3 魔術師
間が抜けているほど澄んだ空だった。
まっさらな蒼穹を仰いで、大きく深呼吸する。
「フィーリ」
穏やかな女声に呼びかけられて、フィーリは視線を地上に戻した。野営地の撤収作業も終盤に入っている。既に昨夜のフィーリの寝所は|自立型貨物機関≪リフト≫の上にある。自分の寝袋だけを運ぶと、あとは作業の邪魔だと追い出されて手持ち無沙汰の彼女の元に、白衣姿の女性がこちらも暇そうに歩いてくる。
「ティアナさん」
肩までのブロンドをばっさりと切り落とした童顔の女性である。セーターに作業ズボンという色気のない格好で、さらに見る者をのんびりとさせる笑顔は女と認識させるより好奇心の強い五歳児を思わせた。このティアナが、主都につく今日までの、数日の行程においてフィーリの世話を焼いてくれたのだ。
「いよいよ主都ねぇ」
彼女はこの大部隊に派遣された魔術責任者だという。大陸の果てにあるという学研都市の魔術院は各国に魔術師を派遣している。今回の戦争に至っても戦略顧問として多くの魔術師が派遣されたが、その何百人にものぼる魔術師達を監督するために魔術院は十人ほどの責任者をつけた。
その一人が彼女、シャオ・ティアナである。
フィーリ自身、巫女という似たような隔絶社会に生きてきたが、実際に魔術師と会うのは初めてだった。
様々な場で社会に関わる魔術師だが、その実態は知らない者の方が多い。そもそも、神官や巫女の間では魔術は邪法と嫌われた。
ティアナはこの晴れた冬空に似た碧眼でフィーリを覗き込んでくる。
「どう? 寒くなぁい?」
問われて、フィーリは自分の格好を見回す。ティアナのセーターと作業ズボンを借りたのだが、さして大柄ではないはずのティアナの服がフィーリには少し大きい。セーターの袖口からは指先が覗く程度だ。同じく借りた安全靴も少し大きいので医療用の包帯やガーゼを詰めてもらった。だが、巫女装束よりも当然温かいので、フィーリは素直に頷いた。
「大丈夫です」
「風邪なんかひいちゃ嫌よぉ? 部隊長に怒られるから」
フィーリは、数日前に会ったこの第一部隊を率いる青年を思い出す。
すらりとした長身痩躯に流れるような物腰、それはフィーリが王宮で出会った貴族の誰よりも気品に満ちていて典雅だった。堅物の部隊長というよりも青年貴族のような外見ではあるが、彼は実に軍人らしく最敬礼で第一部隊部隊長だと名乗った。巫女だというフィーリに最上級の敬意を払い、無事に主都へと送り届けてくれることを機械的に誓約すると、流麗な容貌を揺らがせもせず冷静に告げた。
“自分たちが敵であったことを忘れろとは言わないが、冷静な理解は受け入れてほしい”と。
感情に走れば、理解はない。理屈に委ねれば、妥協はない。だから、ただ受け入れる覚悟をしろ、と言うのだ。
連邦の常用語がこれほどすんなりと聞き取れたことがなかった。丁寧な言葉は国など関係ないのだ。誠意の言葉は充分に理解足り得る。あとはフィーリ自身の心一つだ。
不意に、左手に嵌めてある指輪に意識を飛ばす。
感情は言葉では片付けられないものだ。
「エマーがあなたを連れてきたんだから、エマーがあなたを連れていけばいいのにねぇ?」
出したものを元の場所に、とでも言うようにティアナは能天気に笑う。フィーリは慇懃無礼な赤髪の男を思い出してしまい、何の感情も宿っていなかった顔を途端に歪めた。
数日前に、この部隊の野営地にフィーリを連れてきた男である。彼の男は何も分からないままのフィーリを第一部隊長に突き出し、こうのたまったのだ。
“ガキの面倒は見切れないから、預かってくれ”
さしもの第一部隊長もこれには一拍間を置いて、どういうことかと問い返した。
「第三部隊には児童館がない、なんてねぇ」
ティアナの笑い声がフィーリの回想に知らないうちに拍車をかける。
その場にいた赤髪男以外の誰もが絶句したものだ。仮にも巫女を捕まえてきておいて幼児扱いである。
フィーリが噴火し損ねたのは、一重に第一部隊長のおかげだった。
彼が無愛想に頷いたのだ。
“我が部隊にも児童館はないが、巫女の身柄は丁重にお預かりする”
ここで怒っては本当にお子様待遇を受けそうだったので、フィーリは殺気のこもった視線を男に突き刺しただけで事なきを終えることにしたのだ。今にして思えば、息の根を止めておくべきだったと反省している。
「アレ以来、エマーはあなたの様子を見に来ないしね」
赤髪の男はフィーリを第一部隊に預けてから一度も顔を出さない。
顔を見たいわけではないし、むしろ二度と会わない方が精神衛生上、最上だと思われるのだが、拾った娘が元気なのかどうかぐらいは気にならないのだろうか。それともそんな僅かな繊細さを求める方が間違っているのか。
「まぁ、第三部隊は人数が多いから忙しいのはわかるけどねー」
悶々とストレスを溜め込んでいたフィーリの隣で、ぼんやりとティアナが呟く。
「……第三部隊?」
怪訝な小声が聞こえたのか、ティアナはフィーリに笑顔を向けた。
「そう。エマーは第三部隊の部隊長さんだから」
そんな立場だったのか。フィーリは今更ながら、出会った当初の兵士達の態度に納得する。しかし、
「……あんなのが部隊長?」
第一部隊長と比べるとあまりに違いすぎた。威厳の無さにおいて、あの男は群を抜きすぎている。
「あらぁ。エマーは良い男よ?」
「眼科か精神科に行かれた方がよろしいですよ」
フィーリとしては今まで世話をしてくれたティアナに真摯な忠告したつもりだったが、彼女は笑いを押さえるように手の先で口元を覆った。
「良い男じゃなぁい。普段はお人形さんみたいなフィーリにそこまで嫌な顔をさせるんだから」
良い男だろうとなんだろうとフィーリにとって思わず顔を歪めてしまうほど、あの男は最低男以外の何者でもない。
眉根を跡の残りそうなほど寄せたフィーリはティアナに真意を問おうとしたが、行軍を告げるサイレンが高らかに鳴った。