真下君と真代くんの日常
春。
入学式。
新しい環境。
新しい出会い。
中高一貫校の僕にはさして変わりのない1日のはずだった。
今は、激しく憂鬱だ。
教室に入った途端、僕は目を見開く。
立ち込めるシャンプーの香り。
近づけば、風呂の中にでもいるんじゃないかと錯覚するような濃いフローラル。
今年から共学になったこの高校での女生徒の存在は、数こそ少ないが、その威力は凄まじい。
濃いグレーに赤のチェックのスカート。紺色のブレザーにお揃いの赤色のリボン。
男子校で育った僕らに、その赤色は控え目ながらも強烈な印象を与えた。
「クラスの隅っこにいそうな奴」の代表格の見た目をしているぼくは、ガラガラ、と教室の扉を開けた瞬間に一斉に視線を浴びるけれど、すぐにその視線は霧散して行く。
特に仲の良い友達も居ないと思っている僕は、誰かと目を合わせることもなくため息をついて、配られた紙を見ながら自分の席に着席する。
あぁ、憂鬱だ。
新しい人間関係。
新しいルール。
女生徒という存在。
何とも誰とも関わらず、ひっそりと一年をやり過ごす事だけが入学してから変わらない僕の目標だ。
それなのに。
あぁ、憂鬱だ。
後ろのやつが特に。
「…ろ。…びろ……ろ…ほ…」
僕の後ろの席のヤツはド派手なマスクをつけて、ずっとブツブツ言っている。
声を掛けたくないが、隣の女の子が真代くんの事を眉をハの字にして見始めたので、はぁ、とこれ見よがしに嘆息し、仕方のない感じをこれでもかと醸しながら話し掛けた。
「真代くん、朝からうるさいよ。」
「黙れ、真下。今は呪詛の最中だ、邪魔するな」
「女滅びろ女滅びろ女滅びろ女滅びろ女滅びろ…」
こんな奇行は僕の中では挨拶みたいに軽い。
「それに、そのダサい紫のマスクはなんなの」
「ダサいとはなんだ。真下、聞いて驚くなよ。これは画期的な発明だ。これを着けると女菌を99.9%寄せ付けないんだ。…背に腹は変えられないだろう。」
「そんな発明、真代君位しか思いつかないよね。ていうか、やっぱりダサいって思ってるんじゃん!」
「機能性ではなくデザインを気にするなんて…全く仕方がないな真下は。」
僕のせいにしながら、(きっとダサいって言われてショックを受けた)マスクを丁寧にしまう真代くん。
(僕は機能性も優れてないと思っている)マスクのせいで曇った自慢のハーフフレームの銀縁メガネを拭いた真代君は(事実、僕は真代君にこの眼鏡は知り合いのパリジャンに選んでもらったんだと何回も自慢された)、整った薄い唇を片方だけ上げて物凄く悪い顔をした。
真代君はなまじ顔が整っているのもあり、考えていることは限りなく下らない事なのに、インテリヤクザが悪巧みを思い付いた様な邪悪さを秘めていた。
それをチラ見したであろう隣の女の子はハの字の眉を寄せて脂汗が浮かび上がり、すごいことになっていた。
「見ろ、あの女は僕の呪詛に掛かったな。どんどん顔色が悪くなっていっている。ざまぁみろ!滅びろ!」
ギリギリ彼女に聞こえるか聞こえないかの辺りが彼の計算された意地の悪さを感じる。女々しいやつめ。
「残念だけど、彼女は君の中二みたいな呪詛で滅されそうになってる訳じゃなくて、単に緊張してるだけだと思うよ。ブレザーにまで脇汗染みてきちゃってるもん。かわいそうに。」
流石に顔色が悪くなったので、声を掛けようと思ったけれど、他の男子生徒が声を掛けて2人で教室を出て行く。保健室に案内しに行ったのだろう。
その時にそいつに睨まれて、僕は何も悪くないのにすみませんと謝った。スクールカーストの低いやつの扱いなんてこんなもんだ。けっ。
彼女が保健室に行く背中を押すことになった元凶見てみると、ロダンの考える人の像の様に深く考え込んでいた。
「…真下、何故女がこの世に存在するんだ。」
「…何で僕はまた君と同じクラスなんだろう。」
同じタイミングで、お互い深い質問をしたなと僕は思った。
