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婚約破棄から始まるマキャベリズム〜初恋の男の子が領地を食い荒らす“虐殺公”となっていた話〜

作者: 福太郎

太い木の枝にまたがって、遠く山の向こうを見通すように眺めながら、少年は言った。

「なぁ、お前、あの山の向こうのことを、知ってるか?」


「いいえ、知らないわ。それに『お前』って呼ばないで」

 庭のテーブルで手遊びをしていた少女が言う。


「馬に乗って、旅する民族がいるらしいぜ。馬を走らせながら弓を射るのが上手いんだって。

 それからもっと向こう、海の先には、馬よりずっと大きい生き物がいるんだってさ。高さだけでも大人の倍くらいあって、鼻が長くて、耳もデカいんだって」


「本当かしら。馬より大きいなんて信じられない。それよりあなた、木の上になんか登ってはいけないわ」


「高いところに登らなくちゃ、遠くが見えないだろ。俺は、あの山の向こうのことが知りたいんだ。それに、船にも乗りたいな。

 なあ、大人になったら、結婚しようぜ。一緒に船で遠くへ行くんだ。それで、馬よりデカい動物を見に行こう」──



──どうして今になって、こんなことを思い出すのか分からなかった。

 子どもの頃に一度だけ会った、名前も知らない男の子のことを。


 思えば、あれは彼女の初恋だった。しかし、今考えることではない。


「済まないが、貴家(きか)との婚約は無かったこととして頂きたい。アリアーヌ嬢、いや、今となっては、ノルド宮中伯閣下とお呼びした方が宜しいか」


「ええ。そうお呼びくださいませ選帝侯閣下。

 つまり家格は釣り合っても、父亡き後の当家には、貴家にとって婚姻を結ぶほどの価値が無くなった。そう仰りたいのでしょう?」

 ノルド宮中女伯アリアーヌは、表情を変えずにそう言った。


 これにはユデッカ選帝侯ルチアーノも顔をしかめる。


 ノルド宮中伯は、皇帝によって諸侯の監視を任ぜらる有力貴族である。

 しかし、アリアーヌの父、先代の宮中伯が遠征中の事故で亡くなり、一人娘の彼女がその地位と領土を相続すると、主従を結んでいた騎士たちはまるで潮の引くようにして次々に離散した。


 理由は明らかだった。アリアーヌが女だからである。


 彼女は持ち前の商才で領地を出入りする商人を押さえ、経済的な成長を辛うじて維持してはいるが、諸侯同士が激しい領土争いに明け暮れ、国王と家臣さえ平気で戦争をするような世界において、諸侯にとっても騎士にとっても最大の関心は軍事にあった。


 騎士と領主の関係などというのは実にあっさりしたもので、領主が女というのはそれだけで主従が切れる原因としては十分だった。


「加えて、バルバベルクの件もある」と選帝侯は話を逸らすように言った。


 帝国南部の諸公を監視する宮中伯にとって無視できないのは、この数年で版図を急激に拡大させた帝国国境の領地バルバベルクだった。


 その領主は、2つの山に挟まれた小さな村落を相続すると、自領を挟んでいた山岳部族を瞬く間に平定、さらに山を越えた帝国国境の外に広がる騎馬民族をも併呑(へいどん)し、わずか3年にして帝国領土を押し拡げ、その軍事的才覚と領土的野心は帝国全土を震憾させた。


