第十話 とある小悪党の焦り(スルカンside)
「ええい! まだ見つからんのか! この役立たずども!」
大きな樫製の巨大なテーブルをダンッと叩いたのは背の高い痩せた神経質そうな中年の男。沙羅に金の刺繡の入った光沢を放つ煌びやかな衣服を身に纏い、全ての指には様々な色の宝石の嵌め込まれた指輪をつけていた。
男はピンととがったカイゼル髭をやはり神経質そうに震えながら撫でると、視界の隅で怯えるように畏まって立つ数人の男たちを睨みつけた。
彼らは一様に黙りこくっていたが、このままでは埒が開かないと一番年長と思われる筋骨逞しいくたびれた皮鎧の男がおずおずと口を開いた。
「だ、だんな……そうは言われましても、そんな『小さな石』を誰にも知られずに見つけろなんて度台無茶な話ですぜ」
「言い訳は聴かんと言った! ええい、この間抜けどもめ……ふぅ……で? あの儂を嗅ぎまわっている鼠どもはきっちり始末したのであろうな」
「そ、それがですね……」
立ち並ぶ別の男がおずおずと話し始める。
「それが……旦那に言われて俺の知る一番の殺し屋を見繕ったんですが、全員やられちまいやして……」
「なんだと! 殺されたのか!」
「い、いえ……それが……」
男は一度言い澱んでからつい先程顔面蒼白のままに自分へと報告してきた刺客から聞かされた内容を……誰も殺されてはいないという話を繰り返した。
標的である、黒髪の町娘風の少女を伴った青年冒険者。つい一月ほど前にフラりとこの町に現れ、この貴族の男の身辺をうろつき、今に至っては彼の身辺の調査のようなこともし始めていた。
大した実力もないとの評判ではあったが、用心に用心を重ねてそれなりに金を積んで犯罪者崩れの暗殺者を雇い入れ、さらにゆきずりの喧嘩を演出した上でひっそりと殺す算段であったはずだが……
貴族の男にキツい目で睨まれた男は、慌てて弁解。
「そ、それがですね……お、女の方がエラく強かったみたいで、5人がかりでも全く話にならなかったらしく……」
「言い訳は聞かんと言った! たかがレベル1の男と武器も持たない女に負けるような刺客を雇った貴様に責任がある!」
貴族の男は鼻をピクピクと痙攣させながら男に怒声を浴びせる。殺し屋を雇い入れるための金も当然彼が出しているのだ。役にたたなかったでは済ますことは到底できない。
しかし、その怒鳴られた男も自分が考えつく限り最高の実力を持った刺客を選んだのだ。それを退けられたことこそが異常であり、それを理解しようともしないこの雇い主にそのことを言わないではいられなかった。
「お、お言葉ですが、旦那。ここらであの連中より強い奴は冒険者にだっていませんよ。それにその連れの女の見た目……『長い黒髪』の御供っていや、噂に聞く王都の『聖……』」
「ええい! だまれだまれだまれだまれェ!」
男はまるで気が触れでもしたかのようにその両腕を振り回して、机の上にある諸々の書類や墨の瓶を叩き落とした。周囲にはそれらが散乱し混沌とした状況に変わる。
机の上に残っているのは妖しく輝く黒水晶ただひとつのみ。
「貴様ら言うに事欠いて言い訳ばかりつらつらと……本当に痛い目に遭わんと本気を出せんようだな……」
冷や汗を額に滲ませたその煌びやかな身なりの男が、机の上に置いてある漆黒の水晶玉に手を近づけようとしたのを見て、立ち尽くしていた一人の男がすぐさま頭を下げた。
「め、め、滅相もありません、スルカン様! い、今すぐ、今すぐに、必ずその石を見つけ出してまいります! 男と女も必ず殺しやす! か、必ず!」
そう泣きそうになりながら叫んだ皮鎧の男を中心に、他の数人も慌てて頭を下げて我先にと部屋から飛び出して行く。
その様子を見ながら、貴族の男はふぅと大きくため息を吐いた。そして、机の上に肘をつき、両手で頭を抱え込んで蹲った。
まずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいっ!
