5 旅
その街道を抜けると、すでに雪はなかった。
帝国の主都から東に街道を進めば、暖流の影響で雪は久しく見られなくなり、歩く人の格好からも分厚い毛織のコートが無くなった。冬とはいえ、森の木々には柔らかな緑が残っている。
フィーリも雪避けの分厚いコートを脱いで、汗で額に張り付いた前髪を払う。
夕暮れが近いこともあって、隣をすり抜けていく行商や旅人の足は早い。だが、彼女の歩調はゆっくりしたもので、足早に去っていく人々を見送る。
戦争というものが形だけだが終わったことで、国外に逃げていた人々が戻ってきているのだ。長旅の疲労は見られたが、その中に安堵の笑顔がうかがえる。
そんな理由もあって普段よりも多い人手が一気に戦乱から免れた街に向かえば、飽和するのは目に見える。そこで、雪の無くなってきた頃には野営しながら旅を続けている。
「おい。こっちだ」
呼びかけてくる声に従って、フィーリは街道を反れた。
緑の多い森に分け入り、小さな広場を見つける。戦争時に傭兵や小さな部隊が野営して捨てた場所だという。
そんなものを逐一覚えているのは、この男ぐらいだろう。
フィーリは少し前を歩く赤髪の男を見上げた。エマーである。
見慣れた長身は野戦服ではない。
しっかりとした仕立ての旅装に身を包んでいる。フィーリと似たような雪避けコートを肩に掛けていれば、ただの旅人にしか見えない。背負っている袋が剣の包みに見えないこともないが、エマーはただの荷物だと言った。
街にいちいち立ち寄っても、人がごった返しているだけだと言って、野宿の旅を提案したのはエマーだった。フィーリ達は食料と燃料を買いそろえるか、少し体を休めるためだけに街に立ち寄る。
手慣れた様子で火を焚く用意をし始める手際はとても数日で覚えたものではない。
出所を尋ねると、エマーは少し苦笑しただけで応えなかった。
北の主都を出てから、十六日が経っていた。
行き場を失ったフィーリに、エマーは目的を与えてやると言った。
その言葉が現実となったのはそれからわずか二日後。
フィーリに突然、旅装を渡して軍を抜けると言い出したのだ。理由を問うと、
“部隊長辞めてきた”
とだけ応えた。結局、フィーリ達はティアナと第一部隊長だけに見送られ、早朝、野営地を後にした。
雪の降る中、フィーリはわけもわからず、だが、理由を何とか聞こうとエマーを問い詰めた。
“どうして部隊長辞めたのよ”
“戦争が終わったから”
“戦争は、終わってからが大変なんじゃないの”
“戦争がないんだから、もう興味ない”
“無責任”
それまで振り返りもしなかったエマーが、初めてフィーリを顧みた。
その顔には珍しく笑みが浮かんでいた。とても皮肉げで、人を食ったような。
“戦争が終われば、俺は必要ない”
嘲笑うように聞こえて、フィーリは質問を止めた。
それから十六日。
ようやく帝国の東の端までやってきた。
フィーリは目立った会話を避け、エマーの方もただ頷くだけの相槌を打つのみだ。
灯された焚き火を見つめて、暖めた携帯用のシチューを一人用の鍋から一さじすくう。喉を通すと何時の間にか冷えていた体の芯が緩やかにほぐれた。
日は沈み、森は早々と夜を迎えている。寒さが和らいできた分、今度は野生の動物に襲われる危険性も出てきた。夕食は手早く終わらせなければならない。
フィーリのはす向かいで、シチューを食べ終え、パンで食器を拭って食べているエマーがいる。そこそこ長い旅だというのに、この男に疲労の色はない。雪国にいた頃と同じような無関心さで動いている。
思えば、彼はこのところまともに寝ていないはずだ。夜は寝ずに焚き火の番をし、夜が明ければ早々に発つ。昼には小一時間ほど昼寝をするが、それで睡眠時間が足りているとは思えない。
しかし、それを当然のように行うのはこの男たる所以でもあるような気がしていた。
食器を拭ったパンの一欠けらを口に放り込むと、エマーは焚き火に注意を移した。
「早く食って寝ろ」
この十六日間繰り返された言葉だ。フィーリはさして反発もせずに手早く夕食を平らげると、コートを寝袋代わりにして地面に寝転んだ。
ゆらゆらと立ち昇る狼煙を見上げながら、その先の木々の隙間から見える淡い星を仰ぐ。
北の分厚い雪雲からは見えなかった蒼海にたゆたう星は、フィーリにとって見たことも無い宝石をちりばめたように見えた。同時に、それが仄かな輝きを主張することに躍動する空の息吹を感じた。
確実に生きている世界がそこにあった。
そうしてフィーリは、まるで誰かに抱かれているような安心感を覚えて目を閉じるのだ。
幾時間が経ったか。
それほど時を得ていないのかもしれない。
生温い覚醒が不意に訪れた。
フィーリはうっすらと目を開けた。
音が聞こえる。
視線の先はまだ暗く、朝は遠いことを知らせる。
時々、フィーリは夜半に目が覚めた。何も考えないまま、不思議な弦の爪弾きに耳を傾けている。
点々と、流れるように、和音の少ないメロディがひたすら静かに森の静寂へ溶け込んでいく。
哀しさも、愛しさも、虚しさもない。ただ、水の中を沈んでいくような浮遊感だけがフィーリを包む。
「……この曲知ってる」
呟くと、音が消えた。
驚いて、改めて目を覚ますと細長い板に弦を張った楽器を抱えたエマーが居た。音楽は専門分野だったはずのフィーリも知らない楽器だった。
起き上がるまでは目を覚ませず、寝たままエマーを見上げると、彼はいつもの静かな表情でフィーリを見下ろす。
「さすが巫女だな」
エマーはフィーリに雑言を嫌ほど向けるが、同じぐらい賞賛も惜しまない。
意外なことに気がついて、フィーリは押し黙る。
「こんな曲、部隊中じゃ誰も知らなかった」
エマーは懐かしむように、弦の一本をはじく。
「……歌詞だけ覚えてるの」
これだ、という確信はない。
ぼんやりと思い出されただけだ。
そのくせ、曲を聴けば歌詞は言葉となって溢れようとする。
義務的に覚えている曲とは違う。
自然と流れる音楽は、フィーリにとって初めて出会うものだった。
「これに歌詞があるとはな。初めて聞いた」
エマーは楽器を脇に置いた。フィーリにはそれが何故か残念に思えた。
「……眠るまで弾いてくれないの?」
自分の口から出た言葉に少し驚いた。エマーも同様に少し目を開いた。
「…俺に子守唄でも弾けと?」
「……少しの間でいいから」
エマーは軽く嘆息すると、楽器を抱え直して弦に指をおいた。つい最近まで武器を握って人の命を奪っていた武骨な手とは思えないほど、繊細に弦を留めて弾く。
音が生まれる。
奏者によく似た、無機質で広い音が。
吸い込まれていく音と共に、フィーリの意識も夜の闇に溶けていった。