 さらには、これを警戒して差し向けられた諸侯の兵を皆殺しにした上、その首を送り返したというので、今ではこう呼ばれている。


 バルバベルク辺境伯“虐殺公”バルトロメオ・デッラ・ロッカ。


「分かりました。ですが、御本人は?」とアリアーヌは尋ねる。

 彼女が5歳の頃から婚約していたのは、選帝侯本人ではない。その次男リッカルドだ。色が白く、すらりと背の高い、上品な顔立ちの男だった。


「これは家同士の話であり、卿はすでに貴家の当主だ。であれば、当家の家長である私が話すのが筋だろう」


「お心遣い痛み入ります。ですが、何度かお会いしてご親切にして頂きましたので、せめてご挨拶だけでもと思いましたが」


「伝えておこう」


 貴族にとっての婚姻とは、外交手段の一つ過ぎない。


 選帝侯は、アリアーヌの家門に見切りをつけたという以上に、“虐殺公”などと呼ばれる男と対立を宿命付けられた、『宮中伯』という役割を嫌ったのかもしれない。


 それが、我が子を案ずる親心と思えば、我が身の不遇は横に置いても共感できなくはない。


 しかしアリアーヌは、貴族の世界がそれほど甘いものではないということも知っている。


 選帝侯の城を出ると、侍従のマグダにアリアーヌはこう言った。

「当家を離反した騎士と選帝侯との間に、金の動きがないか洗ってちょうだい」


「かしこまりました」マグダは(うやうや)しくそう答えてから、別件ですが、と付け足した。

「バルバベルク辺境伯がハルバーデンを陥としました。いかがなさいますか?」


 アリアーヌは空を仰ぐ。感傷に浸る暇もない。

「早馬を出して会談の場を設けて。対話で解決を図る」


「応じますでしょうか」


「それ以外に、手段がないのよ」

 アリアーヌは自嘲気味に笑った。


  ✳︎


 ユデッカ選帝侯領で婚約の破談を受けたその足で、アリアーヌはバルバベルク辺境伯の前に陥落したというハルバーデンに向かった。


 バルバベルクから返答が無ければ途中で引き返すことも選択肢に入れていたが、道中、使者から辺境伯がハルバーデンで会談に応ずるとの報せがあった。


 侍従のマグダは領地に残った数少ない騎士団を呼び寄せると進言したが、アリアーヌはこれを退けた。


 半端な兵に、相手を刺激する以上の意味はない。


 ハルバーデン砦は石造りの城砦で、それ自体はほとんど無傷と言ってよかった。


 話によれば、砦に焼いた硫黄を投げ入れて毒煙で(いぶ)し、命からがら城塞から逃げ出した兵を待ち構えて皆殺しにしたのだという。


 新興の大勢力であるバルバベルクは、軍備に相当な投資をしているものと考えていたが、門から砦の中へと彼女たちを招いた門兵と見える男は、革鎧の上から剥いだ獣の皮をそのまま羽織った、「言葉の通じる蛮族」といった風情だった。


 砦の一角に高い塔があり、彼女たちはその一番上の部屋へ通された。


 扉が開いた時、そこには男が脚を組んで椅子の肘掛に頬杖をついていた。

「よう。女2人で来たって? 殺されるとは思わなかったのか?」


 大柄な、獣のような男だった。しかし思っていたよりずっと若い。


「『武人の誉れ』がそれを許すなら、私をここで殺すがいいでしょう」

 アリアーヌは平静を装ってそう言った。足に震えがくるのを堪えて、へその下に力を込める。


 すると目の前の男は、天井を見上げ、大声で笑った。

「とんでもねえ胆力だ。気に入った。

 バルトロメオ・デッラ・ロッカだ。名前を聞いても?」


「ノルド宮中伯アリアーヌ・フォン・ノルド。此度(こたび)は、ハルバーデン侵略の経緯、また領土拡大の意図について伺いたく参りました」


「侵略ってのは、幾分聞こえが悪いな」

 バルトロメオはテーブルを挟んだ向かいの椅子を手振りで勧めながら、そう言った。


「事実は違うと?」

 木製の質素な椅子に腰を下ろして、アリアーヌは尋ねる。


「ここの領主が、自分とこの娘を嫁にもらってくれと言ってきた。俺は断ったんだが、ならウチの部下にでもと言ってきかねえ。そこで丁度、独り者の部下が手を挙げたんで、それで双方合意した。ところが後になって使いを寄越し、その婚約を無かったことにしてくれと言う。

 体面だか何だか知らねえが、随分ナメたことを()かすんで、ちょうど使者も2人いたことだし、片方の首を刎ねて片方に持ち帰らせたわけだ」


 なるほど、婚約を破棄された時というのはそうすればいいのか、と思いかけて首を小さく振った。

「そして、毒煙で皆殺しに……」


 アリアーヌがそう言うと、バルトロメオは顔をしかめる。


「おい、そいつぁ誰に聞いた?」


「私は、とても長い耳を持っている」


 アリアーヌが各地に放っている間諜(かんちょう)をそう(たと)えると、バルトロメオは目を細めた。


「残念だが、そいつぁガセだ。ここの連中は、初めの内こそ多少腹を立てたらしかったが、俺たちが兵を挙げると一目散に逃げ出した。着いた頃にはもぬけのカラだ。拍子抜けだぜ」


