時に、広場の入り口が再び開かれた。

 そこに立っていたのは、侍女に肩を支えられながらも、自らの足で立つ一人の美しい少女。

 その声はまだ弱々しかったが、広場の全ての者の耳に確かに届いた。


「……お父様。もう、やめてください」


 その声の主は、病で塔に閉じ込められていたはずの、セラフィーナ・ド・マーカム、その人だった。

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