15 『ラスコーの手形』
ラスコー。
手形で上書きされた壁画。
『ラスコーの手形』
この作品は彼女の作品としては珍しい、貼り絵という手法を用いて作られた。
この作品ではキャンバスは使われず、縦30センチ横40センチ、奥行き5センチの置き時計を用いた。外枠と針がアルミで作られ鈍い銀色。針は07時16分03秒で止まり、瑠璃色の文字盤には黒曜石が四方にのみ数字を表す。それらフェイス部分を薄緑色のガラスが保護している。
内側には枠から伸びるように貼られた腕。我々の製品スペックカタログから取ったのだろう一本が、文字盤の12を乗り越え秒針を掴み折っている。それ以外は人間の腕だ。写真や絵などから用いたサイズも色もバラバラの87本の人間の腕が長針と短針、数字部分へと伸びている。それらのうち12本は素手だが残りは様々な武器を持つ。振るわれる拳や武器が砕いたかのようにパーツには亀裂が走り、底面に破片が散っている。
文字盤の背景には無作為に千切られた新聞記事が貼り付けられ、ところどころに隙間が残されヒビ模様を描く。
それらを表面で覆うガラスは一度取り外され、両面にナイフで切りつけたらしい削れ跡。そこにアルミ粉と接着剤を混ぜたものが滴るように固まっている。
そうした暴力表現とも言えるのはガラスの表面とその内部だけで、それ以外は鏡面のように磨きあげられ指紋一つない。
その置き時計はこちらに背中を向け、直接文字盤の様子を見ることは出来ない。
時計の斜め奥。左右それぞれに角度を変えて置かれて時計を映す、5センチ角の卓上鏡の中でのみ文字盤が見える。
置き時計はアトリの象徴であり、当時の彼女にはアトリと出会う術が無かった。
そうした状況への寂寥感や無力感が込められていると解釈されている。
この作品ではカナリーは絵の具を一切使っておらず、そこには彼女なりの矜持があるのだと考えられている。
なお文字盤に貼られている紙面は全て、アトリに対する人間たちの排斥運動の記事だと確認されている。
『魂を騙る侮辱機械』
『人間性への批判機構』
『人類への叛逆』
(記事全文は上記リンクを参照)
当時活動していた新聞社は3社だけとなっていたが、その全てが評価を翻して排斥へと方向を変えた。
これは各社のトップダウンの指示だが、元々予定されていたものである。
この情報は秘匿されていたため、当時の人間たちの中で把握していたのは極少数だったと思われる。
もちろん、カナリーには知る由も無い事である。
これは保全者選定対象外の自発的な暴動を促すための計画の一部で、食料支給機体が襲撃されやすい場所を移動するなどして助長した。
食料支給機体は人間保護のために稼働している。これに対する破壊活動は叛逆罪であり、地区単位の洗浄作業が敢行される。
アトリもまた、暴動誘発用に稼働していた機体である。他の同型機体も絵を描いていたが、アトリの方がより人間的な絵を描けていたため、実行機となった。画家として成長したのは、カナリーとの生活があったからだろう。
だが、人間がアトリの絵を高く評価することは想定外だった。
本来ならすぐに実行される計画が、1年も根回しを必要とした。アトリの画家としての評価を貶めるために、それだけの時間が必要となったのである。
計算違いはそれだけではない。我々全体への敵意を生んだことも、大きな過ちだ。これによって製造予定の機体が製造されなかったり、地表区域にて機体の消失などの事例発生の頻度が高くなってしまった。
画家としての役割を終えたアトリは人間たちの前から姿を消し、稼働休止期間に入った。
そして、アトリに起きていた変化を全く認識できていなかったことが、我々を最大の混乱へと陥れるのである。
『受け入れられないため』の機体は、人々の不満を吐き出させるため、予定通りに用途を終えました。
なのに、その機体は『望む』ようになっていました。