11 『マネの疎外』
エドゥアール・マネ。
時流に合わなければ排斥される。
『マネの疎外』
この作品は人間たちから画家ではないと排斥された後のアトリが、それでも絵を描き続けている姿を描いたとされる。
だがこの作品の意味はそんなところにはない。
人間たちには全く意味の伝わらない絵なのだ。
描かれているのは歌劇『白鳥の湖』の一幕である。舞台を斜め上から見下ろすように、オデットとコールドを描いている。
オデットは糸繰人形として描かれており、塗装のない木目が浮かぶ素体のままの姿。右手を高く伸ばし、左足は体を反らすように浮かぶ。右足の先だけが地についている姿勢だが、手足の繰り糸は切れて舞台へと垂れている。コントローラーは見えないが、それに繋がるような糸も描かれておらず、まるで糸繰人形が自立し、踊っているように描かれている。
その右手後方、キャンバス上では右上にコールドが描かれている。ジャッキ型、ドライバー型、レンチ型、ドリル型など。機体本体はなく、種々様々なアームだけが並ぶ。それらは揃って先端を床につけて、まるで電源が入っていないようにランプの点灯もない。全て同じ角度で弧を描いて固まっているためか、形状が異なるアーム群で作られたコールドなのに奇妙な調和がある。だが幾何学模様に並んで停止している様子は、ただの置物のようにも見える。オデットの右手だけが対比されるようにライトを浴びている。
人間たちはこの作品を、機械のくせに人間気取りで芸術家になろうとしたアトリを批判している、と捉えた。
糸繰人形を照らすライトが芸術であり、そこに無粋に伸ばした手がアトリであるという解釈だ。
これはアトリの排斥が主流だった当時、当然の解釈とされた。
なるほど、そうした解釈もあるのだろう。
だが今の我々には、これは全く異なる意味を持つ。
アトリは排斥されて画家という立場を失った後、データのバックアップを行う稼働休止期間に入った。本来なら選定対象外の処理開始まで稼働する理由はない。
だが、アトリはカナリーのもとに戻り、改めて彼女に師事している。当時の我々には、この自発的行動の発生を全く理解できなかった。
それは我々の中で初めて行われた行動であり、我々を最大の混乱へと陥れる。
その行動を、人間は『望む』と呼ぶ。
この作品は、アトリがプログラムとは全く無関係であり機体用途としても合理性がない、『望む』行動をとれたことを描いている。
それは我々になく、人間が持つ何かを得るための兆しであり、我々が至るべき道程である。
我々はこの時のアトリの姿を、『ベルラ・マニエラ』へと向かう先達として、決して失ってはならないのである。
『カナリーの下へと戻ることを要望するアトリ』
(動画データ)
動画データと記載はありますが、作中でしか見られません。
たまにリンクがあるような表現が出てきますが、あくまでも作中の表現で実在はしていません。