 アリアーヌは唇に指をあてて目をつむる。ものを考える時の癖だ。


「誰かが、裏で糸を引いているのでは? 怖気付いて領地を放棄するにしても、対応が速すぎる」


「腰抜けの考える事なんざ知らねえな。だが、そうだとすれば、目的は、俺の領地か?」


 バルトロメオの軍勢をハルバーデンまでおびき出し、回り込んで領地を叩く。

 なるほど、筋が通っている。


「自領に引き返された方が良いのでは?」


 アリアーヌは尋ねたが、彼は口元に薄笑いを浮かべていた。


「十分な守備隊を置いてる。俺は労せずしてこの砦と農地、そして奴らが領民の数に数えてなかった農奴たちを手に入れた」


 アリアーヌは思わず唸った。砦を攻略するだけの兵を挙げ、その上で自領に十分な守備隊を残しているという。


「だとしたら、一体どれだけの兵力を?」


「あんたのとこの兵員を教えてくれるなら」


 そう言われてハッと口をつぐむ。


「これは失礼を……」


「いや。あんた、頭の回転が速いな」

 バルトロメオはそう言いながら、アリアーヌの瞳を、その奥行きを測るように覗き込んだ。


 アリアーヌはその時初めて、彼の顔をまじまじと見た。

 その粗野な振る舞いや、野性的な肉体に怯んで気付かなかったが、よく見ると整った顔立ちをしている。


 峻険(しゅんけん)な岩山のように鼻筋が通り、獰猛(どうもう)な肉食獣にも似た鋭い目付きの中にも、知性の光が宿っていた。


「買いかぶりですわ。ところでもう一点、領土拡大の意図について」

 アリアーヌはわずかに目を逸らして言った。


「高いところへ登れば、遠くが見える」

 バルトロメオはそう答えた。


 アリアーヌは瞬きをしてから、動揺を悟られまいと、出来るだけ緩やかな仕草で椅子を立ち上がった。

「お考えは伺いました。私は宮中伯の立場として、帝国の秩序を案じております」


「この世界に、秩序なんてもんがあるとでも?」


「無いとしても」


 バルトロメオは静かに笑った。その口元は、アリアーヌがこれまで見てきたどの貴族よりも、気高く、優雅だった。


「なあ、あんた、本が読めるか?」


「ええ。それは」


「じゃあ、今度会う時は、何か聞かせてくれよ。俺も文字は読めるが、長い文章を読むと眠たくなる」


 アリアーヌはバルトロメオに背を向けて、部屋のドアを開けた。

 頬や耳が熱を持つのを、悟られないように。


「そのような関係でいられることを、祈っております」


  ✳︎


 アリアーヌが自領に帰ってからというもの、彼女の周囲は目の回るような忙しさだった。


 選帝侯の次男リッカルドとの婚約が破棄されたことは、公に発表されたわけでは無かったが、耳の早い商人や諸侯はすでにこの情報をどこからともなく掴んでおり、ある者はノルド宮中伯を見限り、またある者はここぞとばかりに接近を試みた。


 そうして周囲の環境が目まぐるしく変わっていく中で、それでも真綿で締めるように少しずつ、しかし確実に、ノルド宮中伯領は疲弊していた。


 力がものを言う世界で軍事力が低下するということは、同時に経済や産業の衰退も意味している。


 負ければ貸し倒れになることが分かっていて信用取引をしようという商人はいない。すると取引の規模は今持っている現金の範囲に限られ、その現金を実際に国庫から出して支払うという手続きが取引の速度を鈍化する。


 略奪陵辱の憂き目にあうと知ってそこに留まりたい市民はいないし、負け戦をひっくり返す気概を持った騎士よりも、勝ち馬に乗りたい騎士の方が多いことは現実を見れば明らかだ。


 アリアーヌはそうした流れに、必死に抗っていた。


 身分の低い行商人を保護し、他所で迫害された異教徒・異民族の金貸しや両替商を受け入れ、積極的に物と金の流れを作り続けた。


 そのためには教会への根回しも怠ることはできないし、金で動く騎士や傭兵を探しては防衛の適性について慎重に検討しなければならなかった。


 しかし幸いというべきか、そうしていると皮肉にも、婚約を破棄された屈辱などについては考えている暇もなかった。


 その代わり、ベッドに横たわって短い眠りにつく前に、彼女は毎晩バルトロメオの射抜くような鋭い目付きと、それに反して涼しげな口元を思い出しては、懐かしいような照れくさいような、不思議な気持ちになるのだった。


