8 夫の過ち~信じなかった言葉~
「フェリクス様もご存知でしょう? 婚約者であった頃から『侯爵令息を誑かした毒婦』と呼ばれておりましたもの。あれだけ噂されていたら、使用人の皆さんが心配なさるのも無理はありません」
「だが! そんな馬鹿げた言いがかり、私は否定してきた!」
悪意ある噂を放置したとでも言われた気がして、自然と語気が強くなる。
「私は出来る限り君の名誉を守ってきたつもりだ! 夜会で君が貶されたら止めていたろう!?」
「ええ、貴方はいつも庇いに来て下さった……私が散々なじられてから」
こちらを見据える若草色の瞳から思わず目を逸らす。
私は何をしているんだ? こんな態度、いかにも疚しいことがあるようではないか。
私は婚約者として、結婚してからは夫としてリーナを守ってきた筈だ。
夜会では時々傍を離れることもあったが、彼女を不当に傷つける者が現れたら話を遮って連れ出していた。すると気丈に振舞っていたリーナが、私を見て柔らかな笑みを向けてくれるのだ。
その笑顔が好きで、だからいつも、夜会で彼女を、ひとりに……。
「幼い内は、他家の方が庇ってくれることもありました。するとフェリクス様はとても不機嫌になられたんです。あの令息が私を庇ったのは特別仲が良いからではないか、婚約者がいながらはしたないのではないか、と。初めてお会いした方でしたのに」
覚えがない――筈なのに、腹の奥が石を呑んだように重苦しい。顔を上げられないまま視線だけが机の上をさまよった。
「そんな、こと、あったろうか」
「ええ、何度も。私が同じ年頃の男性と話すと『距離が近すぎる』『婚約者のいる身で馴れ馴れしい』と衆目の中で叱責されました」
「……君が婚約者だと強く示す必要があったんだ。ヴァーロフ侯爵家の姻戚になると印象づければ、中傷も減るのではないかと」
「では気の合うご令嬢と会えても『次期侯爵夫人として付き合う相手を選べ』と言って引き離されたのは? 店の調合室への出入りを禁じられたのは? それも私を守る為ですか?」
「それは……」
私は答えられなかった。嫉妬や独占欲があったことは否定できない。
リーナが慈悲深く聡明であると知られたら、彼女の愛らしい笑みに気づかれたら、他家の令息が言い寄るのではないかと気が気でなかったのだ。結婚した後も浮気という名の恋愛を楽しむ輩から遠ざけたかった。
令嬢達と距離を取らせたのは、私の知らない話題で盛り上がっているのが寂しかったからだ。だがそんな子どもじみたことは言えなくて尤もらしい理由をつけた。
店の調合師達もそうだ。妻の優しさに甘えて気安く話しかけるのも、彼女が楽しそうに応えるのも見ていられなかった。まるで夫の私とより話が弾んでいるようで。
ああ……だからエヴァンジェリーナは一人で研究記録をまとめていたのだ。私が「家政に集中してくれ」と店に行くのを止めさせたから、薬の仕事に関われなくしたから……彼女が優れた調合師と知っていながら……。
沈黙を答えと受け取ったか、リーナが再び口を開く。
「お茶会で、夜会で、私はフェリクス様から『はしたない』と咎められる度に説明しました。異国の薬について話しただけ、調合の手伝いをしただけ、と。ですが、いくら言葉を尽くしても貴方は納得されなかった。いつも『愛してるのはフェリクス様だけです』と言うまでお許しにならなかった」
『愛してる』
それが妻の口から聞こえた瞬間、胸が熱くなった。この世の何よりも私を喜ばせ、何度でも聞きたくなる言葉。だが続いた言葉は胸の火を容易く吹き消した。
「周りの方々からすれば、浮気のバレた尻軽女が縋っているように見えたことでしょう」
貴族にあるまじき言葉遣いに私は顔をしかめた。下卑た言葉を淀みなく口にする彼女に驚いたのもある。まるで何度も聞かされてきたようではないか。
「何度も愛を理由に許しを乞えば、色事が原因と思われても仕方ありません。それに侯爵家の貴方が伯爵家の私を非難されているのです。周りの皆様が私に非があると思ったのも、好きに噂されたのも当然でしょう。男遊びの激しい毒婦だとか、色仕掛けで手に入れた婚約だとか」
「ま……待ってくれ、それでは……噂の発端は私だと?」
リーナへの悪い噂が消えなかったのも、そもそも噂される状況を作ったのも、私だったというのか。
冷や汗の浮かぶ額を片手で拭っていると、この二年で言い寄って来た女性達が頭をかすめた。
ヴァーロフ侯爵家に憧れる令嬢達は、リーナを責める私を見て何を思ったろう。彼女は貶めても構わない存在だと、悪し様に言えば私の歓心が買えると、勘違いしたのだとしたら。
「だが私は、君への陰口は否定してきた」
「フェリクス様のお耳に入る頃には噂も定着しておりましたから、皆様仰っていました。『ヴァーロフ侯爵は悪妻でも庇うお優しい方だ』と」
「そんな……」
友人達もそう思っていたのだろうか。「君も大変だな」と苦笑していたのは噂を払拭しようと奔走していた――つもりの――私への同情ではなく、悪妻を娶った夫として憐れんでいたのか。
高位貴族の私が庇いながら噂が消えなかった状況こそ、何よりの証拠に思えた。
「私の態度にも問題があったのでしょう。弁明するばかりでなく、次期侯爵夫人として毅然と振舞うべきでした……でも……」
不意に、それまで淡々としていたリーナの口調が震え始める。
視線を上げると、妻が苦しげに顔を歪めていることに気づいた。
「それでも『愛してる』と言い続けたのは……フェリクス様への気持ちを疑われるのが何より辛かったからです。周りにどう思われようと……」
「リーナ……」
釣り合わない婚約では、何かあれば家格の低い方へ矛先が向く。それに王国貴族では女性から積極的に愛を囁くのは品が無いとされている。
エヴァンジェリーナは全て分かった上で私への愛を口にしてくれた。その想いの強さに、どうしようもなく胸が締めつけられる。
「だから、一度ではないのです」
長く息を吐いた妻は、意を決したように私を真っ直ぐ見据えた。もう声は震えていない。
「何度も……何年も、フェリクス様を愛していると、信じて欲しいと繰り返してきました。けれどあの夜、貴方は信じなかった。診断書も手紙も調べず私に尋ねられた。その時気づいたんです。ここで身の潔白を……フェリクス様への愛を証明しても、また繰り返すだけだと。それで話す気力も、共に生きていく気持ちも無くなったのです」
たとえ事情を話しても、今までの経験から信じて貰えるとは思えない。
寧ろ下手に動けば義母に始末される可能性もある。
だから署名だけして離縁の成立を見届けず侯爵邸を出た。
そう話す妻の瞳には嫌悪も侮蔑も見えない。
ただ疲労の色が浮かんでいたことに、私はひどく打ちのめされた。