王都の大図書館
ゴードンを仲間に加えた俺たちの最初の仕事――東部穀倉地帯の再生計画は、アウディットの全面的な支援のもと、驚くべき速さで進展していた。
ゴードンは、まるで水を得た魚だった。
彼は、アウディットが用意した権限を最大限に使い、東部の役人たちに的確な指示を飛ばす。
デュランは、アストレアの圧倒的なパワーで、石灰岩の採掘と粉砕を一手に引き受けた。
その作業効率は、百人の屈強な鉱夫にも匹敵しただろう。
そして、リナ。
彼女は、まだ自分の力に戸惑いながらも、『地根草』の苗床に毎日祈りを捧げてくれた。
彼女の聖なる力を浴びた苗は通常よりも遥かに速く、そして力強く成長していった。
俺は、それら全ての進捗を管理し、必要な物資や人員を手配するプロジェクトリーダーの役割を担っていた。
初めての経験だったが、不思議と戸惑いはなかった。
【未来価値鑑定】のスキルが、常に最善の選択肢をまるで設計図のように示してくれていたからだ。
だが、そんな順風満帆な状況の中で俺は新たな壁にぶつかっていた。
それは、アウディットとの交渉の際、俺が切り札として使ったあの言葉。
『この王都には、あんたたちが見捨てた眠れる才能がまだ何十人もいる』
豪語した手前、俺はアウディットに、次なる「人材発掘」の成果を示す必要があった。
しかし、王都はあまりにも広く、人が多すぎた。
心のコンパスを頼りに、やみくもに歩き回っても、無数の微弱な「共鳴」に惑わされるだけだ。
もっと効率的に、的を絞って探す方法はないものか。
俺は、一つの可能性に思い至った。
才能ある者が必ずしも表舞台にいるとは限らない。
むしろ、不遇な者ほど、歴史や知識の中に救いを求め、静かな場所に集まるのではないか。
俺は、テーブルに広げた王都の地図を指さした。
「これから俺たちが国を創っていく上でどうしても必要なものがあと一つある。デュランの『力』、リナの『心』。それに加えて、俺たちの進むべき道を指し示してくれる『知恵』。――俺たちの、頭脳となる仲間だ」
「……頭脳、だと?」
デュランが、怪訝な顔をする。
「ああ。俺の鑑定は未来の『答え』は示してくれるが、そこに至るまでの『過程』には膨大な知識と情報が必要になる。法律、歴史、地理、魔術……それら全てを、俺一人でカバーすることはできない」
「だから、探しに行くんだ。俺たちの三人目の仲間を」
♢
俺たちが向かったのは、王都の中央に、まるで巨大な賢者のように静かに佇む「王国大図書館」だった。
そこは、アレイティア王国の叡智の全てが集められた、大陸でも有数の知の殿堂。
俺のような平民は、普段なら足を踏み入れることすら許されない場所だ。
だが、「適性査定庁 特別顧問」の紋章は、重々しい図書館の扉をいとも簡単に開かせた。
中に入ると、ひんやりとした古い紙とインクの匂いが俺たちを迎えた。
天井は、教会のドームのように高く、そこから差し込む光が空気中を舞う無数の埃をキラキラと照らしている。
見渡す限り壁という壁は全て書架で埋め尽くされ、迷宮のようにどこまでも続いていた。
「……すごい場所だな。王城よりもよっぽど荘厳だぜ」
デュランも、感嘆の息を漏らす。
リナは、生まれて初めて見る本の量に目を輝かせていた。
俺は、ゆっくりと図書館の中を歩き始めた。
心のコンパスを、静かに開く。
ここならば、貧民街のように絶望が渦巻いていることも、貴族街のように欲望が渦巻いていることもない。
純粋な「知」の気配だけが、満ちている。
俺は、心の中で念じた。
「この場所で、最も輝かしい未来価値を秘めている人物は誰だ?」
すると、俺の心のコンパスが、強く、しかし静かにある一点を指し示した。
それは、図書館の奥深く、一般の閲覧者は立ち入らない古文書の修復室だった。
俺たちがその部屋を覗くと、そこには一人の少女がいた。
年の頃は、リナと同じくらいだろうか。
山のように積まれた古文書に埋もれるようにして、彼女は黙々と破れたページを修復する作業をしていた。
銀縁の眼鏡の奥の瞳は真剣そのものだ。
【対象:図書館司書見習い アイリス】
【現在価値:要領の悪い落ちこぼれ(価値:D)】
【未来価値:失われた叡智を司り、国の頭脳となる《大賢者》(国家至宝級)】
【特性:一度見たものを決して忘れない《完全記憶能力》】
【条件:彼女の『記憶』の本当の価値を認め、それを活かす『役割』を与えること】
――国家至宝級。ゴードンと同じ、最高ランクのポテンシャル。
だが、【現在価値】は、最低のDランク。
このギャップは、一体何だ?
