東部への道
王都は、収穫祭を間近に控え、浮かれたような空気に満ちていた。
だが、その喧騒を背に俺たちは城の裏門から密かに東を目指していた。
アウディットが手配してくれた、最速の馬。
そして、最低限の旅装。
公式には、国王の名代として「東部の収穫状況を視察する」という名目だが、実態はたった四人での敵地への潜入作戦だ。
「……ユキ、本当にいいのか」
馬上で、デュランが厳しい表情で俺に尋ねた。
彼の視線の先には、同じく馬に乗り、必死に俺たちについてくるリナとアイリスの姿があった。
「あの二人を、危険な場所に連れて行くことになる。俺とお前だけで行くべきだったかもしれん」
「いや、彼女たちの力が必要になる」
俺は、断言した。
「デュラン、今回の敵は、ただのならず者じゃない。マーカム侯爵という、一国の領主だ。彼の領地で、俺たちが正面から剣を振るえば、その瞬間に反逆者として指名手配されるだろう」
「力だけでは勝てない。必要なのは、知恵と人の心を動かす力だ」
俺の言葉に、デュランは黙り込んだ。
彼も、それが正論であることは分かっているのだ。
今回の任務における、俺たちの役割分担は明確だった。
デュランは俺たちを守るための「剣」。
アイリスは、その驚異的な記憶力で、敵の情報を分析し作戦を立案する「頭脳」。
そして、リナ。
彼女は、暴動に駆り出された農民たちの憎しみに満ちた心を癒やすための、唯一の「希望」。
俺は、馬上で小さく震えるリナに声をかけた。
「リナ、怖いか?」
「……少し。でも、大丈夫です」
彼女は、強い意志で俺を見つめ返した。
「ゴードンさんは、私に土の匂いや、作物が育つ喜びを教えてくれました。私にとって大切なお爺ちゃんみたいな人です。だから、私も助けたい」
彼女は、もう守られるだけの少女ではなかった。
自分の意志で、戦うことを選んだのだ。
アイリスもまた、冷静な表情の裏に熱い決意を秘めていた。
彼女は、離宮にあった東部に関する全ての資料を昨夜のうちに全て記憶してきていた。
「ユキさん。マーカム侯爵の領地の地図、主要な村の位置、そして侯爵家の家系図と主な家臣のリストは、全て頭に入っています」
「それと、気になる情報が一つ。侯爵には、数年前から原因不明の病に臥せっている、一人娘がいるようです」
「……病気の娘、か」
それが、この戦局を覆すための重要な鍵になるかもしれない。
俺は、その情報を心に留め置いた。
♢
馬を飛ばし、二日が過ぎた。
俺たちは、ついにマーカム侯爵の領地である東部穀倉地帯へと足を踏み入れた。
そこは、異様な光景だった。
黄金色に輝くはずの麦畑は収穫されずに放置され、立ち枯れている。
村々の入り口は、粗末なバリケードで封鎖され、鋤や鍬を手にした殺気立った農民たちが見張りをしていた。
俺たちは身分を隠し、ただの旅人として最初の村で情報を集めることにした。
村の酒場は昼間だというのに多くの農民たちでごった返していた。
彼らの顔には、豊作を前にした喜びなど微塵もなく、代わりに不安と怒りとそして扇動された憎しみが渦巻いていた。
「聞いたか? あのゴードンとかいう爺さんは、王都から送り込まれた悪魔だそうだ」
「ああ。『地根草』なんていう呪いの草で、俺たちの土地の精霊様を怒らせちまったんだ」
「このままじゃ、来年は不作どころか、草一本生えない死の大地になっちまうぞ!」
根も葉もない、馬鹿げた噂。
だが、長年、土地と共に生きてきた純朴な農民たちにとって、「土地の精霊の怒り」という言葉は何よりも恐ろしいものだった。
マーカム侯爵は、彼らの信仰心と無知を利用し、巧みに憎しみを煽っているのだ。
デュランが、怒りに拳を握りしめる。
「……ふざけやがって。ゴードン爺さんの努力を、踏みにじるような真似を」
「待て、デュラン。ここで騒ぎを起こすな」
俺は、彼を制した。
その時、酒場の入り口が騒がしくなった。
数人の侯爵の私兵らしき男たちが、一人の若い農民を突き飛ばしながら入ってくる。
「おい、お前! まだ税を納めていないそうだな! マーカム侯爵様への忠誠が足りないのか!」
「ま、待ってください! 今年の収穫がまだで、金が……!」
「言い訳は聞かん! 払えないのなら、その娘を差し出せ!」
私兵の一人が、若い農民の背後に隠れる小さな娘に下卑た視線を送った。
周囲の農民たちは、その横暴な振る舞いに眉をひそめながらも誰も止めようとはしない。
侯爵に逆らうことの恐ろしさを、誰もが知っているのだ。
「……ユキ」
デュランが、俺の顔を見る。
その目は、「どうする?」と問いかけていた。
俺は、静かに頷いた。
見過ごすわけには、いかない。
それに、これは好機でもあった。
農民たちの信頼を得るための絶好の機会だ。
俺は立ち上がり、私兵たちの前に進み出た。
「待ってもらおうか。その税、俺が代わりに払おう」
俺の言葉に、酒場中の視線が一斉に俺に突き刺さった。
私兵のリーダーらしき男が、面白そうに俺を睨みつける。
「……なんだ、てめえは。どこのどいつか知らねえが、英雄気取りか?」
「ただの、お節介な旅人さ」
俺は、金貨袋から数枚の銀貨を取り出し、テーブルの上に置いた。
「これで、彼の税金分は足りるだろう。娘さんには、手を出さないでもらいたい」
私兵は、銀貨を一瞥すると、ニヤリと笑った。
「足りるかよ。延滞税も合わせて、金貨で三枚は貰わねえとな」
「払えないなら、そっちの連れの娘たちでもいいぜ?」
彼の視線が、リナとアイリスに向けられる。
その瞬間、デュランの我慢が、限界を超えた。
「――その汚え眼を、どけろ」
デュランが、一歩前に出る。
ただ、それだけで、酒場全体の空気が、凍りついた。
彼が放つ闘気は、もはやただの元騎士のものではなかった。
伝説の片鱗をその身に宿す、本物の強者の気配。
私兵たちが、思わず後ずさる。
「……な、なんだ、てめえは……!」
「俺は、こいつらの仲間だ。そして、お前たちのようなクズが大嫌いな、ただの男だ」
デュランは、右手をゆっくりと剣の柄にかけた。
「命が惜しければ、その銀貨だけ持って、とっとと消えな」
彼の、静かだが絶対的な威圧感に、私兵たちは完全に気圧されていた。
リーダーは、顔を真っ赤にして震えていたが、やがて、テーブルの上の銀貨をひったくると、捨て台詞を残して逃げるように去っていった。
「お、覚えてやがれ……!」
後に残されたのは静まり返った酒場と、呆然とする農民たち。
そして、俺たちの前に深々と頭を下げる若い農民親子の姿だった。
俺たちの、東部での戦いは、こうして静かに火蓋を切った。
まだ、ほんの小さな火種。
だが、この火種が、やがて侯爵の支配を焼き尽くす大きな炎になることを俺だけは確信していた。