その71
(その71)
翼竜が翼を下ろして首を垂れると影が森の孤影に交じりやがて音も無く軽々と台地に降り立った。影は後ろを振り返る。振り返る先に映る別の影が見える。
影は一つだけではなかった。
それはもう一つ。
先程の影と違ってそれはどこか重く、ずしりとした何かを響かせれるような音で降り立った。
若者はマントの上に帽子の鷹の羽を飾り、鍔広の黒い帽子を被っている。その帽子の下から見える相貌は森に降り注ぐ陽光に照らし出されるとより一層、その白さを露にする。
しかしもう一つの影は年老いているとはいえ、それは荘厳さに溢れ、また眼光の奥には森の光さえも届かぬような深い湖の底に沈殿している澱みない純粋な真に溢れている。貴人と言えた。
その眼差しが若者を捉える。若者は唯沈黙している。まるで答え無き問いかけを前にした沈黙を纏った哲学者のように、ただ、沈黙している。
それを見て老貴人が口元に微笑を浮かべると、首から下げた笛を手に取った。若者はその笛を見ている。
――いや、その翼竜笛をどうするつもりか?
老貴人は若者の答え無き問いかけを受けて、愉しんでいるのか、さも愉快だと言わんばかりに器用に指を動かし、笛を二つに裂いた。いや、裂いたのではないかもしれない。それは片方が削られて、互いに被さる様になっているようだった。その片方、そちらに細く鋭利な針が見える。つまりこの笛は蓋を取るように中から鋭利な針が出る様に仕掛け作りになっているのだった。それを老貴人が目を細めて見つめる。それから翼竜の首を優しく撫でる。
若者は針を見て、小さく唇を動かした。それはこう告げる。
「…眠針」
若者は目を細めた。彼の眼差しはその道具の意味を確かに理解している。そしてこれから何が行われるのかも。
老貴人は撫でていた手を離すと翼竜の長く地面に垂れた首に突き刺した。翼竜は一瞬大きく眼を開いたが、しかし直ぐに瞼を閉じた。それから翼を閉じながら大きな巨躯を静かに横たえると、その場の大きな蔭になった。
その巨影に森の陽が落ちる。静かな森奥で行われた秘密の儀式に見えたそれらが何を意味すると言うのか。若者は口を動かした。その意味を知っていると言わんばかりに。
「父上は生きて戻る気が無いという事ですか」
老貴人が思わず鼻を鳴らす。
「ベルドル、翼竜駆戦士が自らの騎竜をこのようにして眠針で眠らせる、その意味を知らぬ訳ではあるまい?」
ベルドルと呼ばれた若者に声が響く。
無論、知らぬはずがない。自らもそうであるのだから。
翼竜駆戦士が自らの騎竜をこのようにして眠針で眠らせる。それはもし自らが戦死した場合、翼竜笛の無い翼竜が暴れ出さない為た。冬眠効果のある眠針で眠らせ仮死状態にする。
翼竜はひとりの翼竜駆戦士がもつ翼竜笛でしか制御できない。もしその翼竜駆戦士が死亡でもすれば、唯の翼竜に戻り、世界にとって危険な存在…つまり猛獣が現れることになる。その暴力は泥深い湿地に潜む双頭竜にも匹敵する。眠りから目覚めた主亡き翼竜は冬眠後の獣の様に空腹で飢えた猛獣となるだろう。
――つまり眠針を使うという事は、自らが進むべきその先に『死』が待ち構えているという事なのだ。
老人は針を笛に仕舞うと暫くその翼竜笛を見つめていたが、しかし思いを拭き切るようにそれを若者に向かって投げた。音も無く翼竜笛を掌に収めた若者が問いかける。
「…これを私に預かれと?」
老人は頷いて眠れる竜の首を撫でながら言った。
「こいつはお前の乗る翼竜の父だ。幼き頃お前もこいつに騎乗して空を飛んだ。満更、制御の仕方を知らぬ訳はあるまい」
それから装具の足を曳いて、若者の側まで歩いてくる。腰に掛けられたレイピアの鞘が揺れて森の陽に煌めくのが若者には見えた。だがその歩みは途中で止まる。止まると僅かに老貴人は空を見た。
その先に浮かぶ何かを探る様な懐かしい眼差しになって。
「…まぁ、母竜は…すでにこの世にない。それは昨晩私が話した通りだ…」
若者の帽子の羽が僅かに揺れる。自然と若者の手が腰の長剣の束に触れた。
――私はしてはならないことを舌のかもしれない。
(父に対しても…)
――いや…
若者の迷いの向こうに浮かぶ二人の面影が見えた時、若者は自然と剣を鞘から抜いた。
(やはり悲劇は大きくしてはならない。それが運命であろうとも…全ては私の手の内で終らせねば…)
若者の弧を描く長剣が森に降り注ぐ陽光に煌めいた。それは確かな殺意に溢れている。しかし、それは寂しく悲しみに溢れ、虚しさを切っ先に留めて。
(そうでなければ私はシリィ…、いやミライ殿にどのような顔を向けられようか…)
若者の細く長い睫毛に風が吹いた。
「息子よ…」
老貴人が長剣の弧に伝うように言葉を告げる。
「お前がそのようなことをせずとも、私が竜戦士へ変身をすれば、この体内にある二つの心臓でそれ程この老体が持つこともないことも分からぬ訳でもないであろう…」
だが若者の長剣の切っ先は老貴人の言葉が終わるのを待つことなく、真横に薙ぎ払われた。
弧を描く長剣の煌めき。
だが長剣は影を切り損ね、唯真横に伸びている。若者の瞼は半ば閉じられ、今は耳がこの森の全ての音を探している。
血を這う虫の足音も花を飛ぶ蝶の羽も、全て今や若者の支配下にあった。しかし支配下にあって、自分が一番知りたい音が…
――無い…
そう直感が感じた時、頭上から雷鳴の響きが神経を襲う。ただそれを感じた瞬間、戦士の直感が空中へと身体ごと回転させた。
片手を地面につき、マントの裾がはためく。数刻迄自分が居た場所にレイピアを片手に地面に突き、険しい表情で自分を見つめる戦士を見た。
勿論、その戦士は父だった。瞬時に空へと舞い上がったのか、それをいかようにして成したかは分からぬが、後は空から獲物を狙う猛禽類のごとに空を裂く雷鳴の様に、レイピアを敵に突き刺さした。
――敵に
敵とは私だったか。
若者は次の行動に移るべく四肢に力を籠めた。
その瞬間、父が言った。
「…待て、息子よ」