その29
(その29)
「ベルドル殿」
老人は視線を鋭くしながら、しかしどこか感慨深く若者の名を言った。
「貴殿の父の名はベルドルンというのか?」
「はい、いかにもその通りです」
シリィは若者の返事に恐れおののいた。その名は今まさにアイマールの南の砦カリュを襲っている暴れ竜と同じだったからだ。この若者の父の名はその暴れ竜と同じ名なのだ。
「母の名は?」
老人の問いに若者は少し押し黙るとゆっくりと顔を上げた。
「・・・オーフェリアと言います」
「オーフェリアか・・、成程、娘は貴殿ら竜人族の言葉で『枯れぬ花』と言われているのか」
老人の突然の一言にそこに居る皆が一斉に驚いた。
――娘?
――竜人族の言葉?
――『枯れぬ花』?
老人はそうはっきりそう言ったのだ。シリィも若者もあまりの驚きで目を見開き、言葉が無かった。
老人がゆっくりと立ち上がり、歩き出す。その歩みは補装具の床を打つ音を立てながら、やがて壁に掛けられた肖像画の前で静かに止った。
「これは・・」
若者が言葉を呑んだ。
その肖像画を見つめる若者の視線は明らかに強い驚きがあった。だから自分の口から洩れた言葉を止めることができなかった。
「これは館にある母上の肖像と瓜二つ・・」
若者の言葉にシリィも驚く。
驚いて絵に見入る若者から助けを求めるようにミライを見た。
ミライが老人へ歩み寄る。
「ロー。いま、あんたは竜人族と言った・・それは一体どういうことなんだ?」
老人はミライの問いに振り返るとそれには答えず、若者に視線を向けた。
「ベルドル殿、父上へ伝えてくれ」
若者がはっと我に返ると頭を下げた。
「私は明日、シルファへ向かう荷駄の警護に当たる。その折、『鷲の嘴』に赴く。そこはベルドルンと思い出深い戦の地だ、そこで貴公を待つ、と」
老人が息を吐いて言葉を継ぐ。
「それともはや南の砦に二匹の黒い翼竜を放ち、それを暴れ竜だと思い込ませ、王国の軍の目をくらますような小細工等は不要。もう我らに関与しない無用の命を散らす必要などあるまい。十分、貴殿の策は功を奏している。もう我ら二人だけの戦いを邪魔するような兵士などルーン峡谷の砦には誰もいない」
言ってから老人が若者に言う。
「貴公と私とで互いに思う存分、戦おうではないかと伝えてくれ」
若者は「はっ」と小さく声を上げると片膝を上げて立ち上がり老人を見た。
老人を見つめる若者の相貌からはまだ驚きが消えず、薄く閉じられた瞼の下で視線が定まらぬように見える。
それはそこに居る誰もがそうだった。
しかし若者は長剣を手にすると背を翻した。
驚きをそこに残して。
「待て」
老人が若者を止めた。
「私はベルドルンへの返事はした。しかしベルドル殿・・・、貴殿が今宵私に聞きたいことに私はまだ答えておらぬであろう、違うか?」
若者は無言で背を向けている。老人が目を細めながら若者の心の奥を探るように話を続ける。
「父上は・・私への言伝だけを貴殿に言ったとは思えぬ・・。そう、貴殿は父上から聞いている筈だ、我らに横たわる秘密を。違うかな?良いのか、そのことに対して私に何も聞かず、心の内に深く潜ませてこの場を去っても?」
投げられた老人の言葉に若者の背が硬直したように見えた。いや老人の言葉に硬直したのは若者だけではない。その場にいるミライもシリィも同じだった。
いや、シリィは祖父が言った言葉の衝撃からまだ覚めていないように、呆然と佇んでいたが、祖父が今若者へ問いかけた言葉を聞くと硬直した何かにもたれかかるようにゆっくりと崩れ落ちていった。
「シリィ!!」
ミライが崩れ落ちようとする彼女の身体を受け止める。
身体が熱かった。何事か整理のつかぬ世界へ落とされた感情が勢いよく渦を巻いてシリィの身体を包んでいるのだとミライは思った。
「椅子へ」
ミライが促すように椅子へと誘う。シリィはふらつくように椅子に腰かけると、祖父を見た。
老人は微笑しながらシリィの側に歩み寄ると、目元を下げて孫娘の栗色の髪を優しく撫でた。
「シリィよ・・」
老人の指が頬に触れる。
「儂はお前に伝えておらぬ秘密がある」
老人が肖像画を見上げる。
「おじい様・・」
シリィが同じように肖像画を見上げると、その後を追うようにミライが肖像画を見上げた。
シリィに似た眼差しがこの場に居る全員を静かに見つめている。
彼女は何も言わず、唯、そこに存在している。しかし誰よりもここにいる全ての人の運命をその無言の内に知ってるのかもしれない。
老人が湿るような口調で話し出す。
「お前の母親リーズはここにいるベルドル殿の父ベルドルンの妻だった」
シリィの栗色の瞳が見開く。
いや、若者もまた。
「ロー・・それは一体?・・妻だったというのは・・・?」
ミライの問いかける声が震えている。この問いかけは自らの予期せぬ運命を引き寄せる問いではないかと心が震えたのだ。
ミライの問いかけに老人が答える。
「ミライ、一人娘のリーズは死んでこの世にはいない。愛しい娘は我らがなすべき運命の手をすり抜けて、自ら命を絶ったのだ・・」
言ってから老人は孫娘の額に優しく口づけをすると、背を向ける若者に向き直った。
「シリィ・・そして驚いてはならぬ。ここにいる若者ベルドル殿は遥か古代に生きた伝説の古代竜と人間との間に生まれた混血児の竜人族であり・・・」
その言葉に若者が振り返る。
老人を見つめる若者の表情は悲しさが溢れ、眼差しは憂いを含んでいた。
「シリィ・・、お前と血を分けた兄妹。そうベルドル殿はお前の実の兄なのだ」