その68
(その68)
「それじゃ行くよ」
若者の声に目を細めて老人が応える。
二人の側を荷馬車が動き出している。その列の先にひと際空へと伸びたアイマール王国旗が風に揺れて靡いている。
「良い旅になると言いな。一生涯に一度の旅だ」
若者は白い歯を出して笑う。笑うと帽子を目深く被る。老人にはそれが若者の別れの合図だと分かった。
暫しの別れだ。涙は見せない。そんな若者の純粋な気丈さが帽子の鍔下で見えるかもしれない。
自分はするべきことがある。
老人は口を真横に強く引く。
――俺は撃鉄を引く。あいつとの決着の為に。
もし…、
もしも万一、奴がこの若者等の旅を邪魔するようであれば、俺はそんなことを絶対にさせない。
若者は羽織ったマントを翻すと足早に荷駄隊に加わった。それを見届けると老人は背を向ける。それから歩き出す。歩き出す背に若者の視線を受けながら、老人は歩き出す。目的地は見上げる先に見えるルーン峡谷の突先にある場所。
――鷲の嘴
老人が歩み出す背に荷物が揺れる。猛威銃身が背にのしかかる。それは重さではないのかもしれない、長き人生を生きた老人としてのけじめなのかもしれない。
人とそれをもしかした運命ともいうのかもしれない。それこそ未来へ生きる若者たちへの責務であろう。
老人はそれを噛みしめる様に進む。しかし、その心は晴れ晴れとしている。まるで青年の頃に描いた青雲の志の様に。
岩伝いに手を突きながら老人が荷を背負いながら歩いてゆく。遠くに見えていた『鷲の嘴』を既に視界の中ではっきりとした形を捉えている。捉えているのは姿形だけではなかった。それは既にそこから過ぎ去った時という風に運ばれて消えていた想い…。
(久方ぶりだな…)
老人はやや背を伸ばして鷲の嘴を仰ぎ見る。
そこに去来する思いは若く血が滾るような切なさに交じりながら感傷という古傷をなぞる。
(あれからもう多くの時が流れた、それは儂にも、そして奴にも…)
老人が足を踏み出す。もうすぐすれば『霧風の道』だ。青色海洋石の眠る小さな坑道でもある。
――ロー、
高地を吹く風が水分を含むと雨にならず霧が生まれる。それがそこから噴き出す様に現れる。その湿りと風が青色海洋石を生むのだ。
友人の古く懐かし言葉が耳奥に響く。古い友人がそう呼んでいた。友人はトネリ。先ごろその友人もこの世を去った。
岩肌に触れる手の力が抜ける。
――トネリ、いずれ儂も行くさ。待っていてくれ。
その時、その岩肌を縫うように風が聞こえた。いや風だけではない。風の中に声が聞こえ、瞬時に輝くような明かりが微かに見えた気がした。
ローは武人としての感覚で身構えると、それから静かに裂け道へ身体を向けた。それから静かに息を整え、意識を集中する。意識は裂け道へ向かい、何かを探る。
だが先程感じた声も明かりも消え、何も聞こえなかった。
――岩鹿か。
この辺りは森を超えて移動する岩鹿の群れが居る。その獣声がきこえたのか?
しかしそれならあの明かりは一体?
ローはゆっくりと背から銃を下ろした。それは大きなものではない。しかしそれを手元に引いて、弾き金を引いた。そしてそれからゆっくり装具の足を強く踏みながら、やがて裂け道に前に立った。そして暗闇に向かって声を放った。
「誰か、そこにいるのか?」