男……スルカンは心の中で恐怖を叫び続けていた。
彼は今のこの状況を心の底から恐れていた。繰り返されるのはなんでこうなってしまったのかという答えのない問い。それをひたすら繰り返し、取り返しのつかない今の状況から逃げ出すことのできないことに怯え続けているだけであった。
このままでは『殺されて』しまう。
このままあの『魂の宝珠』が見つからなければ儂は……
スルカンは震えの収まらない身体を抱く。そして自分の命の対価ともいうべきあの『宝珠』の行方を思い頭をかきむしった。
そう、彼は、かつて自分が掠めとった『魂の宝珠』を紛失してしまったのだ。
これを手にしたことで彼は今の権力と絶対の守護を約束されていた。だというのに、誰も知り得ない箇所に隠してあったそれが消えていた。
いったい誰が盗んだというのか……
身内か? それとも真相を知った第三者か……
彼の不正に干渉しようとしてくる王都の役人どもも、この館には再三足を踏み入れている。
そして、噂のあの人物が本当に動いたとでも言うのか……
疑心暗鬼に蝕まれ、彼はすでに周囲全てを信用することが出来なくなっていた。
こんなはずではなかった。儂はただ、富と栄達が欲しかっただけだ。奴を越えるだけのそれを手にしたかっただけだ。
この街にいる限り決して変わることのなかった家の身分の差。父の代も祖父の代もその更に前の代も変わることなく綿々と継がれてきた副領主という肩書。ただ家の恪が違うというだけで甘んじるしかなかった、奴との差。
ただ儂は奴の上に立ちたかっただけだ。そうだったというのに……
なぜ儂がこんな目に……
彼は自身の罪を悔いるでもなくただ、自分が置かれた境遇に悲嘆し続けていた。
自分は得るべくして今の地位を得たのだ。甘い汁を吸って何が悪い。どうせ奴も奴の親もそうし続けてきたわけじゃないか。それなのに、なぜ今こんな窮地に立たされなければならないのだ! と。
もはや憔悴しきってしまった今の彼に、倫理に乗っ取った冷静な思考を求めること自体が不可能で会ったのかもしれなかった。
彼は罪を犯したのだ。決して許されることのない重大な罪。自分の抑えきれない欲望を叶えたいが為にある人物を罠に嵌め、そしてその命を奪ったのだ。
共に学び共に育った兄弟であり友だった男……かつて彼は血を分けた本当の兄弟のように彼のことを大切に思っていた。だが、そんな友との間には余人にはどうしようもないほどの高い壁が聳えていた。仕う側と仕われる側。そのどうしようもない差があることに気が付いた時、スルカンは激しく自身に絶望し、激しく相手を憎悪した。
いつか必ず相手を降してみせる。そんな陳腐な夢を現実に叶えられると知った時、彼は一も二もなくその手を血に染めたのだ。
ようやく訪れた最高の瞬間。スルカンは一番上に上り詰めたことに歓喜した。
全ては自分の思うがまま、金は金を呼び、金に媚びる人間が更に金をもたらせた。使いたいときに金を使い、足りなくなれば領民から巻き上げる。
こんなに楽で楽しいことはない。そう、思っていた。『主様』と呼ばれるあの存在の声を聴くまでは。
彼は知らなかったのだ。この地に眠る存在を、この地にかけられた呪いを、そして、この地を統べる者に課せられた宿命の事を。
それを知った時、彼はかつて友と呼んでいた自分が手に掛けた男の事を微かに思い出した。
だが、もう全ては手遅れだった。
この地が血に染まるのはもはや時間の問題。リミットは七の月の満月の夜。この日に彼は彼の握る『大勢の命』と引き換えに自分だけは生き残るはずだった。
それは本当に恐ろしい選択。彼の判断ひとつで数千人の命を消滅させるのだ。
それは人としての倫理観を失いつつあった彼にとっても非常に重たい選択と決断。
だが彼は自分の保身を優先し忍び寄るその日が訪れるのを彼は恐怖し続けた。
しかし、その日が過ぎても、滅亡は訪れなかった。満月が過ぎ、一晩二晩と日を重ねるうちに、彼は自分が救われたと思うようになっていた。呪いは解かれたのだと、彼の者は目覚めないのだと……でもそれはただの幻想だった。
三日目の晩、彼の前に再びあの男が現れた。
彼をけしかけ友を殺させた男。そして、彼の欲望を成就させ続けたあの男が……
そして、告げたのだ。
『主様』の邪魔立てする者を全て排除せよ……と。
スルカンは目の前に置かれた黒い水晶に目を向け、そして今度こそそれに触れようとしていた。
だが、その指が触れるその寸前に、その声が室内に響いたのだ。
「お止しになられた方が良いですぞ、領主様。『主様』はただいま大層お怒りになられておりますゆえ」
「ひっ……べ、べリトル殿……」
誰もいなかった筈の豪奢なこの部屋の一角に、突如あの男が現れた。薄汚れたマントで全身を覆い、頭にターバンを巻いた褐色の肌に黒い髭を蓄えた壮年の男……彼はその深く被ったターバンの縁からギラリと瞳を光らせてスルカンを見ていた。
「その水晶は言わば『主様』の力の分身……本来貴方程度の存在が自由にして良いモノではないのですよ」
