希望と絶望
「静香の病気が治るかもしれない? 本当か、権兵衛」
「うん。今度の市に薬師が来るって。とてもよく効くらしいよ」
権兵衛が明るい声で言う。最近は暗い話しか聞いていなかったので、この知らせは目の前のもやを晴らすようなものだった。
俺は「今度の市は明日だったな」と権兵衛に確認する。
「うん。買いに行くんだろう?」
「もちろんだ。静香の病気が治れば、皆の負担も無くなる」
「でも、弓矢兄ちゃんが買いに行くのは不安だね。サムライが攻めてくるかもしれない」
それはそうだ。昨日あの小柄なサムライが来たばかりで警戒している最中だ。
しかし子供たちに任せられることでもない。
本来なら年長である権兵衛に行ってもらいたいが、静香の病気が悪化したとき、面倒を見られるのはこいつしかいなかった。
「急いで行って、すぐに帰ってくる」
「……それしかないか」
権兵衛は少し不安そうだったが、俺は安心させるように肩に手を置いた。
「大丈夫だ。俺に任せておけ」
権兵衛はにこりと微笑んで「任せたよ、弓矢兄ちゃん」と託してくれた。
境内を歩いて本殿へ向かうと、治平太が子供たちと一緒に石投げの訓練をしていた。
石を投げるくらいは子供でもできる。敵を怯ませることも可能だ。
「あ、兄ちゃん。静香姉ちゃんのとこに行くの?」
「ああ。治平太、あまり頑張り過ぎて投げられなくなるなよ?」
「そんな馬鹿じゃあないよ!」
周りの子供たちが笑う中、治平太は口を尖らせる。
俺は後で遊んでやると約束して本殿へ向かう。
本殿の入り口で茜が子供たちとお手玉をしていた。
俺は茜が見事に四個のお手玉を操っているのを見て「器用だな」と言う。
「弓矢お兄さま。静香お姉さま寝ているけど」
「そうか。ならいいや」
市に行くことは別に言わなくていいか。
俺は茜に「邪魔したな」と言って去ろうとする。
その前に茜が「ねえお兄さま」と呼び止めた。
「少し、お話ししない?」
「珍しいな。みんなでか? それとも二人だけで?」
「二人だけで。みんな、ごめんね」
子供たちは大事な話をすると思って、誰も文句を言わずに三々五々と別のところへ行った。
俺はどんな話をするんだろうと茜が切り出すのを待った。
「前々から聞きたかったの。でも嫌だったら答えなくていいよ」
「なんだよ改まって」
「弓矢お兄さまは――」
境内にそびえたつ大きな神木が、大きく揺れて葉が降ってくる。
その葉を手に取った茜は、意を決したように言う。
「――人を殺しても何も感じないの?」
いつか誰かに聞かれると、分かっていた問いだった。
俺はしばし沈黙して「みんなには内緒だぜ」と茜に優しく言う。
「とても怖いよ。人を殺すって」
「……なのに、どうして殺すの?」
「みんなを守るため……いや、それは誤魔化しだな」
茜は黙って俺の次の言葉を待つ。
俺は深く呼吸をしてから「殺さないと俺が死ぬから」と答えた。
「死ぬのは怖い。人を殺す以上に。だから俺を守るために俺は人を殺す」
「お兄さまは……」
茜は何かを言おうとして言葉を止めた。
何も言えないことに気づいたのか、それとも俺のことを怖いと思ってしまったのか。
それは判然としない。
「怖くても、俺は人を殺し続けるよ」
「どうして? 自分を守るため?」
「それに加えて、ここにいるみんなを守るためだ」
茜のまん丸な目を見ながら、汚い俺は綺麗事を言う。
「俺が手を汚す代わりに、みんなが笑って過ごせるなら、とことん汚れてやる」
「…………」
「怖くて仕方がないけどな。あはは」
「……お兄さま、ありがとう」
どこか吹っ切れた思いがあるのか、茜は俺にありがとうと言った。
「私、お兄さまの本音を聞けて良かった」
「そうか。なら良かったよ」
◆◇◆◇
次の日。市へ向かうと評判の薬師の元へ向かう。
薬師は気のいい俺よりも年上のお兄さんだった。
