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農夫の誇り

 アウディットとの取引から一夜が明けた。

 俺たちの立場は、昨日までとは比べ物にならないほど変わった。


「適性査定庁 特別顧問」という、大貴族でさえ無視できないほどの権威ある肩書き。


 そして、当面の活動資金として支給された、金貨五百枚。

 何より王都内を自由に行動できる許可。


 俺たちはもう、鳥籠の中の鳥ではなかった。


「……それで、最初の一手はなんだ? 早速、そのゴードンとかいう爺さんを口説き落としに行くんだろう?」


 朝食の席で、デュランが、まるで冒険の始まりを待ちきれない子供のように、目を輝かせながら言った。

 銀色の義手『アストレア』を装着して以来、彼は自信を取り戻し、以前とは比べ物にならないほど前向きになっていた。


「ああ、その通りだ。アウディットとの約束を果たすためにも、東部穀倉地帯の問題は最優先で解決しないといけない。これは、俺たちの最初の『仕事』だ」


 俺は、焼きたてのパンをちぎりながら計画を話す。


「デュランには、俺たちの護衛を頼む。貧民街はあまり治安のいい場所じゃない」


「任せておけ。誰であろうと、お前たちには指一本触れさせん」


「リナは……」


 俺は、おずおずとスープを口に運んでいるリナに視線を移した。


「リナは、ここに残っていてもいい。これから行くのは、昨日までの生活とは、また違う場所だ。無理はしなくていい」


 俺がそう言うと、リナは、スプーンを置いた。

 そして、小さな声で、しかしはっきりと、こう言った。


「……私も、行きます」


「……いいのか?」


「はい。ユキさんの、役に立ちたいから。それに……私も、見たいです。ユキさんが『価値がある』って信じた人を」


 その言葉が、何よりも嬉しかった。

 彼女もまた、自分の意志で未来へ向かって一歩を踏み出そうとしているのだ。


「決まりだな。よし、行こう。俺たちの最初の仲間を迎えに」


 ♢


 アウディットから借りた馬車に乗り、俺たちは王都の貧民街へと向かった。

 壮麗な貴族街の白亜の街並みが遠ざかるにつれて、街の空気は一変した。

 道は舗装されておらず、建物の間を流れる水路からは淀んだ匂いが立ち上る。

 道端に座り込む人々は、皆一様に生気を失った瞳で虚空を見つめていた。

 同じ王都でありながら、そこはまるで別の国だった。


「……ひどい場所だな」


 デュランが、吐き捨てるように言った。

 元王国騎士として、彼もまた、この国の光と闇を見てきたのだろう。

 その表情は苦々しさに満ちている。

 リナは、その光景に心を痛めているのか、馬車の窓からじっと外の様子を見つめている。

 その小さな手は、強く握りしめられていた。


 俺の心のコンパスは、その中でも最も寂れた一角にある、一軒のあばら家を強く指し示していた。

 扉を開けると、酸っぱい酒の匂いと長年積み重なった絶望が俺たちの鼻をついた。

 部屋の隅で酒瓶に囲まれ、床で寝転がっている一人の老人。

 彼こそが、ゴードン。


【対象:老農夫 ゴードン】

【現在価値:酒浸りの老人(価値:D-)】

【未来価値:王国の食糧事情を百年安泰させる《大農聖》(国家至宝級)】

【条件:失われた『農夫としての誇り』を取り戻すこと】


 俺は、彼のそばに膝をつき、声をかけた。


「……ゴードン殿、だろうか」


 ゴードンはうっすらと目を開け、濁った瞳で俺を見た。


「……なんだ、貴様ら。施しなら、あいにく持ち合わせがねえよ。さっさと消えな」


「施しじゃない。あんたに、仕事の依頼に来た」


「仕事だと? ハッ、笑わせる。この、ただの酔いどれ爺さんに、一体何の仕事があるってんだ」


 ゴードンは、自嘲するように笑った。

 その笑い声は、ひどく乾いていた。


 俺は、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

