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偽りの設計図

マーカム侯爵の屋敷から、俺たちは夜の闇に紛れて、クラウスの家へと帰還した。

屋敷の警備は、俺たちが入った時よりもさらに厳重になっているようだった。

デュランが気絶させた衛兵が、発見されたのだろう。


「……ユキ。これで、本当に良かったのか」


家に戻り、囲炉裏の火を囲みながら、デュランが低い声で尋ねた。

彼の表情は、潜入の緊張感からではなく別の種類の重圧によって強張っていた。


「あの娘を、連れ出すという手もあったはずだ。そうすれば、もっと直接的に侯爵を脅す材料になったかもしれん」


「いや、それではダメだ」


俺は、首を横に振った。


「俺たちがセラフィーナを攫えば、それこそ侯爵に俺たちを『反逆者』として討伐する大義名分を与えてしまう。そうなれば、侯爵に疑問を抱き始めた村人たちも再び恐怖で支配されてしまう」


「だが、あのままにしておいて本当に大丈夫なのか。あの種とやらがどれほどの効果を持つかも分からんのだろう?」


デュランの懸念はもっともだった。

俺は、静かに答える。


「彼女自身の意志で、あの鳥籠から出なければ意味がない。俺たちは、そのための『きっかけ』を蒔いてきただけだ。信じよう。彼女の生きようとする力を」



その頃、屋敷の最も奥にある一本の塔の上で。

セラフィーナ・ド・マーカムは、長い間見ることのなかった鮮明な夢を見ていた。


夢の中で、彼女は緑豊かな森を歩いていた。

木々は生命力に満ち溢れ、足元には色とりどりの花が咲き乱れている。

現実の彼女が、病に倒れて以来、一度も感じたことのない温かい風と土の匂い。


『――還して』


どこからか、悲しい声が聞こえる。


『我らの森を、還して』


声に導かれて歩いていくと、森の中心がまるで巨大な獣に食い荒らされたかのように無残な禿山になっているのが見えた。

そして、その光景を見て涙を流している、たくさんの光の粒――精霊たちの姿が見えた。


『あなたの父が、奪った。だから、あなたから、奪い返す』


精霊たちの声が、呪いのように彼女の心に響く。

やめて、と叫びたいのに声が出ない。

体が鉛のように重くなっていく。

いつもの、あの悪夢だ。


だが、その夜は違った。

夢の中の彼女の手の中に、いつの間にか一つの小さな種が握られていた。

その種が心臓のように温かい光で脈動している。

光は彼女の体を優しく包み込み、精霊たちの呪いの声を少しだけ和らげてくれた。


『……あなたは、悪くない』


種の中から、別の声が聞こえる。

それは、知らない少女の、優しくて少しだけ悲しい声だった。


『だから、負けないで』


その声に、セラフィーナは暗い夢の淵からゆっくりと意識を浮上させた。

目が覚めると窓から差し込む月の光が、自分の手の中にある一つの小さな種を照らしている。

それは、見たこともない植物の種だった。

そして、その種は確かに夢の中と同じようにかすかな温もりを放っていた。



クラウスの家では、俺と、デュラン、アイリス、そしてクラウスたち協力者の農夫が集まり今後の作戦を練っていた。


「侯爵の娘は、呪われている。そして、その原因は侯爵自身の強欲にある。俺たちはその確信を得た」


俺の言葉に、農夫たちは息を呑んだ。


「だが、今この事実を公表しても、侯爵は力ずくで揉み消すだろう。俺たちに必要なのは、領民全員が『侯爵はおかしい』と、肌で感じるほどの、決定的な『証拠』だ」


アイリスが、冷静に分析を進める。


「……最も効果的なのは、数日後に迫った収穫祭です。その場で、私たちの畑と侯爵の指示に従った畑の収穫量の違いを、公衆の面前で明らかにします。私が算出した予測データによれば、その差は三倍以上。数字は何より雄弁な証拠となります」