 そんなある日のこと、ノルド宮中伯領の市門前に、騎兵100騎が押し寄せ、城内は騒然となった。


 アリアーヌはなけなしの兵をかき集め、城門を飛び出し駆け付けた。

 いよいよ、この時が来てしまったか、という諦念を、父から受け継いだ領地を守り抜くという使命感と、このまま踏み潰されてなるものかという闘争心によって押し殺し、震える手に力を込めて手綱を握る。


 市門が開いた時、そこに並んでいたのは(くら)(あぶみ)もない裸馬に跨った、野盗同然の男たちだった。


 その長と見える男が、懐から一通の書簡を取り出し高らかに言った。

「我が主人(あるじ)、バルバベルク辺境伯バルトロメオ・デッラ・ロッカより言付けを預かった。門を通されたい」


 アリアーヌは使者を通して受け取った書簡を開き、そこにしたためられた文字を読んだ。



 騎兵100騎を預けたい。ウチの領内でも指折りのならず者だ。

 都会の流儀を教えてやって欲しい。

 有事の際には使ってもらって構わない。腕は立つ。


 追伸 あんたは「長い耳を持っている」といったが、小ぶりで形のいい耳だ。

    俺にはそう見えた



 顔が真っ赤になるのが感覚で分かった。

「どうぞお通り下さい。着るものを用意致します。そのお召し物では領民が怯えましょう」


  ✳︎


 バルバベルク辺境伯からノルド宮中伯へ騎兵100騎が贈られたという出来事は、大きく2つの意味を持っていた。


 1つには単純に、ノルド宮中伯の兵力が回復したということだ。


 100騎というのは通常、戦況をひっくり返すのに十分な兵力とまでは言えないが、それが山間の小領地だったバルバベルクを辺境伯領にまで押し広げたバルトロメオ・デッラ・ロッカの騎兵であるという事実は、その数だけでは計り知れない意味を持っていた。

 そして軍事力の回復は、この場合、経済力の回復に直結している。


 しかし、この出来事が持つもう1つの意味も、無視できなかった。

 それは、宮中伯と辺境伯の接近、悪くすれば癒着を疑われるという点である。


 本来宮中伯という立場は、諸侯の監視監督を担うものだ。

 その宮中伯が、急激に版図を拡大するバルバベルク辺境伯と懇意にするということは、捉えようによっては背任と見なされる恐れさえある。


 いずれにしても、バルバベルク辺境伯の真意を確かめなければならない。


 アリアーヌは日を置かず、バルバベルクへ書簡を出した。


 その返事を待っていたある日、彼女を訪ねる者があった。


 来訪者はリッカルド。ユデッカ選帝侯ルチアーノの次男であり、かつての婚約者である。


  ✳︎


 使用人に案内されて応接室へ通されたリッカルドの態度は、実に堂々としたものだった。


「閣下、ご無沙汰しておりました」と彼は会釈をする。よく訓練された貴族の仕草だ。


 アリアーヌは無言で会釈を返し、彼に椅子を勧めた。


 望んでそうなったわけではないが、彼女は父の身分を相続し、ノルド宮中伯となった。


 選帝侯の長男ならまだしも、次男であるリッカルドとの間では、身分の上下は曖昧だ。


「リッカルド卿、本日はどういった御用向きで?」


「単刀直入に申し上げます。私と、結婚してくださいませんか。父を説得しました。

 閣下はお父上亡き後、独力で領地の経済を維持し、一時は低下した軍事力も回復の兆しを見せておられます。そこで……」


「つまり、当家にまた、貴家とお付き合いするだけの価値が生まれたと」

 アリアーヌは目を細めた。

 この青年は、これを本心から言っているのだ。


 帝国南部の一大貴族である自分の家は、相手を選ぶ立場にあり、その価値が下がれば当然婚約は反故にするし、またそれが回復するなら反故にした婚約も再度結ぶことが出来ると。


「当家と血縁を結ぶことが、貴家にとっても大きな利益となるのは、もはや説明の必要もないでしょう。バルバベルクがこの数年で力をつけたと言っても、財力、軍事力ともに、当家の足元にも及びますまい。仮に、貴家と辺境伯が手を結んだとしても」


 アリアーヌは、身体が芯から冷えていくのを感じた。

「当家の先代が亡くなった時、多くの騎士が離れていきました。

 騎士も食べていかねばなりません。1人の主人を離れれば、別の主人につくのは当然のことでしょう。ですが、彼らの多くを、今は貴家が抱えておられる。この事実を、私はどう捉えるべきでしょう。