 アウディットに頼んで取り寄せてもらった、東部穀倉地帯の最新の土壌データ。


「東部の土地が、死にかけている。あんたなら救えるはずだ」


「……東部だと? あそこの土地はもう終わりだ。貴族どもが、目先の利益のために、無茶な連作を繰り返したせいだ。俺が何度忠告しても聞き入れやしなかった」


 ゴードンは、苦々しげに吐き捨てた。

 彼の追放には、そうした経緯があったのだ。


「だから、あんたには関係ないと?」


 俺は、静かに問いかけた。


「あんたが人生を捧げた、この国の土が、あんたの研究が、あんたの誇りが、今まさに踏みにじられようとしている。それを見捨てるのか?」


「……小僧が、知ったような口を」


 ゴードンの目に、一瞬だけ鋭い光が宿った。


 俺は、畳みかけずに、別の角度から彼の心を揺さぶる。

 俺の鑑定は、彼の「未来」だけでなく、その人が最も輝いていた「過去」の断片も共鳴として感じさせることがある。


「あんたが二十年前に発表した『腐食土壌における輪作理論』の論文を読んだ。素晴らしい理論だった。だが、貴族たちに握り潰された。違うか?」


「特に、北部の寒冷地で収穫量を上げるために提唱した『月麦げっぱく』の試験栽培。あれは画期的だった。もしあれが実用化されていれば、北の民は飢えに苦しむことはなかったはずだ」


 俺の言葉に、ゴードンの動きがピタリと止まった。


『月麦』。

 それは、彼の数ある研究の中でも、誰にも理解されず、歴史の闇に葬られた彼だけの挑戦だったはずだ。


「……なんだと? なぜ、お前が『月麦』のことを……。あれは、とうに破棄されたはずだ」


「あんたの理論は、間違ってなんかいなかった。ただ、時代があんたに追いついていなかっただけだ」


 ゴードンは、俺の言葉に、何も言い返せなかった。

 ただ、その濁った瞳がわずかに揺れている。

 彼の心の壁が少しだけ崩れたのが分かった。

 俺は、ここで最後の切り札を切る。


 俺は、懐から「何も書かれていない、真新しい羊皮紙」とインクを取り出した。

 そして、ゴードンの目の前でペンを走らせ始める。


「……何をしている、小僧」


「あんたの理論を完成させる最後のピースを今から書き出す」


 俺は、アウディットとの交渉の際に、鑑定スキルで脳内にダウンロードした『地根草』の知識を、記憶の中から正確に引き出す。

 植物の精密なスケッチ、その根が持つ特異な構造、そして土壌の窒素を固定するという有効成分の化学的な解説。

 俺は、まるで一流の植物学者か錬金術師のように、淀みなくその全てを羊皮紙に書き記していった。


 ゴードンは、最初、俺の奇行を訝しげに見ていた。

 だが、羊皮紙に描かれていく植物の姿と、そこに書き連ねられる専門的な記述に彼の顔から酔いどれの表情が消えていく。

 代わりに宿ったのは、かつて王国最高の技官と呼ばれた探求者の光だった。


「これは……なんだ。この植物は……。この成分は、まさか……土壌の窒素固定を強制的に活性化させるだと?馬鹿な、こんな植物が存在するはずが……いや、しかし、この構造なら理論的には……」


 ゴードンは、完成した羊皮紙をひったくるように掴むと、その内容を震える手でむさぼるように読み始めた。

 彼はまるで憑き物が落ちたかのように立ち上がると、俺の肩を掴んだ。


「小僧、お前は一体何者だ? なぜ、これを……」


 俺は、彼の目を真っ直ぐに見て静かに頭を下げる。


「俺は、ユキ・ナガエ。あんたの価値を、あんたの誇りを誰よりも信じている男だ」


「ゴードン殿。あんたの力をこの国のために貸していただけませんか?」


 ゴードンの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 それは、何十年という絶望の末に彼が初めて流す希望の涙だった。

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