追放鑑定士と見捨てられた谷
新作です。
並行して執筆開始します。よろしくお願いします。
じっとりとした秋の雨が、アレイティア王国の街道を黒光りする泥濘へと変えていた。
その道端で、俺――ユキ・ナガエは、たった今、全てを失った。
「もう一度言う、ユキ。お前はクビだ」
革張りの豪華な馬車から身を乗り出し、俺を見下すのは所属していた商人ギルドの長、ボルゾフだ。
彼の肥えた指が、雨に濡れて重くなった俺の「鑑定記録手帳」を侮蔑的に指さす。
「お前の鑑定は、我々のギルドの恥だ。いい加減にしろ、この夢想家が!」
まただ。
ボルゾフの怒声を聞きながら、俺は胸の奥で微かにざわめく感覚を押し殺した。
俺のユニークスキル【未来価値鑑定】は、時折、人や物に秘められた途方もない可能性に「共鳴」する。
だが、この感覚に従って正直に報告するたび、俺を待っていたのは嘲笑と叱責だけだった。
「思い出させてやろうか? 先月、お前が『英雄の遺産だ』と鑑定した錆びた兜! 結果はどうだった? ただの打ち捨てられた兵士の兜だった! おかげで俺は貴族どもの笑いものだ!」
違う。
あれは確かに英雄の兜だったはずだ。
ただ、【条件】が「持ち主が九死に一生の冒険を乗り越えること」だっただけで……。
俺の鑑定結果は、あまりにも条件が突飛で不確実すぎた。
そのため、俺は一度もギルドに成果をもたらしたことがなかった。
そんなおとぎ話を口にしても、火に油を注ぐだけだ。
俺は、この十年、自分のスキルが見せる「共鳴」を、「妄想」であり「呪い」なのだと自分に言い聞かせ、無視することを学んできたのだ。
♢
ボルゾフは馬車から降り、従者に合図した。
従者が手にしていたのは、鳥の骸を模した不吉な形の焼きごて。
ギルドの追放者に押される、屈辱の烙印。
「やめ…」
抵抗する間もなく、俺は羽交い締めにされ手帳が奪われる。
そして、ボルゾフ自身の手で焼きごてが手帳の革表紙に押し付けられた。
ジュッ、という肉が焼けるような音と焦げ付く匂いが鼻をつく。
表紙に深く刻まれた「追放印」。
これを持つ者は、どのギルドにも雇われることはない。
鑑定士としての俺の未来が完全に閉ざされた。
これで、もう期待もされない。
このおかしな「共鳴」に、惑わされなくて済むんだ。
なぜか、ほんの少しだけ安堵している自分がいた。
♢
銀貨数枚の退職金(という名の追い出し賃)を泥の上に投げつけられ、走り去る馬車を見送る。
俺が向かう先は、一つしかなかった。
「見捨てられた谷」。
岩と枯れ木ばかりで、作物も育たず、魔獣さえ生命の気配を嫌って寄り付かない不毛の地。
王都の誰もが、文字通り「価値ゼロ」と断じられた場所。
追放者が最後に流れ着く、世界の掃き溜め。
王都を離れるにつれて、不思議と頭の中が静かになっていくのを感じた。
いつも微かに聞こえていた、無数のささやき声のような「共鳴」が遠ざかっていく。
『パン屋の才能』『石工の才能』……そんな、取るに足らない未来の残響が渦巻く王都の喧騒に比べ、この谷はあまりにも静かだった。
ここには、何もない。
何の才能も、何の未来も。
だから、俺の頭の中は生まれて初めて経験するほど穏やかだった。
♢
降りしきる雨の中、何時間歩いただろうか。
思考はとうに停止し、ただ足を前に運ぶだけの肉塊と化していた。
やがて、視界が開け、巨大な窪地が姿を現す。
見捨てられた谷だ。
そこは、生命の色が完全に抜け落ちた、灰色の絵画のような場所だった。
風が岩肌を舐める音が、まるで世界の嗚咽のように聞こえる。
水も食料も、もうない。
俺は、まるで引力に引かれるように、谷の中心でかろうじて形を保っている枯れ果てた泉の跡へと歩み寄った。
岩の間から、一滴の水も染み出してはいない。
「……ここまで、か」
膝から崩れ落ち、泥水に手をつく。
ボルゾフの顔、仲間たちの嘲笑、そして何もできなかった自分。
どうせ終わるなら、最後にこの呪いだと思っていた力で、自分の最期くらい視てやるか。
その完全な静寂を破ったのは、唐突な心の奥底からの「叫び」だった。
今まで感じたどんな微弱な共鳴とも違う。
たった一つの、強烈な光が俺の意識を無理やり引き寄せる。
俺の視線は、その引力に導かれるまま自然と枯れた泉へと向けられた。
俺は、まるで何かに憑かれたように立ち上がり泉に手をかざす。
意識を向けると、脳内にこれまで見たこともないほど鮮明で力強いビジョンが流れ込んできた。
【対象:名もなき枯泉】
【現在価値:0】
【未来価値:アレイティア王国の生命線となる《大聖泉》(国家戦略級)】
「――は?」
声にならない声が漏れた。
国家戦略級? この、埃をかぶった水たまりが? また幻覚か?