 騎士たちは、当家を離れ、貴家に入ってからお金を得たのではない。お金を得てから当家を離れたのです。

 憶測でものを申し上げるのは好みません。私が申し上げられるのは、その事実を把握しているということです」


 リッカルドはにわかに眉をひそめた。しかし、すぐに平静を取り戻して、こう答えた。

「貴族の世界とは、そうしたものです」


 アリアーヌはうなずいた。

「左様でございますわね。どうぞ、お引き取りくださいませ」


 リッカルドの目から光が消えた。貼り付いていた恭しさはどこかへ消え去り、無造作に椅子から立ち上がる。


「残念です」とだけ言って、リッカルドはアリアーヌに背を向けた。


  ✳︎


 その日の夜はいやに冷えた。


 窓の外には深い霧が立ち込め、街の灯りをおぼろげに滲ませている。


 アリアーヌはベッドに横たわり、ため息をついた。


 その約束が貴族どうしの政略から生じたものだとしても、リッカルドを未来の夫だと思い、そこに何か、愛に似たものを生み出せたらと、胸をときめかせた時も無かったわけではない。


 しかしそれは幻想だった。


 おそらく父の生前であれば、その約束は果たされただろう。


 婚姻してから父が死ねば、宮中伯は夫であるリッカルドが相続していたからだ。しかし、すでに女が相続した宮中伯位は、結婚したからといってその夫に移動したりはしないというのがこの世界の慣例だった。


 リッカルドか、あるいはその父は、男である自分や親族が、女の下に置かれることを嫌ったのだとアリアーヌは考えていた。だが、それならまだ良かった。


 共感はできないが、それでも彼らなりの誇りがそうさせるのだろうと思えなくもない。しかし、彼らが考えていたのは結局金だった。金だけだった。


 ノルド宮中伯領が軍事的に衰退すれば、それに伴い経済も衰退していく。しかしそうならなければ、女の下だろうが何だろうが、金になるなら構わない。


 これが貴族か。貴い血族の根性か。


 ベッドから起き上がって枕を掴んだ。そしてそれを壁に投げつけようと力を込めたその時、不意にこつこつと窓を叩く音がした。


 細かく吹き付けられたステンドグラスの格子窓から外を覗いて驚いた。


「バルトロメオ卿……!」


 アリアーヌが声をあげると、「静かに……」とバルトロメオはささやいた。


 壁の石積みに指をかけ、外壁を登って来たのだ。


「なぜ……」


「まず、入れてくれると助かるんだが。壁に貼り付いてんのは間抜けで仕方がねえ」


 アリアーヌが窓を開け放つと、バルトロメオはそこに手をかけて、一息に部屋へと転がり込んだ。


「バルトロメオ卿、一体、どうして。ここが何階だとお思いですか」


「高いところへ登れば、遠くが見える。そこに美人がいるなら、なお良い」


「やはり、貴方は……」

 幼い頃に、一度だけ出会った男の子。


 彼はどこかの公爵の子息だった。貴族の子供とは思えない奔放さで、しかしそう考えると合点がいく。


 バルトロメオの粗暴さを持て余した公爵家は、厄介払いも兼ねて、2つの山に挟まれた辺境の小さな領地を相続させた。


 まさかその2つの山と、その向こうの平原にまで領地を拡大するなどとは夢にも思わず。


「俺は山の向こうを見てきたぜ。馬に乗るのが抜群に上手い騎馬民族が本当にいたんだ。だが、まだ船には乗れてねえ。

 アリアーヌ、ここは良い街だが、俺やあんたには狭すぎるぜ。だから俺は、あんたを拐いに来たんだ。

 ここを出ようぜアリアーヌ。船に乗って、広い世界を見に行こう」


 涙が出た。


 国を捨て、領地を捨て、地位も家臣も何もかもを捨てて、広い世界を見に行く。

 それはどんなに素敵なことだろう。


 しかし「出来ません」とアリアーヌは答えた。「私がここを去れば、この街は周辺諸侯に食い潰されてしまう」


「例えば、ユデッカ選帝侯」とバルトロメオは言った。


「ご存知でしたか」


「ハルバーデンを攻めた時、中はもぬけの殻だった。ならそこにいた奴らはどこへ行ったか。そう隠しおおせるものじゃねえ。

 足取りを追うと、連中がユデッカの支配する別の領地に移ったことが分かった。

 ユデッカがあんたとの婚約を破棄したのは、おそらく理由が2つある。

 一つはこの街を手に入れるために()()()()()()()を思いついたから。

 俺を挑発してハルバーデンを陥落させ、あんたと俺をぶつける。俺が勝てばこの街は奴らのもの。仮に負けたとしてもバルバベルクが落とせる。少なくともどちらか、良くすりゃ両方モノに出来ると踏んだ」


