その60
(その60)
朝が来た。
窓から差し込む朝陽にいつもと違う何かを感じた。それは昨日までの自分と今目覚めた自分が違うと言うことなのかもしれない。
ミライは身体を起こすと立てかけた木杖を手に取り、扉を開けて外に出た。
見える風景は何も変わっていない、しかし自分の中では身体に受ける風がどうも違う。
ミライは木杖を突きながら、庭先へと出る。風が自分を追うように吹く。
昨晩の訪問者は、自分達への未来への使者と言えた。隠されていた過去を明るみにさせ、それが未来へと続いているのだと、それを伝えるための使者に違いなかった。
――それを知り得て、何をすべきか
「これからを生きる若者達に我らの生きた歴史を…そして未来に対してどのように生きるべきか問いかけるのだ」
昨晩のローの言葉が心の中に響く。
ミライは木杖を手にしたまま、そっと手を左目に当てた。
触れる指先に情熱が灯る。この情熱は誰のものか?
――ミライ、
お前は目がない。
それを悲嘆などしてはならぬ。
私が、お前に誰にもない力を与える。
具師とは、何者であろうな。
我らは身体の不具を補うだけではない、装具を持って、その人の可能性を広げる為にあるのだ。
そう、
その人自身の未来を切り開かせるためにな。
触れた瞼をなぞりながら、ミライは聞こえる声の主に問いかけた。
(…未来を切り開かせるために、僕のこの目はある…)
背後で音がした。ミライが振り返ると、シリィがこちらへ向かって歩いてくる。ミライは手を瞼から離して、近寄るシリィを穏やかな表情で待つ。
その表情に戸惑いを表しながらも、やや不安げな顔をしてシリィがミライの側に立つ。立つとミライが見つめていた庭先から見える風景へと目を送る。
何も変わらない情景の中に二人は居る。
何か変わったことはあるかい、と問われたらなんと答えればいいだろう、その答えを探そうとする時間だけが過ぎた。二人にはその答えは痛いほど良く分かった。
風に揺れるシリィの栗色の髪先にミライは問いかけてみようと思った。それはこれからの自分達の未来への問いかけかもしれない。
「シリィ…」
答えることなく彼女が振り返る。
「この先の世界を見たいと思うかい…君の母さんの様に」
流れる髪先に指先を絡めるシリィの肩に、ミライはそっと手を置いた。しかし、言葉無く首を横に振った。
「分からない…、私にはこの先の世界なんて…私には守るべき祖父が居るのだから、それに…」
「それに…?」
ミライの言葉がシリィの伏せた瞼の先を追う。髪先を絡めた指がそっとミライの手に触れた。
「…ミライが戻る場所が無くては駄目だと思うの…ここはミライ…あなたが苦難の旅から帰る場所…それとも駄目…?」
最後は少しだけ甘く拗ねたような、でもそれは赤子をあやすような母親の慈愛に満ちた響きでミライの心に絡みついた。
(僕の帰る場所…)
その言葉に夜、仕事に出て行く祖父の姿が浮かんだ。
――夜、ふと出ていく。それがいい。
いつもでも陽の光の下で輝く愛する人達の私を送り出す美しい眼差しに耐えられないのだよ。
ミライ、私は照れ屋なのだ。
もしその眼差しを見ていたら私はいつまでも旅立てないだろう。
だから、夜、ふと出ていく。それがいいのだ。
もう一度言う。
ミライ、私は照れ屋なのだ。
だが・・、ミライ、お前は私とは違う。
だから、お前はお前らしい旅立ち方をすればいいのだ。
そう、お前の愛する人と別れ方をいつか私の眼に見せてほしい。
この祖父が生きている間にな。
(帰る場所があるからこそ、安心して旅に出れるのではないか…その場所は自分にとって…、それは…)
ミライは肩に置いた手を強く引き寄せた。それから言葉無く抱きしめる。二人の情熱が対峙する鼓動となって響き合う。それを誰にも漏らさないように一層互いの身体を引き寄せ合う。
「シリィ…」
彼女は何も言わない。寄せた頬だけで男の言葉を探るとしている。
「…そうだとも、ここは僕が帰る場所。いや、君こそが僕が帰る場所だ」
寄せた頬が揺れる。
――いつか…互いに分かったものを…一つにする時が来る…
小さな響きが抱き寄せた頬から洩れた。
ミライは顔を僅かに上げて、広がる山野を見た。
その言葉に深く感じ得るものがあった。
(そうか…、そうかもしれない…)
見渡す野に陽が差し込んでいる。遠くの山には雲一つない。
朝が来たのだ。新しい未来へ続こうとする。
野に種を撒き、山羊の乳を搾り、薪を切り、晩鐘が響けば祈りをささげる。そんな一日が始まるのだ。
しかし、そう思うミライの視線の先に森の小道を歩いてくる人の姿が見えた。それはやがて段々と大きくなってきて庭に通じる小道を上がってくる。その姿をシリィにも確認させるように僅かに身体をずらす。
シリィの栗色の髪が風に流れる。その流れゆく先に、その人は立ち止まって笑った。
「よう、ミライ。朝から中々お熱いお二人だな」
かけられた言葉に二人が驚く。
「ロビー…」
見れば靴を履き、藍色に染めたズボンを履いている。それだけでなく白い上着を着て肩から茶色のマントを羽織い、頭には帽子を被っていた。
いつもの野良着のような様相ではない。一目でどこかの使いに行くかのような姿だった。
「どうしたんだ?その恰好?」
「あっ、これかい?」
ロビーが頭の先からつま先まで目を下げてから言った。
「行くのよ。シルファに」
「シルファに?」
シリィが問いかける。
「そう、シルファにさ。今年の荷駄隊に急遽選ばれてね。急いで、ミレイの叔父に服を借りたって訳さ。どうだい、お二人?俺の姿も中々のもんだろう」
言ってからくるりと回転する。
「ロビー、怪我は…?」
やや驚きながらミライが聞く。
「治っちゃいないが、シルファに行けるとなれば、治ったようなもんさ」
ロビーが思いっきり笑った。笑うと二人に言った。
「それで、ローはどうだい?俺はローを連れてルーン峡谷の砦で荷駄隊と待ち合わせすることになっているんだ。爺さんも、もう準備をしているだろうと思って迎えに来たんだが…」