その63
(その63)
眼が二つある。
その眼が朝の陽を見つめれば、未だ光届かぬ夜を見つめるものもあるだろう。
ベルドルは静寂響く夜の静かな館の庭先に降りた。腰に吊り下げた長剣の鞘が揺れ、輝く月明かりの下で、手綱に引かれた二頭の巨大な翼が輝く。
――翼竜
その姿は竜に似ているが、二足で立つ。竜は四足を持つ、いや正確には手と足がある。もし竜に対する正確な知識が無ければ、この翼竜を竜と間違えるだろう。
ベルドルは翼竜笛を口に咥え、小さく音を鳴らす。その音は人には何の変化もない音として響かない。しかしながら、翼竜の鼓膜奥には不思議な音色として翼竜笛は響く。勿論、竜王国の護衛兵の内から特に訓練をした翼竜駆戦士しかその翼竜笛の音の工夫はできない。
翼竜は眠る様に長い首を垂れると、その場に静かに蹲った。ベルドルはその様子を見て、笛の音色を低くする。それで長い翼を折れるようにすると巨大な翼はやがて小さくなり、夜の中に潜む彫像になった。
「戻ったか」
その声にベルドルは振り返った。
月明かりに照らし出された顔が自分を見ている。左足に装具をつけたその人物は、一歩僅かに踏み出すと月を見上げた。見上げる月の輪郭は朧気ながらも、しかし輝いていた。
「長い時間がかかったな。放っておいた二頭の翼竜も連れて戻って来たか」
月の明かりに照らし出されたベルドルンは老貴人として相応しい気品を放ちながら月を見上げている。
「ロー殿には全てこちらの浅はかな知恵は見通されているようで」
「浅はかな知恵か?」
息子の言葉にベルドルンは笑った。
「で、あろうな…、我らが弄した策など、竜と翼竜の区別がつかぬ人間にしか功を奏さぬ。だが十分、彼の国の兵士共の目を南に向けることができたであろう」
老貴人は満足げに頷く。
「それほどまでに…ロー殿との戦いを誰にも邪魔されたくないのですか?」
息子の問いに、老貴人は口元を緩める。
「それは互いにそうであろう。しかしながら…唯二人だけというのもつまらぬ。幾人かの観客がおらねば、この決闘のやりがいも価値もあるまい。だから彼の国の荷駄隊がシルファへ向かう時を選んだのだ」
「母上が本当にこれを望んでおられるとお思いですか?」
ベルドルンが息子の批難に目を細める。しかしそれを窘めようとする様子は無かった。むしろどこか満足げに息子を見た。
「全てを聞いたのであろうな。我らの因縁も、そして…妹の事も…」
ベルドルは何も言わず、その場に佇んでいる。その佇まいの内に潜む静けさこそが父に対する答えだった。
二人の頭上に輝く月がより輝きを見せた。それは対峙する互いに相貌を映し出す。
「よもや…、この決闘を止めようと思ってはいないだろうな」
父の言葉にベルドルは僅かに肩を揺らした。
揺らしながら、手が僅かに動いた。
「もし…、そう思っていると言ったら?」
その言葉が終わるや否や、ベルドルは素早い動きで腰から長剣を抜いた。
それは音も無く降り注ぐ月明かりの中を滑る。
彼の長剣は弧を描いて、
――父を切った
いや、
切ったのは、瞬時までそこにいた月明かりの下で揺らめく影だった。
長剣の輝く切っ先は月明かりに輝き、残された影だけを切り裂いたのだった。
「切るつもりがない意志の剣の動きなぞ、躱すのにどれほどの苦労が居るか」
ベルドルの背後で声がした。
ベルドルはその声に応じるように身体を起こすと長剣を鞘に静かに仕舞った。
「私は父を切るという痴れ者ではございませんから…」
そう言い残すとベルドルは去ろうとした。
「それで、ローは何と」
背を向けたままベルドルは言った。
「峡谷を見渡す岩場『鷲の嘴』で待つと」
「『鷲の嘴』か…」
老貴人がそれを聞くと弾けるように笑った。
「成程、互いにリーズの残したあれと共同して戦ったあの場所で待つというか。ローも中々の演者よ。あそこは最も我らの決闘の場としては相応しい所だ」
ベルドルが振り返った。
「相応しい…?」
息子の指すような視線を父の眼差しが受ける。
「そうとも。そこで我らは共同してあいつと戦ったのだからな。それも明日と同じシルファへ向かう荷駄が旅立った夏至の日だったのだ」
「あいつ?」
息子の言葉に父は何も言わず、視線を僅かに外した。外した視線の先に彫像のように首を垂れた翼竜がみえた。
ベルドルの気持ちがざわつく。
(…翼竜?)
父は息子の視線が自分と同じものを見たのを確認すると静かに歩き出した。それから息子とすれ違うように追い抜いていくと間際に小さく言った。
「明日は私の人生において最も楽しい日になるだろう」