薬が欲しいと言うと、静香の症状をよく聞いてくれて、それから薬を売ってくれた。
「あの、随分と安い気がするんだけど」
俺が薬師の兄さんに確認すると「別にいいよ」と快活に笑った。
「医術は仁術ってね。人助けはしていて損はないから」
「……ありがとう」
市から急いで神社へと向かう。
あまり離れるのは心配だったからだ。
急ぎ足で急ぐと、道の途中で休んでいるサムライがいた。
近づくと前に来た小柄なサムライとその家来たちだ。
「うん? おぬしか。変なところで会うな」
「あんたは……」
「ああ。名乗っていなかったな。佐野太郎時宗という。こちらは弟の小吉、そして家臣の孫六だ」
痩せているほうが小吉で、大柄のほうは孫六か。
俺は「どうしてここに?」と訊ねた。
「御屋形様に交渉しに行けと再度命令されてな」
「何度来ても無駄だ」
「わしもそう思う……うん? 孫六、どうした?」
孫六が何か言いたそうなのを敏感に察知した太郎。
すると孫六は「戦の臭いがする」と短く答えた。
「木々が焼かれる臭いがする」
まさかなと思いながら、俺は嫌な予感がした。
俺は太郎に挨拶も無しに急いで神社へ向かった。
だけど、遠目からでも、分かってしまった。
煌々と燃える神社。
鳥居も燃えていて、真っ赤に彩られている。
周りには百を超える兵がいて、ぐるりと神社を囲っている。
「嘘だろ、おい……」
俺は信じられない思いで近づこうとする――首根っこを掴まれた。
振り向くとそこには孫六がいた。
険しい顔で俺の身体を押さえつけている。
「おい放せよ! みんなが――」
「もう間に合わない。全員死んだ」
「ふざけんなよ! まだ間に合う――」
首の後ろを思いっきり叩かれる。
酷い痛み、そして意識が暗転して。
深いところへと俺は吸い込まれていった――
◆◇◆◇
夜。気がつくと、全てが終わっていた。
近くの川原で寝かされていた俺は走って神社へ向かった。
鳥居は焼け落ちていた。
境内も荒らされていた。
子供たちも全員死んでいた。
「お、おい……みんな、どこにいるんだ……」
まるで幽鬼のように神社を徘徊する俺。
子供たちが焼けていたり、斬られていたり、射殺されていた。
その中に、治平太がいた。手の中に石を握りしめていた。
「治平太……」
権兵衛は斬り刻まれて死んでいた。最後まで戦っていたのだろう。
「権兵衛……」
本殿へ歩いていくと、茜の死体を見つけた。
うつ伏せだったのを起き上がらせると、痛みに苦しんだ顔をしていた。
「茜……」
そうだ、静香は、どこだ?
ゆらゆらと本殿へ向かう。
人の話し声。
そこには兵が五人、焚火をしながら飯を食っていた。
その近くには、焼け落ちた本殿があった――
「あん? 見ろよ、生き残りがいるぜ」
「いっちょまえに弓なんて持ってやがる」
下卑た笑い声。
耐えきれない。
もうすべてが耐えきれない――
「ちょっと待て。そういや、ここに凄腕の弓手が――」
一人の兵がそう言った瞬間。
俺はそいつ目がけて矢を放った。
眉間に突き刺さり、血が噴き出るその様を、俺は――
「この野郎! やっちまえ!」
兵が四人襲い掛かる。
俺は刀を避けながら、矢を継いで放つ。
普通ならそんなことできない。
だけど、全てをまた失った俺は。
そいつらを殺すためならなんでもできる――
「ば、化け物――」
残り一人となった兵。
騒ぎを聞きつけた兵が奥からやってくる。
安堵の表情を浮かべたその顔に、俺は矢を放った。
びしゃっと血が噴き出る。
奥から出てきた兵士は二十人。
何やら言っているが気にしない。
どうせ俺はここで死ぬ。
なら好きなだけ、暴れてやる――
「自棄になるんじゃない」
そう言って俺に迫ってきた兵を一刀両断する男――孫六。
なんであんたが。
そう答える前に、孫六のほうから言う。
「ほっといたら死ぬ子供を見捨てるなんて、できやしない」