俺がその場で立ち尽くしていると、部屋の奥から年配の司書長らしき男が現れた。
彼は、アイリスの仕事ぶりを一瞥すると深いため息をついた。
「アイリス! またお前は、そんな誰も読めんような古い本ばかりにかまけて! 頼んでおいた、新着図書の整理はどうしたんだ!」
「あ……ご、ごめんなさい、館長。すぐに……」
アイリスは、ビクリと肩を震わせ慌てて立ち上がろうとする。
だが、その拍子に積み上げられていた古文書の山を崩してしまった。
ガラガラと、大きな音を立てて羊皮紙の巻物が床に散らばる。
「この、どこまで要領の悪い! お前には本当にがっかりさせられる!」
館長の怒声が、静かな図書館に響き渡った。
「お前のその記憶力は確かに大したものだ。だが、それをどう活かすかという知恵がお前には決定的に欠けている! 優先順位も考えられんようでは、一生、ただの本の虫だぞ!」
アイリスは、青ざめた顔でただ俯いて震えている。
その姿が、かつてギルドで「役立ず」と罵られていた俺自身の姿と重なった。
彼女には、圧倒的な才能がある。
だが、それを正しく評価し、導く者がここには誰もいないのだ。
俺は、ゆっくりと部屋の中に入っていった。
そして、床に散らばった古文書の一つを拾い上げる。
「……館長殿。少し、よろしいでしょうか」
「……何だ、貴様は。適性査定庁の紋章か? ここは、お前のような役人が来るところではないぞ」
俺は、館長の言葉を無視して、手にした古文書をアイリスに見せた。
それは、半分以上が破損し、解読不能と思えるほどボロボロの巻物だった。
「アイリスさん、だったね。君は、この本の内容を覚えているかい?」
俺の問いに、アイリスはおずおずと頷いた。
「……はい。古代エルヴン語で書かれた、第三王朝時代の宮廷詩集の写本、です。破損がひどくて修復は諦めるようにと……」
「その詩集の、17ページ目の、3行目。そこに何と書かれていたか教えてくれないか」
俺の、あまりにも突飛な質問に、アイリスも、館長も、そしてデュランでさえも目を丸くしている。
だが、アイリスは、しばらく考え込むと記憶の海の中からその一文を正確に引き出してきた。
「……『星降りの夜、銀の泉は、月の涙で満たされる』……です」
その言葉を聞いた瞬間、俺は確信した。
俺は、館長に向き直る。
「館長殿。今、王国が総力を挙げて探している初代国王の遺した秘宝のありか。その最後のヒントが、この詩集に隠されているという噂をご存知かな?」
「そして、『銀の泉』とは、王城の地下に隠された礼拝堂の俗称であることも」
「……なっ!? なぜ、お前がそれを……!?」
「アイリスさん。君が今、暗唱してくれた一文こそが、その最後の鍵だ。ありがとう。君のおかげで長年の謎が解けた」
俺は、唖然とする館長を尻目に、震えるアイリスの前に膝をついた。
そして、彼女の目を見て、はっきりと告げた。
「君は、本の虫なんかじゃない。君のその記憶は、この国のどんな宝よりも価値がある偉大な才能だ」
「アイリスさん。俺と一緒に来ないか。君のその力を本当に必要としている場所へ」
俺は、彼女に手を差し伸べた。
「俺たちの未来の国で、初代・王国大図書館の館長になってほしい。いや、君にならこの国の全ての知識を司る《大賢者》にだってなれる」
その言葉に、アイリスの銀縁眼鏡の奥の瞳が大きく見開かれた。
彼女の【未来価値】が、俺の言葉に共鳴し、まばゆい光を放っているのが俺には見えた。
だが、長年植え付けられてきた自己否定はあまりにも根深い。
「……無理、です。私なんかに……。館長の言う通り、私は、要領が悪くて、ただの……」
「違う!」
俺は、彼女の言葉を強く否定した。
「それは、あんたのせいじゃない。あんたの才能を誰も正しく使えなかっただけだ。必要なのはその膨大な知識の中から、今、必要な情報だけを引き出すための『索引』だ。そして、その索引を作るのが俺の役目だ」
「俺が君の『問い』になり、君がその『答え』になる。二人いれば、俺たちはこの図書館のどんな賢者よりも優れた知恵を生み出せる。そうだろ?」
その時だった。
俺の後ろに隠れていたリナが、おずおずと一歩前に出た。
彼女はアイリスの前に立つと、その手をそっと握りしめた。
「……私も、同じでした」
リナが、小さな声で言った。
「私も、自分には価値がないってずっと思ってた。でも、ユキさんは私にも価値があるって教えてくれた。だから……大丈夫です」
リナの、心の底からの言葉。
それは、どんな雄弁な説得よりも、強くアイリスの心に響いたようだった。
アイリスの瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
♢
「……本当に、行くのか。アイリス」
図書館の出口で、館長が気まずそうに声をかけてきた。
彼の声にはもう、怒りの響きはなかった。
ただ、寂しさと、ほんの少しの後悔が滲んでいる。
「……はい」
アイリスは、深々と頭を下げた。
「長い間、お世話になりました」
「……そうか。まあ、お前が決めたことなら、俺がとやかく言う筋合いはねえな」
館長はぶっきらぼうに言うと、一つの革袋をアイリスに押し付けた。
「餞別だ。少しだが、足しにしな」
「……それと、すまなかったな。俺にはお前の価値が見えていなかった」
その言葉に、アイリスは再び涙ぐんだ。
俺たちは、そんな二人を静かに見守っていた。
♢
王国大図書館を後にし、俺たちは再び王都の喧騒の中を歩いていた。
俺の隣を歩くアイリスは、まだ少し俯きがちだったが、その足取りは、来た時よりもずっと軽く見えた。
「ユキさん」
彼女が、不意に俺に話しかけてきた。
「あの……本当に、私でいいんでしょうか。私、本当に役に立てますか?」
「ああ、もちろんだ」
俺は、即答した。
「アイリス。君は、俺たちの三人目の仲間だ。聖女リナ、剣神デュラン、そして、大賢者アイリス。君が加わったことで、俺の設計図はついに完成したんだ」
その言葉に、アイリスは、はにかむように、しかし生まれて初めて心の底から嬉しそうに微笑んだ。
俺たちの、国づくり。
その骨格となる、最後のピースが、今、確かに嵌まった。
物語は、ここから、本当の意味で加速していく。