聖女の値段
奴隷商人の一団へ向かう、泥濘の一歩一歩が、やけに重かった。
ボルゾフに罵倒された時ですら、ここまで心臓は高鳴らなかった。
これから俺がしようとしているのは、無謀な博打だ。
全財産はギルドから投げつけられた銀貨数枚。
対する相手は、屈強な護衛を連れた裏社会の人間だ。
俺のスキル【未来価値鑑定】は、戦闘力には一切寄与しない。
殴られれば死ぬし、斬られればそこまで。
だが、俺はもう、自分が見た「未来」から目を逸らしたくなかった。
♢
雨を避けるように、岩陰で火を囲む一団が見える。
奴隷商人とその護衛たちだろう。
全部で五人。
誰もが荒事になれた油断ならない空気を放っている。
檻に繋がれた奴隷たちは、荷馬車の下で家畜のように身を寄せ合っていた。
その中に、未来の聖女の姿もあった。
「……何の用だ、小僧」
俺が近づくと、一番近くにいた大柄な護衛が、鞘に手をかけながら凄んできた。
俺は震える声を抑え込み、一団のリーダーと思しき口髭の男に声をかける。
「その……檻の中にいる、病気の女の子を譲ってはもらえないでしょうか」
俺の言葉に、男たちは一瞬きょとんとし、次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。
「ハハハ! 聞いたか今の? このガキ、あの出来損ないを売ってくれだとよ!」
口髭の男――リーダーが面白そうに俺を値踏みする。
「金はあるのか? あの娘は病気で商品価値は低いが、タダでくれてやるほど俺たちもお人好しじゃねえぞ」
俺は懐から、けして軽くはないはずの、しかし今は絶望的に軽く感じる銀貨袋を取り出した。
「……これだけ、しか」
銀貨が数枚、チャリ、と寂しい音を立てる。
リーダーは、鼻で笑った。
「話にならねえ。そいつはもう長くないだろうが、どこかの屋敷に放り込めば床掃除くらいはできる。銀貨数枚よりは高く売れるさ。消えな、小僧。これ以上うろつくと、お前も檻の中に入れてやるぞ」
護衛たちが、再び立ち上がる。
万事休すか。
暴力では勝てない。
金もない。
――いや、まだだ。
俺には、このスキルがある。
ボルゾフは言った。
「未来なんぞ、腹の足しにもならん」と。
なら、証明してやる。
未来は、武器になると。
俺は意識を集中させた。
俺は視界に鑑定のリングUIを展開させる。
鑑定対象は、彼らの一団そのもの。
人、物、馬車、積荷……何か、交渉材料になるものは。
俺は心の中で強くイメージする。
「この状況を打開できる、『未来価値』はどこだ?」
すると、俺のスキルがまるで磁石のように一つの対象に引き寄せられた。
彼らが最も大事にしているであろう、一番大きな荷馬車。
俺は、それにアクティブ鑑定を発動した。
【対象:奴隷商人の荷馬車】
【現在価値:木製の大型馬車(積載量大)】
【未来価値:車軸が折れ、谷底へ転落した残骸(修理不能)】
――これだ!
俺は、さらに鑑定を深掘りする。
【破損予測:左後輪の車軸に微細な亀裂あり。約三時間後、次の下り坂で積載重量に耐えきれず完全破断】
【回避条件:『鉄カシワ』の樹液による補強】
見えた。
勝利への道筋が。
俺は顔を上げ、先ほどとは違う、静かな確信を込めた声で言った。
「あんたたち、このままだと死ぬぜ」
「……あ?」
護衛の男が、眉をひそめる。
俺は、荷馬車を指さした。
「その一番大きな荷馬車の、左後ろの車軸。もうすぐ折れる。次の下り坂で、あんたたちは荷物ごと谷底行きだ」
リーダーの顔色が変わった。
「……なぜそれを知っている」
「俺は鑑定士の端くれでね。物の声が聞こえるのさ」
咄嗟に、そう嘘をついた。
リーダーは部下に目配せする。
部下の一人が、言われた通り荷馬車の車軸を松明で照らし、丹念に調べ始めた。
「お、親方! こいつの言う通りだ! 髪の毛みてえなヒビが入ってやがる!」
一団に、動揺が走る。
リーダーは、改めて俺を睨みつけた。
その目にはもう、侮りの色はない。
警戒と、わずかな畏怖が混じっている。
俺は、畳みかけた。
「だが、助かる方法はある」
俺は振り返り、谷の森に鑑定のリングを向ける。
心の中で念じる。
「補強素材として、最高の未来価値を持つものを」と。
スキルが即座に共鳴し、森の中の一本の木だけが俺の視界の中で淡く光った。
「この谷には『鉄カシワ』っていう珍しい木が生えてる。その樹液は、乾くと鉄みたいに硬くなる。それを塗り固めれば、王都まで余裕で持つだろう」
「……その木は、どこにある」
「教えるさ。手伝ってやってもいい」
俺は、檻の中のリナを顎でしゃくった。
「交換条件だ。その娘を、俺にくれ。あんたたちにとっても、悪くない話じゃないか? 壊れた荷馬車と、病気の奴隷。どっちが厄介払いになるか分かるだろう?」
リーダーは、腕を組み、しばらく黙り込んだ。
彼の頭の中で、天秤が揺れ動いているのが見えた。
やがて、彼はため息をつくと言った。
「……いいだろう。取引成立だ。だが、もしお前の話がデタラメだったら、その時はお前をあの娘の代わりに檻にぶち込んでやるから、そう思え」
♢
取引は、滞りなく行われた。
俺は男たちを光って見えた木――鉄カシワの元へ案内し、彼らが斧でつけた傷口から染み出す蜜のように粘度の高い樹液を採取させた。
それを車軸の亀裂に塗り固め、焚き火の熱であぶると、樹液はまるで金属そのもののように瞬く間に硬化し、ヒビを完全に塞いでしまった。
リーダーは、舌を巻きながらも約束を守り、未来の聖女を繋いでいた鎖の鍵を俺に放り投げた。
彼は最後に、忌々しそうに、だがどこか興味深そうに俺に言った。
「小僧、お前……一体何者だ?」
「ただの、追放された鑑定士だよ」
俺がそう答えると、男はそれ以上何も言わず、一団を率いて谷を出ていった。
後に残されたのは、静寂と、冷たい雨と、そして檻の中で気を失ったように眠る一人の少女。
俺は、震える手で鍵を開け、痩せた彼女の体を慎重に抱きかかえた。
軽い。
羽のように軽い。
枯泉のほとりまで彼女を運び、焚き火を起こして体を温める。
俺は、眠る彼女の顔と、そして目の前の枯れた泉を交互に見た。
聖女と、聖泉。
途方もない「未来価値」を、俺はこの両腕に抱えている。
だが、その価値を現実にするための道筋は、あまりにも遠く険しい。
ボルゾフに、ざまぁみろ、と言える日は来るのだろうか。
今はまだ、何もかもが不確かだった。
ただ、胸の内には、追放されたあの日にはなかった、小さな、だが確かな熱が灯っていた。