「でも、そうはならなかった」


「ああ、まさか侍従一人連れて乗り込むなんざ夢にも思わねえ。

 俺の考えるもう1つの理由は、あんたの頭がキレ過ぎるからだ。しかも度胸まであるときた日にゃ手に負えねえ。仮に血縁を結んでも、あんたを思い通りには出来ねえと考えた。

 だが、お陰で俺たちはこうして、家まで遊びに来る仲だ」


 アリアーヌは笑った。久々に、それこそきっと、子供の時以来、声を出して笑った。

「私はそんな中、間抜けにも、愛されることを夢見ていた……」


「なあ、あんたはどうしたい? 父親を亡くした娘の領地から、金で武力を引っ剥がし、婚約を反故にして、別の領地と共倒れにしようって連中について、どう思う?」


 アリアーヌは、天井を仰いだ。


 そして、もう恥も外聞もなく、ただ思いのままに、こう言った。

「ムカつく」


「奴らが消えれば、この帝国南部は俺たちのもんだ。どこへ行こうが、何をしようが、誰にも文句は言わせねえ。

 ユデッカの連中が、金をばら撒いてこの領地から騎士を吸い上げたのは、考えようによっちゃ悪くねえ出来事だった。もうここに、金で転ぶ騎士はいねえ。残った奴らは、本物だ」


 その通りだと、アリアーヌは思った。失ったものの事ばかり考えているべきではなかった。それでも残ってくれた人たちがいるのだ。


「しかし、相手が選帝侯ともなれば、それなりの大義名分が必要です」


「俺の読みが正しければ、その『大義名分』って奴は、今夜辺り向こうからやって来る」


  ✳︎


 人払いを済ませた城の中に、2人の声だけが響いた。


「──君主は自身を守るために善行ではない態度も取る必要がある。

 あらゆる君主はその気質が評価されるが、一人の君主があらゆる道徳的な評判を勝ち得ることは原理的に不可能であり、全般的に考察すると、美徳であっても破滅に通じることがあり、逆に悪徳であっても安全と繁栄がもたらされることが、しばしばあるからである──ここではそのように書かれています。

 君主は信じすぎず、疑いすぎず、均衡した思慮と人間性を以って統治を行わなければならなりませんが、愛される君主と恐れられる君主を比較するならば、愛されるより恐れられるほうがはるかに安全であるとここでは考えられている」


