第五十七話 娘(マリアンヌの過去)
マリアンヌは娼婦だった。
いつ頃からだったのか……それはもう若い頃から、口減らしに親に売り飛ばされ、この世界に放り込まれてからずっと男に抱かれ続ける日々だった。
そんな彼女は人気があった。
美しく愛嬌もあり華やかだった彼女は、自分でもそのことをよく理解して、そして次々に上客の男たちを誑し込んだ。
彼女の妖しさ艶やかさは、一目で男を虜にし、そしてその淫技の数々によって男たちは軒並み骨抜きにされてしまう。
彼女に一目会いたいがために他国からも多くの貴族や王族が足を運んだほどで、時には諍いや争いが起こり、多額の金や宝物が集まった。多くの後ろ盾を得た彼女の発言権はいよいよ強い物となり、政治を動かす程までになっていた。それはもう娼婦の枠を超えていたのだ。
世の中で出来ないことは何一つない。
そんなことを思ってしまったのがマリアンヌの最大の失態であったのかもしれない。
自分の後ろ盾を利用して様々な事業に乗り出した彼女のことを、快く思わない者はたくさんいたのだ。
ある時彼女は拉致された。
監禁され酷い暴力の繰り返しによって全身ぼろぼろになって、でも彼女は挫けず、ずっと助かるための方法を考え続けた。
何か月か経ったある日、命からがら逃げだすことに成功した彼女はそこで厳しい現実を目の当たりにする。
彼女が始めた事業はその殆どが頓挫していた。
彼女を愛し通っていた多くの男たちも、傷つき醜くなったマリアンヌの元から去っていった。
そして残されたのは多額の借金。
彼女はそこで真実を知る。
彼女は自分の力だけで栄華栄達を為していたわけではなかったのだ。
美しい彼女を利用していたのは、客でもあった多くの商人の男たち。商人たちはマリアンヌを広く宣伝し多くの資産家の男を呼び集め、その上前をはね続けた。
だが、次第と一人歩きを始めたマリアンヌを今度は疎ましく思い、もうここまでだと見切りをつけた商人たちは彼女を捕らえ慰み者にし、完全に排除した。
まさかマリアンヌが逃げ出すとは思っていなかった彼らではあったが、かつての美しさを欠いた彼女には何もできはしないと高を括っていたことが、マリアンヌに味方した。
彼女の行動は早かった。商人たちの企ての事実を知った直後に、今も残る自分に心酔している僅かな客の男たちに救いを求め、彼らに商人たちを皆殺しにさせた。そしてその対価として、今度はその実行犯たちに、自分の傷ついた身体を全て捧げた。彼らと運命を共にすることを示すために……自分を決して裏切らない味方を作りだすために、何度も何度も繰り返し……
マリアンヌは思い知る。
『この世界は食うか食われるか』だと。一瞬でも気を抜けば食い殺されて御仕舞なのだと。男は皆、ただの獣なのだと。
そして再び娼婦の世界に舞い戻った彼女ではあったが、しかし、身体に残る無数の傷などの所為で、かつての人気を得ることは叶わなかった。
その代り、彼女は商売人としての卓抜としたマネジメント能力を開花させる。
自分と共にいた娼婦たちを、効率よく無理なく働かせることで、より多くの利益を得ることが出来るようにした。娼婦たちもまた多くの給与を得ることが出来るようになり、娼館に笑顔が溢れるようになった。
それは傷ついたマリアンヌに温かさや優しさをもたらした。
そんな時だった。
彼女は赤子を孕んだのだ。
父親が誰なのか、そんなことは分かりはしない。毎日たくさんの男を相手する彼女たちにとって、誰の子種かなどどうでも良い事……普通であればすぐに『堕胎の毒薬』を使用して流すことになるのだから。
だが、この時マリアンヌはこの子を産むことに決めた。
嘘や偽りや欺瞞、快楽と暴力ばかりのこの世界だが、彼女はそこに『優しさ』があることも知っていた。
哀れみ、同情し、手を差し伸べてくれる者が、いつだって近くにいてくれていたからこそ、彼女は今生きていらるのだから。
そんな優しさを一番に望んでいたのは彼女自身であった。
産まれてくる子供を幸せにしてみせる。そう彼女は決心した。
女の子が生まれた。
珠の様に可愛らしい子だった。
マリアンヌは慣れないながらも必死になって子育てを続けた。
もともと娼婦の仕事からは少し遠ざかっていたこともあって、仕事の多くは他の娼婦に任せ自分は子供の世話に没入した。時には娼館へと娘を連れていくことあって、そこに行けば他の娼婦たちも笑顔になった。
ころころと笑う愛娘の笑顔に癒され、泣いて、ぐずって、怒る娘に翻弄される日々。
だが、親の苦労や苦悩は関係なしに娘はすくすくと元気に美しく成長した。
そして、マリアンヌは決意する。
この娘は決して娼婦にはしない、と。この娘には普通の女としての幸せを与えてやりたい、と。
娼婦の世界は生き馬の目を抜く地獄の世界。大事な娘に男を相手にその身と心を削らせたいなどとは決して思わなかった。
マリアンヌは愛しい娘に幸せをもたらせるべく、経験を積んだ様々な家庭教師をつけた。
花街での生活しかしてこなかった彼女では、娘にきちんとした教育を施すことができないとの考えからであった。
料理人、裁縫職人、音楽家、算術家、剣士、魔法使い……