いや、違う。
これは、本物だ。
雑音のないこの谷だからこそ、俺は初めて自分のスキルの「本当の声」を聴いたのだ
【条件:聖女の祈り】
【代償:■■■■■■】
「聖女…?」
そんなおとぎ話の存在が……。
そして、初めて見る黒塗りのタグ。
「代償」。
これが意味するものは…。
俺がその場で立ち尽くしていると、遠くから地響きと共に重い車輪の音が聞こえてきた。
雨でぬかるむ道を、ゆっくりと進んでくる一団。
掲げられた旗は、奴隷商人の紋章。
関わり合いになるのはごめんだ。
俺は身を隠そうとした。
――だが、その瞬間、泉の時とはまた違う、ちくん、と胸を刺すような切ない共鳴が俺を襲った。
そこに、一人の少女がいた。
年の頃は十代半ば。
泥と垢に汚れ、痩せこけてはいるが、その瞳だけが全てを諦めたように静かに虚空を見つめていた。
鎖に繋がれた手足は、痛々しい傷だらけだ。
その時、俺のスキルが彼女の内側でかろうじて輝いている「未来の価値」に、激しく共鳴していた。
俺は、ゴクリと唾を飲み込み、彼女に意識を集中させる。
【対象:奴隷の少女 リナ】
【現在価値:銅貨30枚(病弱なため)】
【未来価値:穢れを祓い、国を救う最後の希望《救国の聖女》(伝説級)】
【条件:彼女が、自分自身を許すこと】
――伝説級。
心臓が鷲掴みにされたかのように跳ねた。
枯泉の条件は「聖女の祈り」。
そして目の前に聖女のポテンシャルを持つ少女がいる。
まただ。
また、この呪いが俺におとぎ話を見せている。
できるはずがない。
俺なんかに、救えるはずがない。
長年、心に刻み込んできた諦めの言葉が自動的に脳裏に浮かぶ。
だが……。
俺を笑うボルゾフはもういない。
俺を縛るギルドもない。
この静かな谷には、俺の「妄想」を否定する者は誰もいない。
ボルゾフの声が脳裏に響く。
「おとぎ話で、今日のパンが買えるか!」
その通りだ。
今の俺には、この少女一人救う金もない。
無力だ。
……本当に、そうか?
気づけば、俺は立ち上がっていた。
追放され、全てを失い、価値ゼロと断じられた俺が、同じように「価値がない」とされている少女を、泉を、この谷を見捨てていいはずがない。
ボルゾフに笑わせればいい。
俺はこの人生で初めて、自分が見た「おとぎ話」を選ぶ。
俺は、泥濘に足を取られながらも、奴隷商人の一団へと向かってまっすぐに歩き出していた。
自分を縛り付けていた、過去の亡霊を振り払うように。
俺はまだ知らない。
これが、やがて大陸の歴史を揺るがす、壮大な物語の始まりになるということを。
♢
そして、遠く離れた谷の稜線の向こうに、ガルバニア帝国の偵察部隊が掲げる翼を持つ獅子の軍旗が一瞬だけ翻っていたことにも、まだ誰も気づいてはいなかった。