1 妻の不貞
「旦那様、大奥様がお呼びです。すぐに来るようにと」
夜、王都の侯爵邸に着くや否や出迎えの執事は顔を強張らせて言った。
領地の視察で疲れきった体を休める間もなく案内された一室には、年を重ねても美貌を誇る母と、青白い顔をした妻エヴァンジェリーナがいた。
「エヴァンジェリーナは不貞の相手から病気を移されて、子どもを望むのは難しい体になりました」
母が何を言っているのか分からなかった。
椅子にかけたまま呆然としていると、目の前のテーブルに診断書と一通の封筒が置かれる。妻が人目を忍んで手紙を出しに行こうとしたのを侍女が見つけたという。
「フェリクス、貴方が仕事に励んでいる隙にエヴァンジェリーナは男の家で逢瀬を重ね、挙句の果てに貴族の妻として務めを果たせない体になったのです。彼女をこのままヴァーロフ侯爵夫人に据え置く訳にはいきません」
そう言って母が取り出したのは離縁状だった。
何もかもがあまりに突然で、眩暈を覚えて顔を覆う。愛するリーナが浮気したなど、きっと何かの間違いだ。
だが診断書を書いたのは侯爵家の主治医であるセミョーノフ医師だった。高名な彼が誤診するとは思えないし、実際に妻は数ヶ月前から体調を崩している。不調を訴えた直後の診察では原因が分からず、その内彼女は診察自体を拒み始めた。
封筒の宛名も確かにリーナの筆跡だ。医師とあったが見覚えのない名前で、おまけに住所は貧民街の中を示していた。まともな貴族が診察を頼む相手ではない。
何より、当の妻が先程から一言も発していなかった。濡れ衣であれば声を上げて否定する筈なのに。
彼女の沈黙は母の言葉全てを肯定しているかのようで、私は封筒の中を確かめることも出来なかった。もし手紙に睦言が書かれてあったらと思うと触れるのも恐ろしかったのだ。
「リーナ、本当なのか」
気づくと唇から言葉がこぼれていた。不貞の真偽を尋ねたのか、病気のことなのか、長旅で疲れた頭ではもはや分からない。
隣の椅子に掛けていたエヴァンジェリーナと見つめ合う。
波打つ赤銅色の髪に、長い睫毛で縁取られた若草色の瞳。領地にいる間、ずっと会いたいと思っていた美しい妻。
ヴァーロフ侯爵家の者は金髪碧眼の輝く美貌と謳われるが、私はリーナの野花のような慎ましい美しさが好きだった。
やがて彼女は沈痛な面持ちで頭を下げた。
「どうか私より、侯爵家に相応しい方をお選びになって下さい」
全てを認める妻を前に、私は息をするのも忘れた。母が突きつける離縁状を遠ざけ、少し休みたいと部屋を後にするのが精一杯だった。
その後、半ば気絶するように寝入ったらしい。久しぶりの主寝室で目覚めたのは昼前だった。
一人きりの寝台から起き上がると、昨日の出来事が悪夢であればいいのにと願いながら侍女を呼ぶ。とにかく妻と別れるつもりは無い。まずは話をしなければ。
だが、やって来た侍女はリーナを連れて来ることは出来ないと言った。一緒に来た執事が理由を簡潔に述べる。
「エヴァンジェリーナ様は昨晩の内に侯爵家を出られました」
そう言って、彼女の署名がされた離縁状を差し出した。