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母は身体の弱い人だったが、豊かな感性の持ち主で、梓はその性質を母から受け継いでいた。思った事を躊躇いもなく、言葉にする。夢見がちでありながら、現実主義でもある。

母と梓は言葉なくても理解し合える師弟のように、仲が良かった。

俺は傍でみて、随分羨ましがったものだ。


俺は、母が凛一を胸に抱き、傍らに跪く梓を見ながら、ルネサンスの聖母子像を思い浮かべた。完璧な三角形の図がそこにはあった。

平和と家族愛…それは紛れもなく正しい秩序となる。

俺はそれを眺めてはこの上もなく、満ち足りた気持ちになった。


女同士というものはああいう風に分かち合えるのか。じゃあ、俺と父親はどうだ?

…なにもない。憎みあうものも無ければ、なにひとつ分かち合えるものもない。

父親とはこういう縁であると諦め、せめてもうひとりの同性である凛一には、相当の信頼を分かち合おう。

俺は強く願った。


俺は両親への想いと梓との関係、そして凛一に対する愛情の質が全く違っていることを、凛一の誕生で知った。

多分それは兄弟という縁でむすばれた感情であろうと信じていた。

だがそれも凛一が成長していくにつれ、少しずつ変わっていることに気づき始めていた。


きっかけは母の死だった。


母の存在は偉大だったといえよう。

それからの俺のマトモとは言えない感情を、母は少なくとも俺自身に判らせぬように鍵を掛けていたのだから。

母は知っていた。少なくとも俺が凛一に対してどんな想いで見つめているのかを。

その上で言うのだ。

「母さまはもうすぐ居なくなってしまうけれど、慧一は悲しまずにいてね。そして、凛一を守ってちょうだい。あの子を光に導くのはあなたにしか出来ないから」

その意味をすぐには理解できなかった。

母は俺に何を見たのだろう。俺には暗い闇しか見えていないというのに…

俺にこの無垢な弟を押し付けて…どうしろと言うんだ。


「片方の魂が居なくなってしまったわ。もう母さま以上に同じ色合いの魂には出会えないわね」

棺に眠る母を見つめ、梓が泣きじゃくる。

5才になったばかりの凛一は泣くでもなく、ただ黙って俺の喪服の裾を握り締めたまま身体ごと凭れかかる。

母が気に入っていた艶のある長い黒髪の所為で、凛一は喪服を着た日本人形のようだ。

「凛、お母さまとお別れするといいよ。ほら、抱っこしてあげるから」

「…お母さまは…こんな狭いベッドで眠っているの?」

「凛…お母さまは眠り姫になっちゃたのよ。もう千年しないと目覚めないわよ」梓が泣き笑いながら言う。

「じゃあ、僕の方が早く死んじゃうね。キスで起こせないよ」

俺も梓も驚いた。「死」の概念は理解できていても目の前の母の姿にそれを当てはめられないのか…それともそれもわかって言っているんだろうか…

すぐに後者だと悟った。

「お母さまは天国で僕を見守ってくれるのでしょ?じゃあ、今までと同じじゃない。寂しくないよ、僕。慧も梓もいるからね」

俺と梓は顔を見合わせた。

屈託のない笑みで笑う凛一に何の罪があろうか。

回りの者は、その意味もわからないままに、あどけない凛一を哀れんで泣いていた。


母が亡くなってから、傍目には何も変わらないと思っていたが、今まで病気知らずの凛一は体調を壊すことが多くなった。

熱を出したり、食事を取らなくなったりするので、病院に連れて行くが、医師は精神的なものだろうとしか判断しなかった。

父と俺たちは、昼間は家政婦さんとふたりでいる凛一に幼稚園に行くように勧めたが、凛一本人がそれを嫌がった。

「僕、おうちで慧と梓を待ってるから、早く帰ってきてね」と、泣きそうな顔で言われたら、俺も梓も無理強いは出来なかった。

学校から帰ると、凛一は広い庭でひとりブランコに乗ったり、砂場で遊んではいたが、その姿は寂しげで、帰宅した俺の姿を見ると、走り寄って抱きついてくる。そのくせ「寂しかった?」と、言うとかぶりを振るのだ。

素直じゃない様もいじらしく、抱きついた凛一の黒髪を撫でてやっていると、「源氏の君が紫の姫君を愛でられた心地がわかるんじゃない?慧一には」と、横で梓が素っ気無く言う。


或る夜、凛一の隣で添い寝をしていると、急に凛一が起きて、「怖い」と泣く。

怖い夢でも見たのかと問うと、「ちがう、あそこに怖いのがいるの」と、部屋の隅を指差す。

暗闇に目を凝らして見るが、何も見えない。

「何もいないよ、凛」

「ううん、いるの。僕を連れて行くってゆうの」と、しくしくと泣く。

俺は思った。

ああ、アレだ。シューベルトの魔王じゃないか。

「大丈夫だよ、凛、俺がいるだろ?」

「だって…怖いもん」

身体毎すべてを預けて俺にしがみつく凛一の身体は震えていた。

あの親父はどうやって最愛の吾が子を喪った?

…間違ってはいけない。

あの親父のように何も気づかないバカに成り下がる気はない。

魔王だろうと、死神だろうと渡さない。

これは俺のものだ。誰にも指一本触れさせるものかっ。

俺は凛一の指差す一点を見つめ、全身全霊を向け言い放った。

「去れっ!」と。


俺の声に、身の内で脅えていた凛一の体が一瞬だけわなないた。

凛一がゆっくりと顔を上げ、そこを見る。

「どう?まだ見える?」

「…ううん、もう、いないみたい」凛一はほっとした顔をして俺を見つめた。

「慧はすごいね」

心服した面持ちで俺に笑いかける凛一をこれ以上愛おしいと思ったことはない。

俺は勝ったと思った。

凛一を襲う悪夢にも、凛一自身にも…

俺は凛一を支配できる。王にさえなれると思った。


しかし、その企みは凛一の次の言葉にあっさり覆される。

「慧は僕の騎士ナイトだね」

「…そう、なの?」

「そうなの」

呆れるほど簡単に王から臣下へと急降下だ。思わず苦笑いに口が歪んだ。

「じゃあ、梓は?女王様かな?」

「梓は乳母役だよ、僕のお世話係だもん」

「それじゃあ、凛は王様か王子様なのかい?」

「ううん、僕はね、お城なの。みんなを守ってあげて、お家に入れてあげて、それで攻めてきてもてっぺきの壁で、みんなを守るの。すごくがんじょうできれいなお城なんだ。すごく高くてね〜てっぺんからは世界中がみわたせるんだよ」

「…それ、梓から教えてもらったの?」

「ううん、自分で考えたの。大きくなったら今度は僕がこわいのから慧を守ってあげるからね」

「うん…そうだね、凛はお城だから…俺を…救ってくれるね」

その晩、俺は小さな凛一をしっかりと抱きしめたまま一寸も離さなかった。


俺は時折凛一の背中に虹色のツバサを見る。

六枚の玉虫色に輝く羽は、光に溶けるようだ。

そして影に入る瞬間、発光するように輝きを増す。

「慧っ!」

喜色満面に湛えた凛一が、俺の名を呼びながら、胸に飛び込んでくる。

俺はその虹色のツバサが眩しくて目を閉じる。

身体に受けた凛一の重みを感じ、ゆっくりと目を開けると、そのツバサは夢幻のように消え去るのだ。



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