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最初の協力者

 ゴードンの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 それは、何十年という絶望の末に、彼が初めて流す希望の涙だった。


 彼は、震える手でその涙を拭うと、まるで憑き物が落ちたかのような精悍な顔つきで俺を見た。

 その瞳にはもう、濁った絶望の色はない。

 かつて王国最高の農業技官と呼ばれた知性と情熱の炎が再び燃え上がっていた。


「……小僧、いや。ユキ殿、と言ったか」


 彼の口調は、先ほどまでとは別人のように、はっきりとしていた。


「感謝する。お前さんは、わしが土に埋めて、とうに腐らせたつもりだった『誇り』を掘り起こしてくれた」


「当然のことをしたまでです。あなたの価値は、埋もれていていいものではなかった」


「だが、感傷に浸っている暇はない」


 ゴードンは、まるでスイッチが切り替わったかのように厳しい表情になった。


「東部の土地は、一日、また一日と死んでいっている。一刻の猶予もならん。その『地根草』とやら、詳細はどうなっている? 実物は? 種は? 育成環境は?」


 矢継ぎ早に飛んでくる質問は、専門的で、鋭い。

 これが、彼の本質。

 俺は、鑑定で得た知識を、一つ一つ丁寧に答えていく。

 俺たちのやり取りを、デュランとリナは呆気に取られたように見ていた。


「分かった。話は馬車の中で聞こう。ここにはもう一刻も長居したくない」


 ゴードンは、部屋の隅で埃をかぶっていた古い革鞄を手に取った。

 中には、彼が技官時代に使っていたのであろう手帳や測定器具が、今でも大切にしまわれている。

 彼は、その鞄を肩にかけると、よろめくことなく、しっかりとした足取りで扉へと向かった。

 俺たちは、こうして、記念すべき一人目の協力者をこの絶望の淵から迎え入れたのだ。


 ♢


 離宮に戻る馬車の中は、行きとは全く違う熱気と緊張感に満ちていた。

 ゴードンは、俺が書き出した『地根草』の資料と、アウディットから借りた東部の土壌データを、それこそ穴が開くほど見比べながら俺を質問攻めにした。


「なるほど……この『地根草』の窒素固定能力は、理論値を遥かに超えている。だが、酸性の土壌ではその効果が半減するかもしれん。ユキ殿、対策はあるか?」


「あります。東部の丘陵地帯で採掘できる『石灰岩』。あれを粉末にして土に混ぜ込めば、土壌は中和されます」


 俺は、鑑定で得た知識をさも自分の推論であるかのように語る。


「ほう、石灰岩か! なるほどな! だが、問題は誰がそれを砕き、広大な畑に撒くかだ。東部の穀倉地帯の広さを知らんわけではあるまい。あれは、屈強な男たちが百人いても、数ヶ月はかかる途方もない重労働だぞ。お前さんたち三人で、どうにかなる話ではない」


