2 軍人
野営地のテントの中は意外なほど綺麗に整えられていた。
雑多な機器類はあるものの整然と並んでいてまるで違和感がなく、一台のテーブルと二脚の椅子以外目につくものはない。
差し出されたカップに手もつけず、促されるまま座した椅子の上から少女は男を睨んでいた。
この北国で暮らしてきたとは思えない格好である。せいぜい二枚の布を張り合わせたような簡単な巻き装束は、巫女の舞衣装であるが、こんな真冬の時期にわざわざ外に飛び出してくるような格好ではない。彼女も好き好んで飛び出してきたわけではないのだろうが、男から差し出されたコートをテントに入るやいなや脱ぎ捨てているところはまだ子供らしさを主張している。
まだ十六、七歳だろうか。
薄着のためにあらわになっている染み一つない白磁の肌、濡場玉の長い黒髪、上品に形作られた端正な容貌、全てを統一した華奢な体は精一杯に儚げな印象を与えるのだが、たった一つのことだけがか弱いイメージを払拭する。およそ外見とはそぐわない炯炯とした緋色の瞳である。挑戦的ですらある眼光は彼女をただの美少女という言葉から遠ざけている。
対面する男はゆったりと椅子に腰掛けて自分で注いだコーヒーをのんびり味わっている。色だけを見れば派手な男である。鮮血を思わせる髪に新緑の双眸という色彩豊かで強烈な外見である。にも関わらず、彼の凡庸な雰囲気がその印象をさっぱりと無くしている。
警戒を解こうとしない少女を前にしても、マイペースにコーヒーを楽しみ、そして何か思いついたように顔をあげた。
「そういえば名前は?」
帝国の常用語である。しかし、少女は応えようとしない。数分待った後に、男は納得したように頷いた。
「よし。名前がないなら俺が決めてやろう」
「どうしてよ!」
思わず口を開いた少女を平たく見返して、男は再度頷く。
「名前がないと、呼ぶときに面倒臭いだろう」
「そういう問題じゃないわ!」
声も猛々しく少女は立ち上がって目の前のテーブルを力任せに叩いた。少し飛び上がったカップが割れなかったのはカップの幸運の成果だろう。
「どうして、私があなたに名前を決めてもらわなくちゃならないのよ!」
苛々が着々と積みあがっている少女を軽く見上げて、男はコーヒーをすすった。
「応える名前がないんだろう?」
「あるわよ! フィルディルシア・トールって名前が……!」
出るに任せて答えてしまったのを悟った少女は口を曲げて押し黙る。不機嫌の度合いを跳ね上げる少女を前に、男はただ頷く。
「そうか」
落ち着き払ったその態度が少女のストレスを増長させていることに気付いているのかいないのか。男は殊更、いい加減な口調で続ける。
「じゃ、フィーリな」
「そんな不細工な略称はやめて!」
顔を歪めた少女は侮蔑さえ混じった表情で男を睨む。
「なんなのよ? 帝国の私を捕まえてこんな場所に連れ込んで。普通、捕虜なら独居房に入れたりするんでしょう?」
「あいにくと、房は置いてなくてね。それに、ここは連邦の野営地だということをお忘れなく」
逃げられるものなら逃げてみろ、というのだ。少女は今度こそ鼻白んだ。威嚇するように椅子に座り込む。
いくら少女が一個体として優秀であっても、二千人規模の部隊が三つも並ぶという野営地を抜け出すのは容易なことではない。
「……何もしらないくせに」
今までの怒鳴り声よりも怒気の篭った言葉だった。しかし、それでも男は平然と頷いてみせた。
「名前と、巫女でガキで常用語を使い分けできることはわかった」
確認するように並べて中身の無くなったらしいカップをテーブルに置く。
「俺にはそれだけで充分だから」
言外にそれ以上のことは興味がないと示されて、少女は歪めていた表情を少し緩めた。
しばらくカップを眺めていた彼女はぽつりと言葉を漏らす。
「……私は」
顔をあげて男を正面から見据える。
「あなたの名前も知らないわ」
「あー…そういえば」
男はガリガリと頭を掻くと、少女を見遣る。
「エグマ・カタス。見てのとおり、連邦軍人だ」
と、男は新しい服を買ってもらった子供のようにこげ茶色の野戦服を広げて見せる。
「……じゃあ、カタスさん」
「エマー。ここじゃそれで通ってるから」
軽く伸びした男は、どうでもよさそうに欠伸をした。