「それは、君と僕の所属する理系特進クラスは一つしかクラスが無いだからだ。中学からそうだったろうが。」
真代君はダメな子を叱る親のような顔をしてる。
「わぁ。本当だ。すごいね真代君」
僕は感動で目の前が真っ暗になった。
「君は偶に頭の悪い受け答えをするな。」
「女菌遮断マスクつけてるようなやつに言われたくないよ!」
僕が声を荒げると、近くにいた女生徒が「やば…まじオタクキモい…」と呟きながらスマホを弄っている。
なんで…なんで、こんなヤツと同じ穴の狢と思われなくちゃいけないんだ…しかも、誰とも知らない人にも僕と真代君が同類だということが世界中に拡散されたかもしれない(呟きと言う名のSNSによって)。
何も知らないくせに。
女滅びろ女滅びろ女滅びろ…
「…ほう。君はオタクなのか?知らなかったな。」
「彼女は君に対して呟いたんだと思うんだけど」
僕が鼻息を荒くして女生徒に呪詛をかけていると、彼女の声が聞こえていたのか、彼は眼鏡縁をクイっと手のひらで掛け直して僕を見つめる(僕は彼がこの仕草をする時に、てやんでえっとアテレコを付けてストレス発散をしているのは秘密だ)。
「それに、僕が無趣味で何にもこだわりが無いのは君が一番知ってるだろ?!」
「あぁ。君が無趣味であり、且つ、こだわりも下らないものが多いうえに実につまらない人間だという事はこの学校の中では一番理解しているつもりだ、安心しろ。」
「さり気なく、僕の自己申告より酷い事言ってるよね?」
「いや?そうとは限らない。あの宇宙人はもしかしたら仲間と交信して、君の素性を誕生時から調べ上げてるのかもしれない。その上で真下には実は切符の発券番号や車のナンバープレートの様に、横並びしている数字を見るとつい答えが10になる様に四則演算するクセがある事に気付いてあの発言をしたのかもしれない。」
「ちょ、僕そんな気持ち悪い趣味ないよ!!!何で本当っぽく言うんだよ!」
「まぁ、僕は君と違ってそんな矮小で無意味な趣味は持ち合わせていない。今はLes Misérablesを原文のまま読んでみたくて、フランス語の勉強が趣味だ。」
「話を聞けよ。さり気なく自分優位で会話が終わるのはパリジャンの影響か?そうなのか?真代君の、何かチョイスが少し古い上に作品名だけそれっぽく発音するのがすごい耳障りなんだけど。」
左耳がてやんでえ野郎のせいでザワザワする。
「おい、そこの女」
真下君は急に僕等をキモいと言った女生徒に声をかける。
「ひっ」
一生懸命指を動かしていた手を止めてこちらを見つめる(コンタクトで嵩増しした)黒目がちで宇宙人みたいな大きな瞳。
真っ黒でツヤツヤした長い髪の毛。
眉にかかる位の前髪の彼女は正面から見ると、前歯が少し大きくて、童顔。げっ歯類の何かに似ていそうな顔立ちだ。いかにもハッシュタグをつけて世界に自分を発信してるタイプの人間。…僕とは正反対の人間。
「僕も真下も偏りのある趣味は持ち合わせていない。貴様が初対面である僕と真下に対して「ヤバ…まじオタク気持ち悪い」と発言したのは、お前ら女特有の妄想だからじゃないのか?妄想こそ偏りのある趣味だとは思わないか?なあ、真下?」
「まぁ…どうなんだろうね…?」
僕なら、入学初日に紫色の女菌遮断マスク着けているヤツは確実に「キモいオタク」にカテゴライズするけどな。
しかし、気が弱い僕は、ここでも自己主張出来ず黙るしかない。
僕の返事が気に入らなかったのか、鼻の穴を広げて、フン、と大きく息を吐き出した真代君は不機嫌そのものだった。
長い脚を組み、今度こそ本当にインテリヤクザの顔をしてげっ歯類の女生徒と真正面から対峙している真代君。
議論モードに入った真代君に勝てる人はこの学年には居ないだろう。中学時代から、真代君に勝てた人を見たことがない。
げっ歯類の女生徒は、眉を顰め居心地悪そうな顔をしている。周りも視線こそ合わせてこないけど聞き耳を立てているのは分かる位には静まっている。
