その55
(その55)
幼子の指が開いては閉じる。
それは自分の中で精一杯今の生を掴もうとしているのかもしれない。幼子の眼差しは時折、大きく開いては辺りを見回し、何かを見つけるとそれに微笑する。
微笑すると頬に届かんばかりに指を伸ばして、また大きく開いては閉じてを繰り返す。
ローはその様子を見ては頭を掻いたりしたが、その内面には誰にも明かせぬ残酷な言葉を抑え込んでいた。
――竜人族の言葉で枯れぬ花
――それは呪詛
(呪詛…)
暖炉の炎が揺らぎ、頬に深い濃い影が落ちる。
僅かに視線を上げる。その視線の先の幼子をあやす母親、いや自分にとっては娘だ。ふとその幼子を見つめる娘の表情に何かが被る。
それは自分も良く見知った人。
(リゼィ…)
ローは思わず言葉になりそうなのを抑えた。しかし、亡くなった妻の表情は娘に重なり、幼子を慈しんでいる。
山岳の厳しい土地で育ったローにとって、彼女との出会いは厳しい冬を抜けた後に訪れる春のようだった。色の無き灰色の世界に突如として彼女は目の前に現れ、自分にこの世界に色彩があることを教えてくれたのだ。
それが恋だと知ったときには、既に二人は十分な程、恋の果実を食しすぎていた。二人の時は熟れ落ち、既に互いの交わりの時が来ていた。
いくつもの太陽と月夜を二人は泳いだだろう。厳しい山岳の生活の中でのつつましい幸福の時と言う小さな水面の上を。
だがその二人の時は妻の「怪死」と共に終わりを突然告げた。
そのことはそれから年月が過ぎた今、友人の訪問によって自分の分かるところになった。
それは『忌み児』とはいえ、自分が竜人族であること。
視線が自然と厳しくなった。見上げる視線の先に娘がいる。
娘の差し出した指に小さき命の指が絡まる。そこには運命に縛られぬ親子がいる、ローはそう思いくなった。
しかし、疑念が蟠る。
それは呪詛。
――子を成した後の百夜、自らの源に還るべき定めの呪詛、始まりの水となって死ぬという呪詛。
ローは唾を飲みこむと、やや掠れた声で言った。
「リーズ…」
娘が顔を上げる。
「俺はお前が決めたことについては何も言わぬ。それがあの竜人族の若者だったしても…だ。」
リーズの指先が赤子の頬から離れて、太腿を抱く。
「そうね…、でもごめんなさいは言わせて父さん。勝手に決めてしまい…またこうして子を二人も授かったことにも…」
「二人…」
うん、とリーズが頷く。
「上は男の子。この子は下の子ね…」
ローは僅かに顔が熱くなるのを感じた。
(おかしい…、子がふたり…だと?この子にはリゼィのような『呪詛』は効かぬのか…)
ローは厳しい表情で娘を見る。父親の視線に驚きながらも娘が微笑する。
「何よ、父さん。驚き?私が二人の子がいると言うことが?」
ローは唾を飲みこんだ。
(…、どういうことだ。となれば…この子は『呪詛』にかからないということか…、それはこの子の中に交じる僅かな竜人族の血がそうさせるのだろうか…)
ローは立ち上がると二人の側に歩いて、腰を屈める。娘の腕の中で小さな息を立てる赤子。
「この子は名をシリィというのか?」
「そう。ここから遥か南に向かうとそこに小さな湖に浮かぶ国があるのよ」
「湖に浮かぶ国だと…?その国の名は?」
リーズは首を振る。
「父さん、ごめんね。それは言えない。だってその国の名が知れればシルファの侵略を受けたりするかもしれないから。でもね、その国にも文字と言葉があるのよ」
ローは黙って娘の言葉を聞いている。
「その国の言葉に『風』という言葉があってね。その言葉が『風』…」
「…『風』…」
ローが呟く。呟いて娘を見た。
「いい響きの言葉だ。風か、いいな。風は誰かに向かって吹き、何者を吹き飛ばしてくれる。災いも不幸も、いや運命の輪さえも…」
そこで娘が大きく笑う。
「父さん、いやね。何か深刻で。そう、風なら何でも服飛ばしてくれそう。幸せすらね」
それを聞いて目を大きくするとローは豪快に笑った。
「こいつはいけねぇ。この子の幸せまで吹き飛ばしてしまったら堪らん!」
言って赤子の頬に指を触れさせる。赤子はそれを目で追いかけてローに微笑する。
「…それで、リーズ聞くが…」
「何?」
「この子を産んで今幾日だ?」
「そうね…、もうすぐ百日かな。そう今日で九十と九日」
ローは黙ったまま何も言わない。
「それが何か?」
僅かの間を置いて「いや」と言った。
「何でもないさ。唯、どれくらいだろうかと思ってな」
そう言った時、突然赤子が泣き出した。堰を切ったような鳴き声にローが慌てて、思わずあとずさる。
リーズが泣き出した我が子を抱いて揺れ動かすとやがて抱きかかえた片方の腕を離すと首元から何かを取り出した。
それは短く小さな細い物だった。
それを見つめているローに向かってリーズが言う。
「父さん、これは野生の翼竜を飼いならす時に吹く笛『翼竜笛』、この子のお気に入りなのよ」
そう言うとその笛を赤子の前に出した。すると赤子は泣くのを止めて、その笛を手に取る。手に取ると途端に機嫌が良くなり、笑い出した。
「私ね、ここに翼竜に乗ってやって来たのよ。翼竜は目の届かぬところで待機させてる。だっていきなりあんな化け物が現れたら、アイマールの村中が驚くからね」
「翼竜…?」
聞いたことがない言葉だった。
「それは一体何なんだ?」
「まぁ空飛ぶ竜かな。まぁ本物の竜の偽物。竜は四足なんだけど、この翼竜は二本足。腕が無いわけ」
娘が言う異世界の動物に驚きをローは感じないではいられなかった。その様子を見てリーズが微笑する。
「父さん、やはりこの世界は広い。私、あの時、ベルドルンとここを出てよかった。世界は果てしなく広く、世界の隅々に人間はいるの。そう、それはその分だけ悲しみや喜び、文化や愛の形があると知った。いつかその話を父さんに…うん、この子達にも聞かせてあげたい」
笛を玩具のように遊ぶ我が子の頬を撫でる。
「そう…いつか。この子達に伝えたい。それが私の今の定めで運命のように感じるのよ、父さん」
見上げるリーズの眼差しはとても澄んでいる。それを受け止める父は何も言わず、唯黙って娘が願うその時が来ればいいと心の中で思った。