8 事実
文献や資料だけで知識は埋まるわけではない。
フィーリはそれを実感していた。
この断崖絶壁の崖から望めるのは二次元の蒼。
どこまでも一線を引く蒼と青が凪いでいる。
空の真向かいにたゆたうこの広い湖を、人は海と呼ぶ。
「行くぞ」
声をかけてきたのは、フィーリよりも少し年上に見える少年である。
色素が元々薄いのか、淡い金髪に生白い肌は日に焼けた気配がない。
野戦服を着ていても、まだ学生のような少年にはひどく不似合いだった。
フィーリは少年に従って、絶壁より少し内側の森に入る。森といっても、人の足に均された道が縦横に走る森である。
海と山が隣接する地形のここは、理想的な港として知られている。実際、森を抜ければ巨大な港都市が見える。
そんな街の手前で人の目をはばかるように森に潜んでいるのは、一筋縄ではいかない理由があるからだ。
森の中心部には小さなテントが張ってあった。見張りの、やはりまだ若い少年が野戦服姿でテントの前に立っている。こちらに気付くと、テントの入り口に向かって目配せする。
金髪の少年についてテントに入ると、すっかり顔見知りになってしまった中年の男と見慣れた顔がテーブルに地図を広げている。
「フィーリ。海はどうだったかな」
フィーリに気付いて顔を上げたのは中年の男だった。
「ありがとう。ミヤンダさん。面白かったわ。海って幾ら眺めていても飽きないのね」
フィーリの感想に、中年の男は日に焼けた顔を綻ばせた。元々、彼は船乗りだったらしい。本来ならば、こんな場所でコマを片手に地図とにらみ合ってなどいないはずなのだ。
「……とりあえず、補給部隊を潰しておくべきだろう」
中断したらしい話を再開させたのは、エマーだ。
彼は街の港部分をコマで指す。
「部隊を分散する必要はない。動きを気取られる可能性がある。……そうだな。俺に二人ほどもらう」
中年の男、ミヤンダは頷く。だが、フィーリに向かって視線を送る。この娘に聞かれてもいいのか、というようだ。
「コイツは俺が連れて行く。一応、ボディ・ガードだしな」
「……しかし、こんなお嬢さんが?」
「腕は立つ。今、ここで見せてやるわけにもいかないが」
二人の会話を聞きながら、フィーリは内心溜息をつく。
東に抜ける街道の先に、大陸の端にあたる港街がある。連邦同盟国の一国と帝国と隣接するこの街は、戦争時には重要な拠点だった。
そう話して聞かせたのは、もちろんエマーである。更にツァンの話よれば、帝国が抑えていたこの港を元々の領主に返還することで協力をとりつけたのが、エマーだという。
そんな、縁の薄い場所ではない街で暗躍行為などやってもいいのだろうか。
ミヤンダと話を終えたエマーに尋ねると、彼は頭を掻いただけだった。
「もう話してあるから、ある程度は平気だろう」
「……そんなことだろうとは、思ったけどね」
ツァンが言い出したのは、この東の連邦国で起ころうとしている内乱を止めることだった。
不可抗力とはいえ、ツァンの手勢を減らしてしまったフィーリ達に、自分の仕事を手伝えと要求してきたのだ。ツァンは元々、内乱を止める依頼を、とある筋から依頼を受けて夜盗まがいのことやテロまがいの活動を手伝っていたらしい。それが、思わぬ伏兵の出現で怪我人を出してしまった。このままでは仕事の進行にも差し障りがある。
と、他にも口八丁のような理屈をつけられて、結局、フィーリとエマーはツァンに紹介された反乱組織のメンバーに加えられてしまったのだ。外部からの仮メンバーなので、組織の指令系統と顔を合わせることはないが、ツァンの紹介ということもあって、フィーリ達の待遇は悪くない。
(……それより、私はこんなところで何をやってんのよ…)
ダガーや、破壊工作用の爆薬などを手渡されながら、フィーリは内心独りごちる。
帝国の主都を出てから、すでに三十日余りが経とうとしていた。
見ず知らずの軍人に連れられて、聞いたことも無い街へ行き、今度は何のかかわりも無い内乱の手伝いをしている。
真っ当な市民がどうやって転がれば、ここまでたどり着けるのか。
フィーリには予測もつかない出来事ばかりだ。
「とりあえず、野戦服はやめてもらおうか」
エマーが指示を出しているのは野戦服の少年たちだ。ミヤンダが差し向けたエマー達の護衛に、この二人を推薦してきたのだ。
何とか理由をつけて普通の目立たない旅装に装備をつけることを納得させたフィーリとエマーだが、少年二人はそうはいかない。
組織の中でも腕利きだという二人だ。先ほど、フィーリを迎えにきた金髪の少年と、テントの前で見張りをしていた少年である。
「普段着でも何でもいいから、目立たない服を着ろ。武器も護身程度でいい」
少年たちは頷くだけで応える。
年頃の少年にしては口数の少ない二人だ。エマーと張り合えるほどしか口を開かない。
エマーもそれ以上の指示は与えず、少年たちをテントから追い出した。彼らの気配が消えてから、エマーが始めて嘆息した。
「面倒だな」
「嬉しいんじゃないの?」
フィーリも投げやりに応えると、エマーはわざとらしく肩を竦めた。
「面倒臭いだろうが。明確な敵がいるわけじゃないんだ。やりにくい」
フィーリは目を細めた。
隠れた敵がいる。つまり、内通者がいるかもしれない、ということだ。
確かにやりにくいことこの上ない。フィーリ達の目的は内乱を成功させることではなく、内乱を止めることにある。もし、フィーリ達の動きがばれるようなことがあれば、敵味方から命を狙われる羽目になるのだ。
「……最悪」
苦い顔でうめいたフィーリに向かって、珍しくエマーが同意を示した。
「とっとと終わらせるか」
「できる範囲なら手伝うわよ」
乗ってしまった船だ。せめて良い方向に向けようとする努力は惜しむべきではない。
フィーリの諦め具合が伝わったのか、エマーはたった一つだけ告げる。
「じゃぁ、アンタは俺から離れるな」