 ゴードンは、専門家として、計画の穴を的確に突いてくる。

 その言葉に、それまで黙って話を聞いていたデュランが、口を開いた。

 彼は、ゴードンの前に、自らの銀色の義手『アストレア』を、ゴトン、と重々しい音を立てて馬車の床に置いた。


「……爺さん。あんたが心配する『労働力』ってのは、こいつで足りるか?」


 ゴードンは、その異様な義手を、訝しげに一瞥した。

「……なんだ、そいつは。ただの鉄の腕か? 見た目は綺麗だが、そんなもので鋤が握れるとでも?」


 デュランは、何も答えなかった。

 代わりに、彼は馬車の隅に積んであった燃料用の硬い樫の薪を一本掴むと、アストレアでそれを握りしめた。

 ミシミシ、と、木が軋む音がする。

 次の瞬間、バキッ!という轟音と共に、屈強な男でも斧を使わなければ割れないであろう樫の薪が、まるで小枝のように、いとも簡単に握り砕かれてしまった。


「……なっ!?」


 ゴードンは、言葉を失った。

 彼の目は、デュランの銀色の腕に釘付けになっている。


「これならどうだ? 岩の一つや二つ、粉々にするのは造作もない。畑を耕すのだって、こいつなら普通の鋤の百倍は速いだろうぜ」


 デュランは、誇らしげに言った。

 ゴードンは、ごくりと唾を飲むと震える声で尋ねた。


「……おい、その腕。まさか、帝国の魔導義手か……?」


「いいや、違うな。こいつは俺の『相棒』だ」


 デュランはそれ以上何も言わなかったが、ゴードンには十分だった。

 目の前の隻腕の男が、ただの元騎士ではないこと。

 そして、この奇妙な一行が、自分の常識を遥かに超えた「何か」を持っていることを彼は理解したのだ。


 ゴードンは、腹の底から、カカカッ!と豪快に笑い出した。


「面白い! 実に面白いぞ! まさか、わしの農業理論に、そんな化け物じみた力が加わることになるとはな! 罰当たりめが、気に入った!」


 そして、ゴードンは、馬車の隅で静かに座っているリナに優しい視線を向けた。


「……嬢ちゃん。あんたは怖かったろう。すまなかったな」


 リナは、ビクリと肩を震わせたが、ゴードンの瞳に悪意がないことを見て小さく首を横に振った。


「あの……」


 リナが、おずおずと口を開く。


「植物を元気にするのなら、私も……少しだけ手伝えるかもしれません」


 その言葉に、今度はゴードンが目を見張った。

 彼は、俺、デュラン、そしてリナの顔を順番に見回すと、やがて、感極まったように深い深いため息をついた。


「……剣神の腕を持つ騎士に、聖女の祈りを持つ娘、そして、未来を見通す眼を持つ軍師か。おいおい、冗談じゃねえぞ。お前たち、本当に国を創る気かもしれんな!」


 その言葉には、俺たちを試すような響きはもうなかった。

 彼は心の底から、俺たちの途方もない夢物語にその身を投じる覚悟を決めたようだった。


 ♢


 離宮に戻った俺たちは、すぐに謁見室へと向かった。

 アウディットに、交渉の結果を報告するためだ。


 謁見室に現れた彼は、俺の後ろに立つゴードンを見て、わずかに眉をひそめた。


「……彼が、ゴードンか。見たところ、ただの酔いどれ爺にしか見えんが」


「人は、見かけによりませんよ、査察官殿」


 俺がそう言うと、ゴードンがアウディットに向かって深々と頭を下げた。


「……アウディット様。長らくのご無沙汰、誠にご無礼いたしました。このゴードン、生涯をかけて、東部穀倉地帯の再生を成し遂げる覚悟でございます」


 その声の張り、その瞳の力強さにアウディットは目を見張った。

 目の前にいるのが、報告書にあった「酒浸りの老人」とは、到底信じられないのだろう。


「……ユキ殿。君は、一体どんな魔法を使ったんだ?」


「魔法じゃありません。ただ、彼が本来持っていた『価値』を、思い出してもらっただけです」


 俺は、ゴードンが馬車の中で書き上げた、詳細な再生計画書をアウディットに提出した。

 そこには、必要な資材、人員、そして具体的な作業工程が完璧なまでに記されていた。

 それは、何十年も土と共に生きてきた男にしか書けない血の通った設計図だった。


 アウディットは、その計画書に黙って目を通していたが、やがて、一つ頷いた。


「……分かった。計画を承認する。必要な権限と予算は、全て私が手配しよう」


 彼は、ゴードンに向き直る。


「ゴードン殿。貴殿を本日付で『東部農業改革・全権監督官』に任命する。これは、国王陛下からの正式な辞令だ。存分にその腕を振るうがいい」


「ははっ! ありがたき幸せ!」


 ゴードンは、まるで若き日のように力強く頭を下げた。

 失われた誇りを取り戻した老農夫の新たな人生が始まる瞬間だった。


 ゴードンが部屋を出ていくと、アウディットは俺に言った。


「……ユキ殿。君の力、正直まだ半信半疑だった。だが、今のゴードン殿の姿を見て、確信に変わりつつある」


「君は、我が『適性査定庁』の理念……『現在価値』による査定の、正反対にいる。だが、あるいは、それこそがこの国が今、最も必要としているものなのかもしれないな」


 彼の言葉は、彼が俺を単なる「利用価値のある駒」から、認めざるを得ない「パートナー」として見始めた証だった。


 俺たちの最初の仕事は、最高の形で滑り出した。


 だが、俺は知っている。

 これは、まだ壮大な設計図のほんの第一歩に過ぎないということを。

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