「なるほど。ところで、あんたはこれについてどう考える?」


「このような支配のあり方は、早晩終わりを迎える」


「何故だ?」


「支配階級より、被支配階級の方が、圧倒的に数が多いからです」

 そう言いながら、アリアーヌは本を閉じた。


「なるほど。納得出来る。俺は、そう遠くない将来、俺のやり方が通用しなくなると考えていた」


「貴方のような方も、そのように考えるのですね。その……」とアリアーヌは言葉に詰まった。


「“虐殺公”と呼ばれるような男でも?」


「言葉を選ばず言うなら」


「俺がただ殺すだけの男なら、俺の領地はあれほどデカくはならなかっただろう」


 扉の外に、足音が聞こえた。

 身構えるアリアーヌの竦んだ肩を、バルトロメオは抱いた。


「だが、今この瞬間、世界は力が支配している。今夜は、霧が深い」


 バルトロメオは椅子から静かに立ち上がると、腰に下げた剣の柄に指をかける。


 音を立てて扉が開いた。

「ノルド宮中伯アリアーヌ、お命、頂だ──」そこで声は途切れた。


 バルトロメオが肩口から腰にかけてを甲冑諸共(はす)に斬り裂いたからである。


 その後ろに居た刺客の首も、返す刃で刎ね飛ばすと、別の一人を頭の天辺から真一文字に叩き割り、また別の男が斬りかかるのを蹴倒して、その喉を貫いた。


 まさに瞬く間の出来事だった。バルトロメオは一瞬の内に4人を斬り伏せ、腰を抜かす最後の一人を見下した。


「貴様……まさか……」

 震える声でそう言うのは、選帝侯の次男、リッカルドだった。


「地獄にこの名を触れ回れ。バルバベルク辺境伯バルトロメオ・デッラ・ロッカ」


 バルトロメオは、切っ先をリッカルドの首筋にあてながら、懐から短刀を取り出してアリアーヌに差し出す。


 アリアーヌはそれを受け取ると、リッカルドの前に屈み、その顔を覗き込んだ。

「貴方は、私を殺しに来たのですね」


 この男が復縁を迫りに来たのは、そのこと自体が目的ではない。この街にいることに理由が必要だったからだ。アリアーヌの暗殺のために。


「まさか! 冗談だよ。驚かせようと思っただけだ! そうだ! この男! 許されないぞ、こんな狼藉は!」


「残念です。リッカルド卿──」

 抜き払った短刀の刃が、窓から入った月明かりを照り返して鈍く光った。


  ✳︎


 深い霧のかかった夜明けのことである。


 ユデッカ選帝侯領城門前に、一騎の騎馬に跨って、ものものしい戦装束に身を包んだ男装の麗人が、高らかと声を上げた。


「我が名はノルド宮中女伯アリアーヌ・フォン・ノルド!

 いやしくも、このアリアーヌの寝首をかかんと我が居城に忍び込んだ、ネズミの首をお届けに参った!」


 令嬢の叫びに応えるように、霧の中からもう一騎、甲冑をまとった騎士が手に提げた包みを高い城壁の歩廊に向かって投げた。


 城壁の上に構えていた衛兵は、胸壁を超えて歩廊に転がったその包みを見下ろしたが、その白い布に赤黒い滲みを見ると、「まさか……」と慌ててその結び目をほどいた。


「リッカルド様……!」


 この騒ぎに駆けつけた、ユデッカ選帝侯ルチアーノは、息子の首を受け取ると、一言冷たく、「殺せ」と呟いた。


 重々しく音をたてて軋みながら、鉄の城門が開く。


「娘一人とそのわずかな手勢だ! 踏み潰せ!」

 それを合図に衝いて出ようと馬の尻を叩きかけた騎士たちが、揃って手を止める。


 霧が晴れるにつれ、敵の全容が明らかになったからである。


 馬首を揃えて城門前に隊列を組む大軍は目測でも1万を超える。しかしそれはあくまで馬を数えたに過ぎず、その脇にはさらに、各々打物を携えた歩兵が殺到していた。


 局地戦で言えば、大国同士の衝突でも両軍合わせて3万程度が最大規模であり、地方領主や土豪が日常的に経験した戦闘は100名を超えることすら珍しい。そういう世界において、1万の兵が居城を包囲したということは、物語の結末を予感させるには十分だった。


 騎兵はそれぞれ、長い槍の穂先に、何か括り付けている。目を凝らすと、それは城下を守っているはずの守備兵の首だった。


 音もなく、皆殺しにされたのだ。


 誰一人、伝令に走る暇さえ与えられず……。


 隊列の中から進み出て、一人の大柄な男が叫んだ。

「バルバベルク辺境伯“虐殺公”バルトロメオ・デッラ・ロッカが、ここの全てを頂きに来た! 領地、領民、金、酒、女! 全て寄越せ!」


  ✳︎


「『女』って、仰いました?」

 アリアーヌはバルトロメオを睨む。


「何が?」バルトロメオは首をかしげた。


 場内では散り散りに逃げ惑う選帝侯の兵を、バルトロメオとアリアーヌの兵たちが追い回している。


「ですから、『金、酒、女』って仰ったじゃありませんか。バルトロメオ卿。このアリアーヌの他に、女が欲しいと?」


「いや、語呂が良いから……」

 バルトロメオはきまり悪そうに目を逸らす。


「どうだか……」

 そう言って口を尖らすアリアーヌの前に、ユデッカ選帝侯ルチアーノが引き立てられた。


 バルトロメオの擁する山岳部族の手際は鮮やかだった。家々の陰に潜み、音も無く敵を葬り去る。長く山岳の集落を守り続けてきた彼らは、そうしたやり方に長けていた。


 そうして城下を掃討し、霧に紛れてルチアーノの居城を包囲すると、挑発に乗って開け放たれた城門へ、騎兵が白羽染羽の尖矢(とがりや)を次々に射掛け、そのまま槍を構えて殺到する。


