4 故郷
道程は一日に至らず、午後には主都の入り口だった場所にフィーリは立っていた。
予想はしていた。
しかし、実際にほとんど原形の残らない町並みを前にして、言い知れない眩暈を覚えた。
白の街と呼ばれた外観はくまなく煤でまみれ、倒壊した家の前で人々が茫然と立ち尽くしている。
フィーリは自分が腹の底から震えているのを感じていた。恐れではない。すでに主都には力がないことをわかっていたはずの連邦軍による街の扱いと、その連邦軍に守られてぬくぬくとしている自分に、行き場のない怒りを感じている。
第一部隊は市外警備にあたる準備を始めている。そのわずかな雑然の中、フィーリは部隊の陣営から抜け出した。
瓦礫に身を隠し、可能な限り息を潜めて見知らぬ街のように変容してしまった街路を走った。
人気の無い道をひた走り、何とか目につく目印を辿って主都の中心部へ、王城近くにある|神院≪グレイス≫を目指す。
幼い頃、預けられて以来、人生の大半を過ごしてきた神の院だ。そこへ行けば、何かが変わるとフィーリは思い込んでいた。
奇跡を起こす、神の院なのだから。
しかし、それはフィーリの思い込みに過ぎない。
辿り着いた先には、ただの瓦礫の山しかなかった。
その周辺に、見慣れてしまった連邦軍の兵士達が何かを調べるように無情な検分をしている。彼らの足元に何かが見えた。
数日前に見たものと同じ、真っ赤な染み。
叫んでいたのかもしれない。
兵士達がフィーリを振り返った。
獣の咆哮のような叫喚を浴びせて、フィーリは兵士達を押し退けて瓦礫の前に立った。
すう、と吊り上げられる感覚を覚えて、立ち尽くす。
眼前には折り重なるように倒れている人々がいる。
いずれの手にも果物を剥くようなナイフが握られている。装飾のついたナイフにフィーリは見覚えがあった。
「……自決の剣……」
神官や巫女に携帯が義務付けられている小さな短剣である。この剣で信仰や神を妨げる者を退ける、と教義の上ではされているが実際には護身用だった。神官や巫女は文武が求められるので、いずれも何らかの体術は心得ており、いざ院を守るとなれば強力な戦士となった。
眼前に零れているのは、フィーリが知る中では最も強く気高い神官が持っていた剣だった。
思い出に浸る前に、フィーリの中では激情が沸騰する。
気がついた時には落ちていた短剣を手にとり、手近にいた兵士に斬りかかっている。荒々しい自己流の技を身に付けている傭兵上がりなど、洗練された必殺の体術の前では赤子にも等しい。
フィーリの一閃した切っ先は確実に兵士の首を跳ね飛ばす。
はずだった。
充分にスピードの乗った腕を何者かに捕えられ、捻られる。力負けした腕は本人の意思に従わず、短剣を取り落とした。
乾いた音をたてて落ちた短剣を腹立たしささえ覚えて睨み、フィーリは自分の腕を捕える不届き者の顔を探して険しい顔を上げた。
「まったく……」
久しぶりに聞く声だった。
思わず目を丸くしたフィーリに向かって、野戦服姿の男は殊更面倒臭そうに片眉を上げてみせる。
「どうしてそんなに雄雄しいんだろうな」
一度、目にすれば絶対に忘れられない、鮮血を模したような紅い髪の男である。数日前と同じ、豊かな森の新緑を思わせる双眸をフィーリに向けて、呆れたように嘆息する。
「それとも、巫女ってのはそういうものなのか?」
帝国語で問い掛けられて、フィーリはようやく男を睨み返す。彼の腕から逃れようともがくと、意外にも軽く戒めを解かれた。そのまま続けて殴りかかる気にもなれず、フィーリはそのまま男をねめつける。
「……どうしてアンタがいるのよ。エグマ・カタス」
わざと連邦語で言い放つと、眼前の男よりも周囲の兵士達が何故かざわめいた。フィーリが巫女などとは彼らにわからなかったはずだ。そのざわめきを無視して男が口を開きかけるが、
「そりゃぁ…」
「フィーリを追いかけてきたのよ」
言葉を遮って男の後ろから顔出したのは、何も告げずに別れてきたはずのティアナだった。
「フィーリが何か慌てて何処かに行こうとしてるから、心配になってね」
同意を求めるようにティアナは男を見上げるが、彼の方は肩を竦めた。
「俺がこのお姫さまを野営地の門で見かけたって言ったら、慌てて追跡魔術を展開したのはアンタだろ」