「えーまじキモい、オタクに絡まれたー。やばー。登校初日悪目立ちしちゃったどうしよう。あーもー今日最悪だー、だから元男子校とかやだったんだよねー。」
真代君の発言に、げっ歯類の女生徒はビクッと身体を揺らし、目を揺るがせ露骨に反応した。
「はっ。図星か、女。」
「ち、ちが…」
「違うのか?」
「……。」
「女は嘘を吐き通せ無いと思っている場合に、2度同じ事を聞かれると、焦ってる時は特に否定を続けることが出来なくなる。2度目に聞かれてる時には諦めてるか、開き直ってる場合が殆どだ。貴様の様にな。」
女生徒は悔しそうに唇を噛み締めている。
…僕には2人のやり取りがサスペンスドラマの刑事と犯人の取り調べにしか見えなくなっている。
「女の頭は都合良く出来てるからな。もう、こいつの中では俺達に急に一方的に責められたという事になっているだろう。発言の自由もある中で発言をしない選択肢を選んだのは自分で、かつ、最初に自分から何もしていない僕等へ攻撃的な発言をしたのにも関わらず、だ。女のこの開き直りっぷりにはいつも尊敬するよ」
真代君、割と本気で怒ってたんだな。
でも。
「あの…名前分かんないけど。君、真代君、怒ってるけど気にしなくて良いよ。この人女嫌いを拗らせてるだけだから。僕だったら、初対面で女菌遮断マスク着けてるヤツがいたらキモいオタクだし。ただ、僕はそういうの無いから、キモいオタクのカテゴリには入れないでね?SNSとかでハッシュタグとか付けて発信しないでね?」
女生徒を庇いつつ、誤解を解く僕に真代君は憤慨している。
「真下!君は僕を裏切るのか!!!」
「真代君、よく聞いてた?初対面でって僕は注釈を付けてるよね?僕と君は初対面じゃないから真代君をキモいオタクとは思わないよ。キモいとは思うけど。」
「なんだそうか。それなら良い。…いやしかし…」
「なんだよ、今度は何が気になるんだよ」
もう真代君は気が済んだのか、彼女の事を石ころ以下の存在にしたに違いない。
周りもいつもの空気になった事で静けさは無くなり、ガヤガヤとし始めている。
気にしないで良いよ、とぼそっと伝えると、げっ歯類の女生徒は、ハッと顔を上げたと思ったらブワっと目に涙を浮かべてこちらを見上げる。
「私…平山梓です…。言い過ぎました、ごめんなさい。」
「うん。謝罪は受け入れます。僕は真下悠貴、理系特進は1クラスしかないし…その、よろしくお願いします。」
げっ歯類の女生徒が、思っていたよりも普通の子で安心した。
ふ、と安心して後ろを向くと未だに不機嫌なインテリヤクザがいる。
「そんなに不機嫌を引きずるの珍しいね。」
「…君は腹立たしくないのか。初対面で気持ち悪いと罵られたことに。」
真代君は女嫌いなのに、とことん女々しいと思う。
「え…僕は、僕以上に真代君が怒ってたから、吹っ飛んだ。最初は嫌な子だなって思ったけど…普通だったし」
「…僕は別に自分だけを罵られたなら、僕の中であいつの存在を徹底的に消すだけだ。だけど、今回は君のこともバカにしたから許せなかった。」
「え…。それであんなに突っかかったの?」
結局僕が取り成して終わるという面倒な事態になったんだけど。
「当たり前だ。親友を少しでも馬鹿にされて黙っているなんて僕には出来ない。」
事実、真代君が彼女に突っかかったお陰で僕と彼女の中の蟠りは無くなった。僕がこの先彼女の事を気にしながら生活していくのが目に見えていたんだろうと思う。
「…ありがとう、真代君。」
「友達ならこれくらい当たり前だ」
…僕は真代君のこの不器用な友情にいつも絆されてしまう。
「それにしても何故女が理系にいるんだ。医者なんか目指すな。…女滅びろ女滅びろ…」
「…悪かったな。」
女が医者を目指して何が悪い。
「何だ。何か言ったか?」
「いいえ、何も?」
彼女達の制服が羨ましくて仕方ない。
くそ、一年待てば女として入学できたなんて…
「女滅びろ女滅びろ女滅びろ…」
あぁ、憂鬱だ。
彼の呪詛にかかって最初に死ぬのは、絶対僕だ。