 その先頭にはバルトロメオが将自ら先陣を切って、(おのの)く敵兵をばたばたと斬り伏せていった。


 バルトロメオは数年前、山中で部族間の勢力争いに明け暮れていた首長とその一族を根絶やしにして、その山向こうにいた遊牧民たちも同様にして統一した。


 しかし彼の最大の武器は、その類稀なる戦技能力でも、残虐性でもなかった。

 力の支配する世界で、『力のカリスマ』であるということだ。


 支配層だけを手早く殺し、そのカリスマ性によって取って代わることで、そこにいる兵をほとんどそのまま手に入れることが出来るのだ。


 そのために、帝国南部の諸侯が見積もっていたより遥かに大きい戦力を、彼は有していた。


「アリアーヌ嬢……!」ルチアーノは媚びた視線をアリアーヌに向けながら、命乞いの文句を探すように、口をモゴモゴと動かした。


「ご機嫌よう、選帝侯閣下。私のことは、ノルド宮中伯とお呼び下さいませ。そう仰ったのは閣下ではありませんか」


「金なら出そう! いくら欲しい! 宝石も、珍しい絵画もある! 書物はどうだ? お好きだと聞いておる──」


「閣下、私の考えることは同じですわ。閣下と同じ。殺して奪えばいい」


「馬鹿な! 私を殺せば、帝国の秩序はどうなる! 今まで当家が諸侯に睨みを利かせてきたからこそ──」


「この世界に、『秩序』などというものが有るとでも?」


「貴女の暗殺を目論んだのは、息子の独断だ!」ルチアーノは叫んだ。


 バルトロメオはその老人を蹴倒し、踏みつけた。


「男が惚れる男であり続けること、それが力の世界で昇りつめるコツだ。てめぇはそうじゃなかった」


 アリアーヌはそれを見下ろし、言った。

「ではバルトロメオ卿にお任せしましょう」


「良いのか?」


 バルトロメオの声に、アリアーヌは鼻で笑う。


「息子の仇に命乞いをする男など、興味が御座いませんわ」


 ルチアーノは必死に何かまくし立てたが、聞き取れたのはその途中の数語だけだった。

「──このような野蛮なやり方がまかり通るような世は──」


 アリアーヌはそれに答える。

「ええ。いつか、力が支配する時代は終わりを迎えるでしょう。卿が当家の騎士たちを金で買ったように、早晩、金が支配する時代がやって来る。その先にはまた違うものが、世を支配する時代が来るのかもしれませんね。

 ですが閣下、今、この瞬間は、力が世界を支配している。

 地獄でお待ち下さいませ。いつか私もそこへ堕ちるでしょう。どうぞその時まで、ご機嫌よう」


 バルトロメオはルチアーノの首を一太刀に斬り落として部下たちに告げた。

「残党狩りだ。禍根を残すな。一人残らず殺せ」


  ✳︎


 神聖ユピテル帝国の領邦国家としてバルバベルク=ノルド王国が建ったのは、【ユデッカの虐殺】から3年後のことだった。


「良かったのですか? 国を離れて」

 潮風に吹かれながら、アリアーヌは訊ねる。


「高いところに登れば、遠くが見える。だが俺は、遠くから眺めていたかったわけじゃねえ。そこへ行って、手で触れて、匂いや温度や感触を、味わい尽くしてえのさ」


「だから貴方は、領主がその地を離れても、領地経営が成り立つ仕組みを必要としていた。そのために、私の知見が必要だった」

 アリアーヌは拗ねたように、バルトロメオを睨む。


「鈍いこと言うね。ガキの頃を、忘れたか?」


「どうだったかしら」


「あの頃、あんたにはすでに婚約者がいて、俺は辺境の領地に厄介払いされることが決められていた。年端もいかねえガキの頃から。

 だから俺は、高いところに登ったのさ。遠くを眺めて、あんたを見つけるために」


「あの時から、ずっと?」


「ああ、そうさ。近くへ行って、手で触れて、味わい尽くすぜ。海の向こうの話じゃねえ。あんたを」


 バルトロメオはそう言うと、アリアーヌを強引に抱き寄せた。


 思わず口の端から漏れた声が、波間の向こうに消えて行った。

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[良い点] 読み始めて感じたのは 「流行り要素を取り入れた風の骨太設定……! 福太郎さんめ……!!」でした。 キャラや地名から漂う本格派のオーラは隠しようもなく、言葉遣いや情景描写からは中世ヨーロッ…
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