「だが、侯爵が黙って収穫祭を迎えさせるとは思えん」


デュランが、鋭い指摘をする。


「奴は、必ず何か手を打ってくるはずだ。俺たちが育てた麦を収穫前に燃やすくらい平気でやるだろう。そのための口実を今まさに探しているはずだ」


「ああ。だから、その前に俺たちから仕掛ける」


俺は、不敵に笑った。


「侯爵が喉から手が出るほど欲しがる『口実』を俺たちからくれてやるんだ」


俺は、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

そこには、俺が記憶を頼りに書き出した『地根草』に関する全くデタラメな情報が記されていた。


「この『偽の情報』を侯爵の元へ届ける」


羊皮紙には、こう書かれていた。


『地根草は、聖なる力を宿す乙女の祈りによって、その効力を増大させる。だが、その乙女が穢れを知れば草は呪いの毒草へと変じ周囲の生命力を吸い尽くす』


「……なるほどな。リナを『穢れた』ことにし、セラフィーナの病状が悪化したように見せかける、か」


デュランが、俺の意図を理解する。


「ああ。そして、その呪いを解く唯一の方法は『地根草』を全て焼き払い、土地の精霊に謝罪することだ、とも書き加えておく」


「侯爵は、娘の命惜しさに、必ずこの偽情報に食いつく。そして、自らの手で俺たちの畑を焼き払うよう領民に命じるだろう。ゴードン殿の教えが正しいと証明する、あの黄金の麦をな」


「……だが、そうなったら、俺たちの努力が水の泡じゃねえか」


クラウスが、心配そうに言う。


「いや、それでいいんだ」


俺は、断言した。


「侯爵が、領民たちの希望である麦を自らの手で焼かせる。その光景こそが領民たちが侯爵の支配から完全に目を覚ますための、何よりの『儀式』になる」


「……お前、本当に恐ろしいことを考えるな」


デュランが、呆れたように、しかしどこか楽しそうに言った。


その時だった。

今まで黙って話を聞いていたリナが、おずおずと、しかしはっきりとした声で口を開いた。


「……あの、ユキさん。それは……正しいことなのでしょうか」


「……リナ?」


「セラフィーナ様は……病気で苦しんでいる方です。その方を、お父様を騙すための道具のように使うのは……。なんだか、私……」


リナの瞳には、戸惑いとかすかな痛みの色が浮かんでいた。


彼女の言葉に、俺はハッとさせられた。

そうだ。俺はいつの間にか最も大事なことを見失っていたかもしれない。

勝つためには、手段を選ぶべきではないのか?

俺は、俺が最も嫌う、人の心を駒のように使う人間になりかけているのではないか?


俺は、リナの前に膝をつき、その瞳を真っ直ぐに見た。


「リナ。君の言う通りだ。教えてくれて、ありがとう」


「俺の計画は、まだ不完全だった。セラフィーナ様を道具にはしない。彼女もまた、俺たちが救うべきこの土地の被害者の一人だ」


俺は、計画を修正する。


「俺たちがリークする情報は、一つだけだ。『セラフィーナ様の呪いは、土地の精霊の怒りであり、その怒りを鎮めるには、収穫祭の日に領地で最も穢れなき乙女が最も豊かに実った麦を捧げる必要がある』――と」


「……それは」


「ああ。侯爵は、自分の娘を救うために、リナを『穢れなき乙女』として祭り上げ、俺たちの畑の麦を『最も豊かに実った麦』だと自ら認めざるを得なくなる」


「彼は、自分の嘘を自分でひっくり返すことになるんだ。プライドの高い彼にとって、これ以上の屈辱はないだろう」


俺の新しい計画に、仲間たちは息を呑んだ。

そして、デュランが満足そうに笑った。


「……カッカッカ! そいつはいい! 最高の『ざまぁ』じゃねえか!」


リナの瞳にも、安堵の色が浮かんでいた。

俺たちの、最後の戦いの準備は整った。

それは、剣と魔法の戦いではない。

人の心と、嘘と真実を巡る壮大な情報戦だ。

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