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カーブミラーに喰い殺される

作者: 小林芍薬

 夕暮れの住宅街は苦手だ。


 沈みかけた太陽の光を受ける家のひび割れた漆喰。気味の悪い宇宙人のようにどんどん伸びていく私の影。影の中から誰かが出てくるような気がして、いつも急いで帰っていた。


 網目状に広がる狭い道路を、私は藻掻くようにして走った。まるで蜘蛛の巣にかかった虫が逃げ出すかのように、息を切らせた。


 車の音が怪物の鳴き声に聞こえた。気が付いたら私の背後に誰かいるような気がして、何度も一人の通学路を振り返った。



 カーブミラーがこちらを向いていたのは、得体のしれないものへの恐怖心も幾らか薄れた小学六年生の秋口だった。


 どこにでもあるようなY字路である。折れてしまいそうなオレンジの体で巨大な鏡を支えているそれは、ある日、私と目を合わせた。


 普段は鋭角に曲がる道路の見通しを確認するための鏡部分が、思い切りぐにゃりと曲がっていたのだ。真っすぐに道路を見据えているはずの顔は、なぜか俯くように下を向き、私を見下ろしていた。


 下校途中の私は、背筋が凍る思いをした。鏡の中に移る私の顔が、酷く歪んだものに見えた。


 それが自分の顔ではないような錯覚を覚えた。鏡というのは不思議なもので、ずっと眺めているとゲシュタルト崩壊を起こしてくるのだ。


 鏡の中にいる私は本当に私か?


 否、鏡の外にいる私は本当に私か?


 腹の底から出た疑問を解消する能力を持っていない私は、無我夢中で家に駆け込んだ。いつもは丁寧に揃える靴を、乱暴に脱ぎ捨てて、ランドセルを放り投げる。脇からはみ出していたリコーダーがその衝撃で吹き飛んだことにも気が付かなかった。


 手も洗わずに、リビングに通じる引き戸を開ける。力が入りすぎていて、扉が壁を叩く音が大きく響いた。


 私の様子を見た母親が呑気そうにキッチンから私に声をかけた。


「どうしたの。ただいまも言わないで」


「お母さん。あのね、」


 事態を説明しようとして、言葉が出てこなかった。


 私は、何といえばあの恐怖を伝えることができるのだろう。


 カーブミラーに凝視されていた恐怖を。まるで自分が吸い取られるような恐怖を。


 子供の想像力ってすごいわね、と一笑に付されることなく聞いてもらえるのだろう。


 数秒ほど黙り込んで考えたが、結局私は見たものを素直に打ち明けるしかなかった。


「カーブミラーが私を見ていたの」


「ああ。あそこのカーブミラーでしょ。新しくできたんだってね」


「私を見てくるの」


「どういう事?」


 母の呑気さが癪に障り、胸にざらつきが生まれる。どういう事かなんて、こっちが聞きたいくらいだ。私が何に恐怖を感じているのか。明確に言語化などできるわけがなかった。


「なんか怖いの。こう、ぐにゃっと曲がっててね。ミラーが」


「あそこで事故なんかあったかな?」


 違う!


 彼女は優しい母親だが、どこか気の抜けたところがあった。いつもならばそれは私に安心をもたらしてくれるものなのだが、今回は事情が異なっていた。


「事故じゃないの。上手く説明できないんだけど……」


「じゃあ、カーブミラーに聞いてくるしかないわね」


 母としては冗談のつもりで言ったのだろう。帰宅したと思ったら意味不明なことを喚き散らす娘の対応をするのに飽きたのかもしれない。


 しかし、私はそうは取らなかった。


 カーブミラーはなぜ私を見ていたのだろう。支柱がねじ切れるほど体をくねらせて、覗き込むように見ていたことに理由があるのだろうか。


 分からなければ、カーブミラーに訊きに行けばいいのだ。


 もはや母の言葉は私にとって天啓だった。すぐ帰る、と言い残して乱暴に履き捨てた靴を再び履き、玄関のドアを開けた。



 家にいたのは数分だけだったのに、辺りはめっきり暗くなったように感じられた。同じ方向に細く伸びる影は、傾きかけた太陽の尻尾のようだった。


 私は息を大きく吸い込んで、カーブミラーの場所へと走った。車が通らない横断歩道を駆け抜け、恐怖の根源と対峙する覚悟を固める。



 未だにカーブミラーはその身を大きく歪ませて、そこに鎮座していた。相変わらず向くべき方を向いておらず、ミラーの役割を全く果たせていなかった。


 恐怖なのか、走ってきた疲労からなのか、胸が苦しかった。


 私が恐怖を感じたカーブミラーは、住宅街に佇む異形のように夕闇に佇んでいた。


 しかし、私が下校するときに見たものとは異なっていることもあった。


 あの恐るべき鏡は、逆の方向に体をねじっていたのである。


 私と目を合わせた時の鏡の位置は、つまり歩道を向いていた。


 しかし今眼前にあるそれは、歩道とは逆、コンクリートの壁を向いているのだ。


 

 この胸に重くのしかかる感情の正体は、恐怖であることには気付いていた。意味の分からないものへの恐怖。ひょっとしたらこの鏡には怨霊が宿っており、私が話しかけた瞬間食い殺されてしまうのではないかという恐怖。


 それをしっかりと自覚しながらも、私は目の前の無機物に対して口を開いた。


「カーブミラーさん、こんにちは」


 ……。


 返事はない。秋の乾いた風が私の首筋をざらりとなぞる。


「どうしていつもと違う方向を向いているの?」


 ……。


 返事はなかった。


 当たり前だ。無機物と会話ができるわけがない。傍から見れば、道端の鏡に声をかけている私の方がよほど恐怖の対象たりうるだろう。


 そんなことを思い、幾分か恐怖が和らいだ。額に流れる嫌な汗をぬぐい、ため息を吐いた時、私の頭上から声が聞こえた。


「僕を呼んだのは君かい?」

 

「⁉」


 全く期待していなかった返答がはずの聞こえ、恐怖を忘れて頭上を見上げた。


 動脈を流れている血のような茜色に染まる空の下、私を見下ろしているのはカーブミラーしかいなかった。


「もしかして、カーブミラーさん?」


 ああ、と言葉少なに返答するカーブミラー。好奇心が鎌首をもたげ、私は質問をした。


「どうして今日は、違う方向を向いているの?」


「治そうと思って思い切り動かしたら、今度は逆方向に曲がってしまってね」


 ……?


 いまいち要領を得ない回答に、私は首をひねる。


「それって、どういうこと?」


 私がそう問い返すと、カーブミラーがゆっくりと動き出した。


 鏡に夕映えが反射して、不規則に輝いていた。ぎぎぎ、と金属がこすれ合う不快な音が辺りに響く。


 カーブミラーはいつも映しているところより数メートル右で止まり、憂鬱そうに息を漏らした。




「昨日、首を寝違えたんだ。ここまでしか動けないんだよ」

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