えびでんすmp3
万葉にも記載されないほど稀有で繊細な独自性。
間違い無く自分はそれに違いないと思っていた頃から、随分と時は流れた。
要するに金だ。
今の自分に足りていないもの、人に与えられないもの、人の価値、時間。
何かに代替されたあの価値観、それには逆らえないと言うことを、早く理解するべきであったのだろうか。
金に勝ちたいと思えば思うほど、空想によるをふかし、一辺倒なやり方と風紀を乱すことでしか血肉を整理できないというオチが、あまりにも美しくない。
兎にも角にも今は走る。
プロジェクトは佳境、「およそ人一人では実行出来ない何か」を人はプロジェクトと呼んでいる。
13時に起床するのは少々遅すぎたようなので、怒気を醸すメッセージを受け取ったスマートフォンを握りしめて、閉めかかった電車の扉を跨ぐのであった。
この程度ではないと毎回思っているほどに、自分への期待というものは原点にして頂点の汚点だ。
ファっキュークソ人間!とメッセージ欄に打ち込み、それを消した。
大変、荘厳な文言で描かれた可憐で場馴れ仕切った謝罪文を打ち込み、熱った体を整えている。
そういった時、指先だけは妙に饒舌な自分はなんと矮小で稚拙なことなのか恥じることもなく、どこか自慢げな表情で踊る指先は、血はおろか自分の神経など通っていないと願いたいところだ。
つまらない駄文をメッセージ欄から先方に飛ばし、今日の仕事は終わったといってもいい。
財布の残り残高900円のまま片道470円の電車に揺られるのであった。
人は人の遅刻に対してそれほど怒ったりしない、フリをしている。
その二面性が実に煩わしいと思ったところで状況は何も変わらない上に、社会現場はこのような思考回路を期待していないのは明白だ。
だから自分は子供なのだ。
一人生き遅れ、周りに見放された子供なのだ。
遊覧に惚けて、無意味な時間を味わい尽くした結果がここにきて顕になっている。
そんな事実もプライドによって自分の絶望とか神経とかに届くことがない。
人の話が入ってこない。
手続きと現場の説明を謝罪の上で拝聴した。
同僚の女が呆れた顔で近づいてきたが、その顔は自分に絶望していなかった。
「遅いねw、もう終わるところだったよ」
彼女は絶望していないのではなく、期待していないのだ。
自分の失敗が直接彼女の給料や評価に影響することはなく、あるいは自分をその距離感に置かないことで回避している。
だから彼女には自分の失敗が液晶の向こう側の世界と同じように多次元的な非干渉の世界が広がっている。
精神という物理の中から自分は彼女にキックされている。
「寝坊したw」
中途半端に笑い合うこの距離感は「価値」の互換性がないからこそ成り立つ、自分はそれが楽で仕方ないと感じている。
何も干渉しない代わりに何も干渉されたくないという文言が非常に傲慢で自分勝手であるのは、集団で生存する生物にとってこれが通年であるからだ。
これに気付けない間違ったプライドと正義感を持っている奴が一番醜いと思った。
それは自分自身だろう。
「ごめん、帰りの電車賃ないねんw 」
「いいよ、はい」
彼女は紙切れを一枚渡し、んじゃっおつかれ!と軽快に去っていった。
自分はその紙切れがないと家に帰ることさえできない負け犬で、男性が女性に金銭で支えてもらうことがどれだけ愚かで下賤なことかも忘れ、それをあてにして生きている。
ルールの穴を見極めて、倫理と共存の穴に落ちる音がした。
つまり金だ。
プライドと尊厳を売って手に入れた千円札の500円だけをチャージして電車に乗り込んだ。
銀行口座にも金が残っていない人間にとって、この千円は塊には見えない。
1000円という数字の中でいかにいろんな生活の、支えに当てるかを考えるのだ。
この残りの500円を昨日まで食べれなかった食事代に充てるのだが、果たしてどこのスーパーで何を買うと多くのものを食らうことができるのか、頭の中はこの500円の使い道で溢れていた。
これが甘美で悠々自適な金銭であるのは、今の状況があってこそだと考えるのは愚かなのだろうか。
問題は売っているはずのプライドと尊厳に気づかなくなってしまった慣れだろう。
だから500円だけチャージした。
チャージを終え、電車に乗る頃にはもう、1000円が何を代償に手に入れたものなのか忘れている。
改札を越え電車のホームへ向かう途中で、後ろの方から騒ぎ出す声が聞こえた。
振り向くこともなく去ろうとしたが、一人の男が改札の駅員に怒鳴りつけている。
「頼む!今すぐ電車に乗せてくれ!妊娠した妻が交通事故に遭ったんだ!」
彼には様々な問題があり、事情があり、理由がある。
それは顔を見ればわかる領域まで彼は焦燥に駆られていた。
その時、人生とか、夕凪とかが自分の脳内には再生されて、とても美しい気分になった。
なぜか日常のような暗い景色が、瞬間だけ色づいた気がしたのだ。
「必死さ」とか枯渇したハツに血が駆け巡った気がした。
自分はあそこに信念とか情熱とか好奇心を置いてきたのではないか、そう戦慄した。
時は一瞬、おそらく手持ちのお金がない彼にはこの握りしめた500円玉が必要に違いない。
しかしこの500円にはあらゆる価値と意味が付加している。
自分の欲望とか、人から借りた金の扱い方とか、お金に対する意地とか。
この500円をどうするかで、この後の人生が決定するような気がしてならなかった。
刹那の行動には思考の深さは宿らない、だが思考の瞬発力にはいつでもその人間の慣習や哲学が浮き彫りになる。
人間の本質のようにも見える重要な心の形なのだ。
それは一糸の時間からしか引き出されない。
だから凍りついていたあの一歩が今動き出した。
高揚を隠しきれないこの勇足が、人の人生に介入する。
大きく踏み込んで、この足はまっすぐ彼の元へと進んだ。
接近する自分に気づいた彼はこちらに注目した。
その眼差しを目の前にして立ち止まり腰を入れ、血湧き肉躍るこの拳を勢いよく振りかぶった。
「火急で電車使う奴がどこにおんねん!タクシーで行けや!」
そして拳は彼の顔面へと直撃する。
受け身を取れぬほどの不幸を放つ彼の放物線は、黄金比さながらに美しい放物線を描いた。
殴られた彼は妻も子供も失うかもしれない火急でなぜ電車を選んだのか、なぜ自分と出会ってしまったのか。
彼の人生を思うと、自分の行動は些か冷徹に見えるだろうか。
この500円には彼の宿す価値よりも重いものがのっかている。
それは自分の尊厳を捨てるという「尊厳」を貫き通すためだ。
価値観を捨てるほど価値観に溺れてはならない、あの一瞬で自分にはそんな焦燥が現れた。
捨てるのではなく越えなければならないと思った。
だから彼を殴り、その拳に握られた500円をそっとポケットにしまい込んだ。
電車到着のベルが鳴る、今は静かに走り出す。
君に送る