「わかってないわねぇ。こういう場合は君が心配だったから追いかけてきたんだ、ぐらいは言うもんよ」
嬉々として語るティアナに口先で応えることすら面倒臭くなったのか、男は野戦服の上から羽織っているコートのポケットから煙草をつまみ出して口にくわえた。
「……ティアナも……どうしてここに?」
いい加減、フィーリもティアナの世間話に付き合ってはいられず、眉根を寄せて問い掛ける。
「だってねぇ。フィーリが心配だったんですもの」
彼女にしては珍しく笑顔の中に苦いものを混じらせた。
「あなた、ここで育ったんでしょう?」
そうだ。
彼女には話してあった。
フィーリは巫女として、この神院で育った。物心もつかないフィーリを娘のように妹のように可愛がってくれた神官や巫女たちに育てられた。生まれた時には既に孤児院に預けられようとしていたフィーリにとって、彼らは父であり母であり、兄弟だった。大きな家族がここに居た。
だが、その家は今や原形を留めず、家族たちは冷たい地面に倒れ伏している。まるで荷物のように積み重なって。
フィーリは叫んだ。しかしそれは声にならずいたずらに呼吸困難を誘っただけだった。
急激に醒めていく。
激情も憤怒も苛立ちさえも、雪崩に追い出されるようにフィーリの体から抜けていった。
フィーリは突然、立っていられなくなって踏み荒らされた雪の上に座り込んだ。
座り込んで初めて、ここに雪が降っていたことを思う。
兵士達の間から見える家族達にも淡い雪が積もっている。
フィーリは改めて長い時間を離れてしまっていたことを思う。
茫然と空を見上げる。
透き通る空虚な蒼を見上げて、目を見開く。
目の奥が熱い。同時に痛みが走る。
始めは徐々に、次第に増していく。
どうして今まで忘れていたのだろう。
家族が死んでしまったというのに。
泣くことさえできなかった。
とうに涙は枯れている。
ただ、頭の芯が震えて熱い。
優しい人肌が、フィーリの頭を抱えた。
胸に抱かれて、女性に抱かれていることがわかった。
「フィーリ」
ティアナだ。彼女の声も震えている。フィーリは急に不安になって彼女にしがみついた。
すると嗚咽が素直に漏れた。赤子がこの世に生まれたことを嘆くような声が、信じられないほど大きく聞こえた。
乾いていたはずの涙が声量に驚愕したように流れ出た。
宥められるように頭を撫でられて、フィーリは余計に声を上げた。
「……ここで泣かしてどうするんだ」
無遠慮な声に、ティアナは少し溜息をつく。
「エマー。そんなことじゃ女の子にもてないわよ」
「――しょうがないな」
周りで進められていく会話をまるで雑音のように聞き流していたフィーリの体をティアナとは別の腕が掴む。煙草の苦い匂いがフィーリの周りを覆った。
抗う隙もなく抱き上げられ、荷物のように肩に担がれる。
抵抗する腕も自分でも驚くほど力がなかった。それ以上に、背中を支える腕の力は尋常ではなかった。
やがて力尽きるとふわりと体が浮かぶ。いつもの自分の視線よりも十センチ以上は高い場所まで持ち上げられて、視界の高さに戸惑う。
「騒がせて悪かった。コレは俺が連れて帰るから」
コレ、と物扱いされても不思議とフィーリに抵抗感が生まれなかった。すでに疲れているのだ、と自分で理屈付けて、煙草臭い野戦服を掴んだ。
「は。閣下におかれましては、このような場所にご足労いただき誠にありがとうございます」
フィーリを担いでいる男は軽く手を振ってそれに応えると踵を返した。
ゆっくりと遠ざかっていく二十人以上の兵士達が最敬礼するのを眺めながら、フィーリはふと口にする。
「……閣下?」
すぐ近くに耳があったこともあって、男は面倒臭そうにうめいた。
「エマー。会った時にもそう言っただろ」
あくまでも名前だけを口にする男に、フィーリはぼんやりと尋ねる。
「だって、部隊長なんでしょ?」
「……誰から聞いたんだ」
「わたしー」
フィーリに向かって明るく手を上げたのはティアナだ。にこやかな彼女に向かって、男は溜息混じりに一瞥した。
「アンタなぁ……」
「これぐらいは話しておいてもいいんじゃなぁい?」
ティアナはよくこの男がやるように肩眉をあげてみせた。
「減るもんじゃなし」