そう言いながらコツコツと机に向かって近寄ってきて、そして、そのマントの間から長く節くれだった指を覗かせると、その指先に僅かに火を灯した。
魔法である。
ベリトルはその炎を器用に揺らしまるで鞭のように細く伸ばして行った。そしてその炎の鞭はスルカンに撒きつくかのように、椅子ごとスルカンの周りを何重にも包囲していく。
その余りにも異様な光景にスルカンは一言も声が出ずにただただ、涙と鼻水を垂れ流して震えていた。
黒水晶はべリトルの言葉の通り超常の力を発する道具。これを使い彼は様々な人間を脅し害し殺してきた。そしてその力の源は紛うことなき強大な存在によるもの。
「おやおや……くっくっく……怖いのですか? 自身の欲望の為に友を手にかけたほどの貴方が、たかが死ぬことを怖れているのですか? これは滑稽ですねぇ」
炎の鞭はまるで蛇のようにうねりながらスルカンの周りを蠢く。身体には触れてはいないが重厚な造りの椅子は完全にその炎の餌食となり、徐々に焼け焦げ始め周囲に黒い煙を立ち上らせ始めていた。
それを見て、ベリトルが声を漏らす。
「おっと、せっかく貴方が大枚を払って手に入れた豪華な椅子が燃えてしまいましたね。これは失礼」
炎を消すと同時にスッと手を胸に当てて優雅にお辞儀をしたベリトル。その瞬間、炎が消えたことで緊張の限界を超えてしまっていたスルカンは全身汗だくのまま失禁してしまっていた。
ベリトルはそれに構わずに顔を上げ、ニヤリと笑みを浮かべた後に話を切り出した。
「『主様』は寛大にも貴方に最後の機会をお与え下さいました。今夜0時までに『魂の宝珠』を『祭壇』に捧げるのです。そうすれば貴方は永遠に救われることになるでしょう」
笑みを湛えたベリトルが後ろへと去ろうとしていると見てとったスルカンは慌てて声を掛けた。
「お、お待ちくだされベリトル殿……『魂の宝珠』は今、少し……その、べ、別の処にあるのです。そ、それに、今、羽虫の様に私の周りを嗅ぎまわる冒険者がおりまして、その、すぐには動けないのです。今夜0時にはとても間に合うか……」
立ち止まったベリトルは顔を再びスルカンへと戻し、笑みを湛えたままで口を開いた。
「そうそう、言い忘れておりました。『主様』は貴方の忠義に関係なく今宵の満月の世に再びこの世界にお見えになられます。『主様』がお越しになられた時、貴方を見てどう思いますことやら……くくく」
「そ、そんな……」
絶望に震えるスルカンは恐怖に自我が壊れていくのを自身でも感じながらなんとか生き残るための方法はないかと必死に頭を回転させた。そんな様子を可笑しそうに見ていたベリトルがさらりと言った。
「そう言えば、貴方のご息女……確か、セシリア様と言いましたか……彼女が『魂の宝珠』のような小さな石を持ち出されているのを見ましたよ……危ないことをされなければよろしいのですが……ふむ……まあ、これ以上はやはり時間の無駄ですか……」
「な、なにを……?」
べリトルは急に何かを思い出したかのようにスルカンへと近づき、机の上に置かれた黒い水晶球を掴む。そして、それを掲げると同時にスルカンの胸目がめてそれを突き入れた。
「グッ……ハッ……」
胸へとめり込む水晶とべリトルの腕。にやけたべリトルの前で驚愕に目を見開いたスルカンの口から大量の血反吐があふれた。
「あ……あ……」
理解の範疇を越えてしまったスルカンの脳がその音を辛うじて拾った。
くちゃくちゃと何かを噛むような音が室内に響いている。それを聞きつつ声にならない悲鳴を上げつつスルカンが血みどろの自分の胸へと視線を落とした。
そこにはべリトルが手にした黒水晶が……
大きな口を開いてスルカンの胸を喰っていた。
「ぃ……ひぃ……」
もはや正気を失いかけつつあるスルカンに、べリトルの微かな声が届く。
「ふふ……もう何も心配はいりませんよ。主様があなたを生命の呪縛から解き放ってくださいました。これで何も憂うことはありませんよ。さあ、主様の眷属としてご存分にお働きくださいまし……くふふふ……」
ベリトルはそこまで言うと、手にした黒水晶を机の上へと戻し、部屋の隅の暗がりに溶け込むかのように忽然とその姿を消した。
『今宵の満月は最高の色に染まることでしょうね』とだけ言い残して……
そして部屋にはスルカンただ一人となる。
彼は、先ほどと同じように椅子に座ったまま、両手で頭を抱えていた。
しかし、今度は先ほどとはその様子が全く違う。
両手で頭を包みながらもその眼は真っ赤にらんらんと輝き、ただひたすらに正面の黒水晶を見つめている。そして半開きになったままの口からブツブツと絶え間なくある人物の名前を呼び続けていた。
その口角は次第と引きあげられ、やがて、それは哄笑へと変わる。
けたたましく笑い続けるスルカンを……
漆黒の水晶が鈍く光りながら見つめ続けていた。
「くくく……愛しいセシリア……父を助けておくれ……」