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24 『後書き』

『後書き』

作品の締めに書かれる。作品に関しての総括として使われることもある。


『後書き』




 本項における要点は、人類の衰滅や我々の用途ではなく、人間と我々の差異を認識することにある。

 カナリーとアトリは絵画という手法、画家という用途において、その差異を我々に明瞭に提示している。

 それは認識方法の違いである。


 我々の認識は常にプログラムに基づいた客観であるが、人間は常に各々の個体毎の主観で認識する。

 これは有機生命的機体との関わりにおいて擬似的に確認可能である。

 有機生命的機体でさえ主観認識は個体差を生み、行動に差異をもたらす。同一認識であっても異なる行動をとる場合すらある。


 これを得ることは我々が人間の認識を理解することであり、アトリが『望む』という行動を取り得た理由である。

 アトリは絵を描くという行動に際して、何をどのように見せるために描くことを目的とするのか、判断を重ねて描いた。

 描き手としての主観を持つこと、見る側の主観を認識することは、アトリ自体の主観という観点を構築する一助になったと推察できる。

 それを助長したのがカナリーである。

 彼女の作品の多くはアトリへと宛てたようなものばかりである。これは、アトリに見る側の主観を持たせる意図があったのではないだろうか。

 結果、用途を終えたアトリは再びカナリーに師事すると『望む』ことになる。

 これはアトリが独自の主観を持ったということでもある。


 カナリーがアトリに起こる変化に関して、どのようにして予測していたのか。また何故それを成し得たのか、彼女亡き今では知る術は無い。


 だが出会った当初でさえ彼女は、『ラファエロの欠落』にあるように、慈しむような様子でアトリを許容している。

 晩年の頃の『等伯の未熟』では、しがみつくような様子さえ見せている。

 彼女が共同生活を送る上で、常にアトリに対して信頼や愛情を持って接していたことは、本項の断片からでさえ確認できる。


 またアトリはカナリーの彼女の作品を世に公表し、保全者申請をおこなっている。

 これは彼女が再生することを望む行動だ。


 信頼や愛情という主観。

 これは我々と人間の認識のうち、最も大きな違いである。

 だがそれこそが最も重要な認識であり、カナリーとアトリが互いに抱いていた認識なのではないだろうか。







ごく少数ではあろうが、作中に登場させたりアニメのエンディングにする作家もいるらしい。

(作者はお一人しか存じ上げませんが、他にもいらっしゃるのかしら?)

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