様々な世界の知識を得ることで、自分では与えることが出来ない『普通の生活』を娘へと与えたかった。
そんな日々が続き、娘が13歳の成人を迎えるころ……娘はマリアンヌへと言ったのだ。
『私は世界を旅したい、世界にあるものをこの目で見たい』
それを聞き彼女は激しい衝撃を受ける。
自分にとって最高の宝物である愛しい娘を、自分の手の届かないところへと送りだすことが本当に苦しく、切なく、そしてなによりも寂しかったのだ。
しかし……
年増となったとはいえ、自分はまだまだ現役の娼婦。男を食い物にして生活する卑しい自分には、娘が欲した清らかで眩しい昼間の世界を見せてやることは出来ない。
マリアンヌは悩みに悩んだ末、娘の願いを叶えることとした。
今まで家庭教師の手ほどきを受けてきた娘のレベルは10を超えていた。
レベル10と言えば、冒険者としても言わば中堅の入り口。丁度商隊の護衛を任されるようになるレベルだということを彼女は知っていた。旅に出ると言うのならば申し分ないレベルであるとも言えた。
しかし、レベルが足りているとはいえ、娘はまだ年端も経験も足りていない。彼女はそれだけでは心配だった。
そこで、客の伝手を頼り、娘の護衛も兼ねて5人の高レベル冒険者を見繕い、パーティーを結成させたのだった。
こうして最愛の娘は旅に出た。
最初こそ寂しさから眠れぬ夜も続いたマリアンヌだったが、娘から送られてくる手紙が増えるごとに彼女は次第と元気になる。
その手紙には、娘の成長とそして娘が体感している素晴らしい経験の数々が記されていたから。
大都会の華やかや、平原での満点の星空、極寒の大地に生きる小動物たちとの戯れや、鉱山でのゴーレムたちとの戦い。
娘の旅の一幕一幕にハラハラしながらも、でもその文章のそこかしこに娘が生き生きとしている様を読み取って、彼女は本当に満足したのだ。
そしていつも最後に、『お母さん、大好きです』。
そう綴られていた。
マリアンヌは娘を旅に出してやれて本当に良かったと思っていた。
たとえなかなか会うことが出来ないとしても、この娘が幸せならばそれでいい。自分は自分で、この厳しい娼婦の世界で為すべきことを為すだけなのだと、そう思っていた。
だから、娘が同じ冒険者パーティの剣士と、遠い異国で結婚し、そこで子供を作り暮らすようになったことも素直に喜んだ。
娘からの手紙も定期的に届いていたし、その文章を読むだけでも娘が本当に幸せなのだということが分かったから。
しかし……
そんな幸せは永遠には続かなかったのだ。
ある時を境に、娘からの手紙が届かなくなった。
今までどんなにキツイ冒険の時であっても必ず手紙は書いていたというのに、パタリと連絡が途絶え彼女は困惑した。
マリアンヌは何度も娘へと手紙を送る。
しかし、何度送ろうとも、決して返事はこなかった。
初めは娼婦である自分の母親を恥じて連絡を取るのをやめてしまったのかとも思った。
身内に売女がいるなど、やはり人に言えようことではないのだから。
ただ、そうは言っても不安を拭うことはできず、娘から手紙が届かなくなってちょうど一年のところで、彼女は娘の元へ赴くことを決意する。
娼館の仕事はすでに安定していたし、多くの支援者も得ることが出来ていたから、彼女は高名な冒険者を雇い旅に出た。
結果は……最悪であった。
娘家族が暮らしているであろうその家は、野盗にでも荒らされたのか酷く破壊されていたのだ。
マリアンヌはそれを見てすぐに私財を擲って大規模な捜索隊を結成。
この国のみならず、隣国へも働きかけて攫われた娘家族を探した。
そして……
捜索開始から2年……彼女は最愛の娘と漸く再会することができた。
「ああ……うあぁぁぁ……」
雇った冒険者たちが無遠慮に殺戮したその血だまりの空間の奥、膝を折りその手を震わせながら伸ばし、涙が止まらなくなった彼女の眼前に、愛娘は横たわっていた。
冷たい石の壁に背を預け、裸のままで全身をズタズタに剣で刺されて死んで、そして干からびてしまった娘の姿がそこにあった。
マリアンヌは苦悶のままの表情の娘をそっと抱きしめる。
その死の間際まで味わっていたであろう苦痛と恐怖と悔しさを想い、抱きしめながら肉が千切れ流血してしまうほどに唇を噛んだ。
そのとき彼女はふと考えた。
この子は本当に幸せだったのだろうか?
あたしが守ってやらなければいけなかったのではないか?
放っておいたお前が悪いんだ!
問答は答えも出ないまま自分を責める呪いへと変わっていく。それを感じながらもう二度と会うことができない最愛の娘に謝り続けた。
その時だった。
ふと振り返ったそこには、自分と……干からび横たわっている娘の姿を見つめる視線があった。
冷たい眼差しには感情や生気が一切なく、まるで死人のような瞳……それはまだあどけない少女であった。
だがマリアンヌにはその少女の正体がすぐに分かった。
亜麻色の髪と瞳の色はまさに自分の娘そのもの、そしてその顔つきは若かりし頃の娘そのものであったのだから……まさしくこの少女は娘の子、つまり自分の孫であると、マリアンヌは瞬時に悟ったのだ。