「俺の気苦労が増えるだろ」
男は彼女に何を言っても無駄だと思ったのか、再び歩き出す。
「この際だから宣伝しといたら?」
「これ以上巻き込まれてたまるか」
打てば響く。それほどはっきりとした即答だった。
「ホントに嫌いよねぇ」
さすがのティアナも苦笑する。
話についていけずに黙ったまま担がれているフィーリが不気味になったのか、男が話し掛けてくる。
「落ち着いたようだな」
ふっと体を重力圏に戻されて、元の自分の視線の高さに立たされる。
急に不安になって、フィーリは男に視線を遣る。
男もフィーリを見下ろして、不審そうに眉根を寄せた。
「……どうした?」
フィーリの前に手をヒラヒラと振る。
「いつもみたくわめかないのか?」
フィーリは充分に一呼吸おいた。
そして、悪夢から覚めたときのような顔で眼前の男を睨みつける。
「あなたのせいで疲れてるのよ! エマー!」
怒声も終わらないうちに、フィーリは足をこれ以上ないほど跳ね上げてエマーの顎に蹴りを見舞った。
だが、エマーはそれを際どいところで避けて体をひく。的を失った必殺の一撃は空を切り、フィーリの体は空中で逆上がりする。
思わず空を掴みかけた手を指先に引っ掛けたのは眼前のエマーである。不本意にも彼に支えられる形でフィーリは無事、地面に着地した。
不機嫌に押し黙るフィーリに向かって、エマーはさして気にかける様子もなく話を進める。
「アンタは、これからどうする?」
唐突に話を振られて、フィーリは返答に詰まった。
戦争や、エマーを恨むのは容易い。
エマー達は、確かにフィーリの幸せを奪ったのだから。だが、同時に以前のフィーリに惜しむだけの幸せがあったかと言えば、咄嗟に思いつくものがない。フィーリは無理やり王に連れられ、不本意な生活を余儀なくされていた。そのおかげで僥倖にも出会ったが、それは儚い夢だと考えていた。
だから、フィーリは現状に惑う。
立ち止まっていては自分への憐れみで動けなくなってしまう。しかし、歩き出そうにも方向がまるでわからない。指針がないのだ。
複雑に歪めた表情のフィーリを覗き込んだエマーは、いつもと変わらない、冷めた口調で続ける。
「アンタが、あの城に居た巫女だろう」
あの城、と言われてフィーリは顔を上げる。エマーとフィーリが知る城は一つしかない。あの、燃え尽きるまで美しかった丘の上の城だ。だが、フィーリは問わずにはいられなかった。
「どうして……」
「俺の部隊が落としたからな。報告は受けてる」
淡々と告げられ、フィーリはますます何がしたいのかわからなくなる。
「城主の首を落とした時に、側にいた巫女に部隊の末端二十人がやられた。ちょうど精鋭の手が空いたから追っ手を出したらまんまと逃げられた」
「まー。フィーリってスゴイ特技があるのねぇ」
素っ頓狂な相槌を打って、ティアナはフィーリの頭を撫でる。
わざとらしく話を反らそうとしている彼女を無視して、エマーは続ける。
「お前はむしろ、俺を恨む立場にいるんだろう」
明日の天気を告げるかの如く言われて、フィーリは他人事のように納得した。状況から言えば、フィーリはエマー達を恨んで当然なのだろう。だが、今のフィーリにそんな情熱はすでに残っていなかった。眼前にはただ、何もない現実があるだけなのだ。
「俺を恨んでいるか?」
恨んでいないといえば嘘になる。
だが、
「……わからない」
方向が定まらない。感情と行動がバラバラになって、フィーリは自分で進むことができない。
フィーリは顔を上げて、エマーを見上げる。静かな湖面を見つめているような気分になり、戸惑いを口にする。
「理屈の上では、私はあなたを恨んでいるのかもしれないけど、私は、今、何をしたいのかもわからない」
エマーが明確にしようとしているフィーリの立場はあまりにも不安定だ。
その困惑を見ていなかったのか、エマーは無関心に頷いた。
「わかった」
「……何がわかったのよっ?」
思わず顔をしかめて半眼でエマーを睨む。
「アンタが何をしたいのかわからないことがわかった」
屁理屈だ。不審顔で眉根を寄せる。
「だから、どうだっていうのよ」
「行くところがないなら、目的地を作ってやろうか」
フィーリは真意がわからず呆れも混じって聞き返す。
「は?」