その33
(その33)
気が付いた時、自分は小川のほとりに居た。
いや正確には横たわっていた。
自分がそこからしたことは簡単だった。
四肢に力を込めた。左太腿に痛みがある。
しかしながら
(身体は動くようだ…)
力が入るのが分かる。それからゆっくりと手を腰に回した。しかしそこには有る筈の短剣と長剣は無かった。
(持ち去られたか…)
それには特に気落ちはしなかった。別段、それならばそれで仕方がないと思った。
僅かに顔を上げとる傷口が見えた。
(おや…)
見れば簡単な止血止めがされている。布が巻かれ、僅かに血が滲み出ているが、きちんとした血止めだった。
これは自分が施したわけではない、とすれば誰かが施したことになる。
若者はそれ以上何も詮索をしなかった。ただそのまま上げた首を戻し、身体を楽にさせた。
誰が治療をしたかを詮索するより、少しでも体力の回復に力を注ぐべきだと直ぐに思った。
これから先、自分の予期せぬ状況が起きるだろう、それに対応し、寸分の余力を持ってでも生きて帰ることを選択すべきである。
若者は瞬時に考えを切り替えると息を静かに整え始めた。
息を整えながら目を閉じた。
耳を澄ます。
近くに聞こえる小川の音。
若者は耳を澄まして小川の音を探る。
(何かが、跳ねた…)
どうやら跳ねた川面の下を泳ぐ小魚がいるようだ。
その小魚の背が動く微量な音が耳に響く。
それだけではない。
聴覚を広げてゆくと、森の中が僅かな風の振動を通じて良く分かる。
朝露に濡れた森の葉の下で動く、小さき生命、それを見つめる小動物の息使い。
(おや…この小さき羽音は…)
羽根を広げた蝶が居るようだ。
(蝶か…)
羽音が聞こえると、蝶がゆっくりと飛び立ちやがて空へと飛んだのが分かった。
その蝶の影を若者の聴覚が追う。
蝶の影を踏む様に音が聞こえた。
だが若者は大きく息を吸うとその影を踏む音は気にすることなく、唯、蝶の羽にだけ自分の思いを寄せた。
足音の君は蝶が運んでくれたのだ。
蝶はやがて静かに川べりに咲く名もなき白い花に静かに止まったようだった。
視覚は閉じたまま、その花を思う。
小さき白い花であればいい。
若者は息を吐きながらある言葉を思い出した。
――オーフェリア・・『枯れぬ花』
「起きているの?」
若者はその声にゆっくりと目を開けた。眩しい陽の光に包まれて蝶が覗き込んでいる。
(いや…、蝶ではないな)
若者は微笑を浮かべた。
女だった。
それも自分が正気を失う寸前に自分を狙ってきた狩人、と言っていいだろうか。
女は若者の膝元に膝まずき傷口の布を無造作にとった。
取ると血に交じる肉の臭いが鼻腔をつく。
女は腰に下げた袋から何か粉を取り出すとそれをむき出しの傷口に塗り込んだ。
粉を含んだ女の指が矢の刺さった肉を裂くように内側から動く。
思わず声が出そうになったが若者は苦悶の表情を浮かべただけで声を出さなかった。その様子を見て女が、感心したように言った。
「へぇ、あんた…中々の我慢強さね。このアイマールの男たちでもこんな深手に化膿止めの為にサイヤの実の粉をこんな風に指を突っ込まれて塗られたら、流石に苦痛の声を出してしまうだろうに」
女は血に染まった指を若者に見せると小さく笑い、立ち上がって血に染まった指を洗う為か、小川に屈みこんだ。
指が川面の中で動き、小魚が驚いて逃げるのが若者に分かる。
「すまない…」
若者が女に言った。
川面の中で指が止るのが分かる。小魚はもういない。ただ川の水の音だけが指先を静かに流れている。
「で…、あんた何者?」
女が若者に声を掛けながら、戻って来て横たわる若者の側に静かに座った。
若者の見つめる視線の先に額で分けられた栗色の髪、陽に焼けた頬に穏やかな微笑が浮かんでいる。
敵意など無い、
それが若者にも分かった。
若者は陽の光の中で女をはっきりみようと目を細めた。
煌めく陽の中で女の端正に伸びた鼻筋の横で二重の瞼が動き、美しい睫毛の先で風が揺れた。
栗色の瞳に憂いが見え、やがてそれが自分を見た。
――この眼差し…
風が吹いた。
女の栗色の髪が陽に輝き、ゆっくりと流れる。まるで潮を流れる風が若者の中で生まれた何かの熱を奪うように。
若者は声が無かった。
「どうしたのさ?」
女の言葉に若者は首を振った。
この瞬間若者は自分が知らないものを初めて体験した。
伝説上の古代竜王ルキフェル、彼は人間の娘に恋をした。
――違ったか?
(私は…もしや…?)
すると突如若者の感ずるような気持ちを破るように自分へ向かって進んで来る獣のような足音が聞こえた。
それに若者が俊敏に反応する。
だが、思った。
――これは…??なんだ?
それは異常な音と言えばそうだった。初めて聞く大地を踏む、互い違いの異質音。それは肉体の揺れる音と、異なる物質の音。
若者は力を入れると顔を上げた。
女も立ち上がる。
それから向かってくる音に言い放つ。
「来たわね」
(何がだ?)
女の言葉の先を若者が追うように見る。
「父さん!!」
その言葉の後に腰まで伸びた茂みから男が出て来た。
若者はその姿を見て、瞬時に思った。
――これは…、狩人ではない
自然と力が籠り、四肢に力を入れた。
その場に現れた者。
それは肩に銃を背負い、下肢の片方が見たこともないもので装具された気骨荒ぶる筋骨隆々の見事な男だった。




