3 妻の行方
チュカーリン伯爵家には侯爵邸に戻った後で人をやっておいたのだが、同じ王都に屋敷があるとはいえ着くのが随分早い。
恐らくリーナは実家に戻っていたのだ。義父には嫁いだ娘を死なせかけたことを誠心誠意詫びなければならない。
そう思いながら応接室に入ると、チュカーリン伯爵は開口一番こう言った。
「この度は誠に申し訳ございませんでした、ヴァーロフ侯爵」
何故謝るのか尋ねるより先に、伯爵と嫡男が捲し立てるように説明を始めた。
今朝早くにエヴァンジェリーナが伯爵邸を訪ねたこと。「妻としての信用を失ったので離縁した」と告げる彼女を追い出したこと。娘に非があると思い込んだ伯爵が貴族院で絶縁の手続きを済ませたこと。
唖然とする私に気づいていないのか、嫡男である義兄が口角を上げる。
「利口ぶるだけの妹には荷が重すぎると思っていましたよ。ああ、もう妹ではありませんが」
嘲笑を隠しもしない態度に、リーナとは折り合いが悪かったことを思い出す。母である伯爵夫人はリーナを産む際に亡くなっていた。
一方、父親はといえば冷や汗をかきながら卑屈な笑みを向けてくる。
「あの娘はもはや貴族ではありませんので、この先ヴァーロフ卿のお目に入ることもございませんでしょう。ですので、どうか我が伯爵家とは今後ともお付き合いのほどを……」
それ以上聞いていられず事情を説明すると、二人はたちまち顔色を失くした。
私は母の非道な仕打ちを詫びた後、妻の行方に心当たりはないか尋ねる。
「どこに行くか言っていましたか? 手紙か何か残していませんか?」
義父は検討がつかないと頭を抱えたが、義兄は一冊の本を置いて行ったと呟いた。何種もの薬と調合法について書かれていたらしい。
エヴァンジェリーナは実家の生業である薬の調合に関心を持ち、嫁いでからも個人的な研究記録を書き留めていた。手掛かりになるかもしれないと期待する私へ、義兄は呻くように告げた。
「……今朝、燃やしました」
「なっ……何故そんなことを!」
「中身は子どもじみた発想ばかりで、役に立ちそうもなかったからです。働いている訳でもない人間がお遊びで書いたものなど――」
「リーナは正式な資格を持った調合師だろう!」
義兄が眉間の皺を深くする。妻は成人直後に医術協会の試験に合格したが、兄である彼はその一年遅れだった。
私は妻の聡明さを愛していたが、義兄は亡き母にそっくりな容姿と次期当主の自分よりも優れた知性を持つ妹にずっと劣等感を抱いてきたのだろう。だからといって家から放り出していい理由にはならない。
二人の態度からして、リーナが真実を話さなかったのは聞いて貰えないと思ったからだろう。
なら昨晩も一切弁明しなかったのは、私が母の話を信じたと思い込んだのかもしれない。私に愛想を尽かされたと勘違いして、離縁状に署名したのだとしたら。あまりに惨いすれ違いに全身から血の気が引いた。
* * * * *
私は必死に手掛かりを探したが何も見つからなかった。
路銀のため高価な品を質屋にでも持ち込んでくれたら足取りを辿れるかもしれない。そう考えたが、ドレスや宝飾品は殆ど残されていた。妻は最低限の着替えと、個人資産のごく一部である金だけを持って出たらしい。
彼女は友人が多い方ではなかったから、他家を訪れているとも思えない。家で茶会を催すより、病院を慰問したり店の調合師達へ差し入れに行ったりする人だった。女主人として家政に力を入れて欲しいと窘めたこともあったが、そういう慈悲深くて労いを忘れないところも愛していた。
そもそも伯爵家から侯爵家に嫁いだ彼女は、下位貴族からは妬まれ、高位貴族からは蔑まれる立場にあった。
美貌のヴァーロフ侯爵家に憧れる令嬢は多かったので、彼女達から悪意ある噂を流されることもあった。色仕掛けで侯爵令息を誑かしただの、男遊びの激しい毒婦だの。そんな根も葉もない噂を否定してエヴァンジェリーナを守ってきたのは私だけだった。
侯爵家の妻が姿を消したなどと知られたら、口さがない連中の餌食になることは目に見えている。私はリーナが無事に見つかった後も社交界へ戻れるよう、周囲に『妻は病気のため領地で静養している』と説明した。勿論チュカーリン伯爵家にも厳重に口止めしている。
私は妻を秘密裏に捜し続けた。物盗りに襲われて川に流されたり、悪党に捕まって外国に売り払われたりしていないことを祈りながら。
やがて見つからないまま一年が経つと、さすがに噂が立ち始めた。
「ヴァーロフ侯爵夫人は心の病ではないか?」
「田舎貴族の娘に侯爵夫人など務まらなかったのでしょう」
「いいえ、遂に男遊びを見咎められて領地に閉じ込められたとか」
下品な噂が広まるにつれて媚を売ってくる女性が増えたのもうんざりした。流言を本気にして次の侯爵夫人か愛人の座を狙っているのだ。もしくは彼女達こそ噂を流した張本人か。
もうじき二年が過ぎようかという頃だった。辺境で作られた薬が王都で評判になり始めたのは。
薬というのが気になった私は望みが薄いのを承知で人を向かわせた。国境の街は王都から馬車で何日もかかる。女性ひとりで辿り着ける場所ではない。
だから戻って来た従者が恐る恐る口を開いた時も、それほど期待してはいなかったのだが。
「若奥様を見つけました、旦那様」