その50
(その50)
――妻は俺の腕の中で溶け、やがて地面に広がる水になって死んだ。
誰がそのような死を迎えることできようか?
ミライは固く閉ざされた老人の唇を見る。そこには吐き出された言葉に対する無言の責任があるのか、固く閉ざされている。
老人がこの場に居るものに伝えたことはそれだけではなかった。
自分の祖父が語ったこと、
それは特に自分にとっては重要な事、
おそらく老人が語るまではこの場に居る誰もが知らぬこと。
――いや、一人いる。
記憶が揺れる。
それは
あの老貴人、
その名は
ベルドルン。
そう、貴殿が何故杖を突かねばならぬ程歩くことに不自由なのか、その隠された真の理由に比べればだな
彼の人はそう自分に言った。
ミライは額まで垂れた黒髪を払うようにそっと指を動かす。その時指が微かに左の瞼に触れた。
――左目
そう、これは自らしか知らぬもの。
――義眼
亡くなった祖父が自分に残してくれた言葉無き遺言ともいう遺物。だが義眼はミライの歩行のバランスを損なわせる。いくら訓練したとはいえ視野の無い世界ではつらい。
だから杖を突く。
その理由を誰も知らぬのだ。
おそらく幼馴染のシリィすら自分の左目が義眼であることなど今まで知らなかっただろう。
それ程この義眼は精緻で人の目と何も変わらず他者から見ればそのように映る。
自分を見つめる視線にミライは気付いた。その視線を見ず、肌で感じる。
その視線は誰であろうか?
シリィ…
視線は自分の肩を撫でる手に変わった。それは温かさを持ち、ミライに何も言わせることがないほどの沈黙を与えた。
――いいじゃない。ミライ
それが何よ
私があなたの眼になる。
これからも
ずっと
背中に触れる手が広がり、やがてミライの頬に触れる。その手にミライは自分の手を合わせる。
何も答えようが無い。
これほど正鵠を得た答えはないのだ。
ミライは言葉無き問いかけに、静かに頷いた。
頷くと僅かに若者を見る。
若者は何も言わず唯静かに老人を見ている。
シリィの手が背から離れて老人の側に戻る時、僅かに視線を動かしてミライを見た。その時、微かに顎を引くのが見えた。
それが何を意味するのか?
自分の隠れた秘密を打ち明けた者に対する優しさか。
それともこれから先を予感させることへの同意か。
答えはまだ分からない。
ミライは顔を上げて老人を見た。固く閉ざされた唇が動こうとしている。
老人の視線が若者へ動く。
「ベルドル殿。ルキフェルの伝説には続きがある。『悲劇』ともいうべき話がな。そう、彼の王妃オーフェリアの最後についてな。それこそが竜と人間の血が交わることで生まれた『悲劇』なのだ」