その76
(その76)
――シリィ
自分を呼ぶ声に振り返る。
――娘にも愛されていたいと私は願っている
「どうした?シリィ?」
自分を呼ぶ若者の眼差しが額に垂れる黒髪の中から覗いている。
若い眼差しは自分を見つめている。しかし彼の眼底からその声は聞こえない。
いや彼は勿論自分を呼び見つめているが、自分呼んだあの声は、遠い記憶を見続けている誰かの眼底から聞こえてきたようだった。
「どうした?」
側に駆け寄る若者に首を振る。
「…ううん、何でもないのミライ」
心配そうに見つめる若者の眼差しを自分の眼差しで返す。
自分の眼底に彼が映る。
その時、強い風が吹いた。フードが外れ、彼女の栗色の髪が風に流れる。
岩肌を滑るように噴き上げる様に昇ってゆく風。
――そう、自分達は今鷲の嘴に側にいるのだ。
シリィは一瞬自分の居場所すらさらっていった声から覚める様に、流されていった自分の髪を手で引き寄せ、現実へと戻ると岩道へ足を踏み出した。
祖父がこの先に居るのだ。
(早く行かなくては)
気持ちを込めた一歩を踏み出そうとした時、自分の肩に触れる温もりを感じた。
見れば肩に触れる手が腕を流れてゆき、掌に触れると、自分の細い掌を強く握った。
彼女は顔を上げる。そこには自分を優しく見つめる若者の眼差しが見える。
「…ミライ」
シリィが呟くように言う。
若者は小さく頷く。
「僕が先を歩くよ。さぁ、しっかり僕の手を握って」
その言葉に自分の体内で熱が上がる。この熱がここまで来た疲労を奪うものであることを若者は知っていたのだろうか。
「さぁ…」
若者は手を握りしめ岩肌の道を歩き出す。シリィもその手を強く握りしめ、歩み出す。
――いつまでもこのような時間が過ぎてくれればいいのに
シリィは自分の手に伝わる温もりを今感じている。そこに自分の永遠を探している。
風が吹く。
鷲の嘴へ向かって。
シリィは思った。
――女とは常にどのような場所に居ようともちっぽけでもいい、自分に向けられる愛を探そうと懸命な生き物なのかもしれない。これか先にどんな危険が待ち受けようとも。そこに死地が待っていようとも。
シリィは顔を上げた。
――もう、鷲の嘴は目前に迫っている。
この温もりを手放したくない。
そう思った時、空を横切る翼が見えた。