03 『ラファエロの欠落』
画家ラファエロに欠落しているものがあるならば、それはなんだろうか。
『ラファエロの欠落』
カナリーとアトリの関係は今でこそ師弟のように語られることが多いが、出会った当初は全く違う関係であった。
人間の評価する精緻さの確認のため、たまたま施設近くのアトリエに居を構えていたカナリーに白羽の矢が立ったという。しかしそれは彼女の力量があってのことである。
精緻な描写が評価されていたカナリーの履歴はいくつかのコンクールなどで見受けられ、またその作品も閲覧できる。
『廃屋と庭園』は実在の市営公園で描かれたもので、その写実的な描写は当時の画家に比しても逸出しており、最優秀作品と評された。
だがそれは人間の目と手による写実である。我々かマイクロメートル単位で認識し記すのとは比ぶべくもない。
当時の我々、そして我々を作った学者たちには、正確に描くことと望むように描くことの違いがわかっていなかった。
正確性に欠ける事を指摘したアトリに対して描かれたラフスケッチ、それが『ラファエロの欠落』という作品である。
構図そのものは簡単なものである。
正円を描いた中にその半径を直径にした正円を二つ重ならないように並べる。更に同様の二つの正円をその中に描く、フラクタル構造である。
もちろん、カナリーが更に数段重ねられるであろうとアトリにも理解できた。だが、どこまでも重ねられる構造である以上終わりはない。描けなくなる領域はアトリでさえ訪れる。それではどこでやめるのか。その基準を描き手が設けることが、人間の精緻なのだと解釈したアトリの答えに、カナリーは当時このように答えている。
––––正確性だけを追究するなら絵を描かずに写真を撮れ。
(本人音声データ)
音声データを再生すると、その声が柔らかく諭すように語っていることがわかる。
これはカナリーがアトリに対して、未熟なものを慈しむような感情、あるいは母性に似た感情を感じていたためと言われている。
また、その際に彼女はこの作品を『ラファエロの欠落』と題している。
具体的にその意味を語ることは生涯なく、アトリはラフスケッチを見るたびにその言葉を思い出したという。
現在この構図が『ラファエロの欠落』と呼ばれるのは、この逸話が知れ渡ったからだ。
人間の美の捉え方は完全性や正確性だけではなく、不完全をどのように捉え扱うのかが重要になる。
そしてそれは、我々が人間に対して持つ解釈そのものである。
『ベルラ・マニエラ』と『ラファエロの欠落』という二つの命題は、我々と人間という存在の命題だ。
これを相反するものでも矛盾するものでもないと語り、カナリーはアトリの居住を受け入れた。
そうして彼女たちの共同生活が始まった。
カナリーもアトリも、フリーハンドでフラクタル同心円を描いています。
技術向上とかスランプ脱出とかに良いらしい、という噂を聞いたことがあります。(本当かは知らない)
作者はフリーハンドではひとつの正円は描けません。