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その続きは百年後

作者: kazae

 「その続きは百年後」




 蝉の声が何重にも折り重なって、すっかり空気に馴染んでいる。

 私は学校の図書室から借りた本を小脇に抱えて、車から降りた。読書感想文の課題も、早々に読み終わってしまった。もっと本持って来ればよかったかな。まぁ、大丈夫かな。本だったら、ここに来ればいくらでも見つかりそう。

「夏美、夕方までに荷物片づけておいてね。あまり勝手にいろんなもの触っちゃだめよ。おじいちゃんのものなんだから」

「はーい」

 祖父のお屋敷に遊びに来た。

 といっても祖父は昨年他界して、所有していた別荘だった建物を、遺品整理の意味合いで訪れた。

 まだ小さな頃に数回来た覚えしかないけれど、祖父の別荘に来るのは大好きだった。

「はー、ここがつまり、小説家、霧岬倶有の書斎だったってことかぁ」

 おじいちゃんのおじいちゃん、高祖父は明治・大正の頃に名をはせた作家だったらしい。霧岬倶有という名前は、芥川龍之介や夏目漱石と並んで、図書館の文学全集の中にも収録されているし、学校の教科書にだって載っている。私の密かな自慢だった。

 別荘には書斎があり、古びた書物がぎっしりと並んでいる。

 難しくて読めないけれども、でも本が並んでる景色が大好きだった。

「あれ?」

 誰もいないはずの部屋から、明かりがこぼれている。

 お母さんかな……でも、今は外で荷物の片づけをしているはずだ。二階にいるはずがない。

 そう思って、扉の隙間から中を覗いてみる。

 棚の上に、燭台が置かれていて蝋燭の火がゆらゆらと揺れている。

 煤の匂いがした。

 でもそれ以上に、異様な空気を感じた。

 部屋の中にいるはずなのに、真夏の森の中にいるみたい。生暖かくて湿った風が、ゆらりゆらりと部屋の奥から流れてくるような感じがする。

 そこに、見たこともない人影がいた。

 白い着物の、狐みたいな耳の男の人。

 すらりとした背の高い体躯、細すぎじゃないかって思うほど華奢な、男の人。

 時代錯誤な印象の、白い着物と紺の帯、灰色の羽織。

 髪は白くて、羽織を着た背中に、ほうき星の尾のように、細く、長い髪が垂れる。そしてその髪からは尖った三角の耳が突き出ていた。狐かイタチのような耳だ。髪と同じ白い毛皮にふっさりと覆われていて、先端の方になるにつれ銀色を帯びている。

 手には書斎の本棚から取り出した本を持っていて、ぱらぱらと頁をめくりながら、熱心に文字を目で追っている。

 黄ばんだ古い本のページを、丁寧な手つきでめくり、やがてその手が途中で止まる。伏せた目の長い睫毛が手元に陰を落とす。

 そして、深く、苦し気な溜息を吐いていた。

「百年はもう、とっくに経っているのに……」

ごく小さな、呻き声のようなささやきが、口元から零れた。

「『忘れざりしその面影に、心迷ひて、ただ名前を呼びたまひぬ』」

 一語一語区切るようにして、謡うようにして読み上げている。思わず動揺しそうなくらいに、低く、艶やかな声で、耳から離れなくなりそうだ。

 か細い声が、なんだか、今にも泣き出しそう。

 と、食い入るように覗き見してると、ふっと、 突然顔をあげてこちらを向き、そして扉の隙間のところに立っている私と目が合った。

「おや」

 大きく見開かれた双眸が、瞬きを繰り返す。瞳の色は銀色。人とは違う瞳孔の形がはっきりと見えて、私は思わず二三歩後ずさりそうになった。

「ああ、もしかして、そうだろう、僕が見えてるね……」

そして、愉し気に眼をくすりと笑った。一瞬ほころばせたその笑顔は、子供のように無邪気な笑みに見えた。

 彼は私を見つけて手招きする。

 どうしよう。

 逃げたほうがいいのかな。でももう見つかっちゃったし、行ったほうがいいのかな。

 昔よく読んだ物語の中では、こういう場合はどう動くのが正解だったっけ。

「今更逃げなくてもいいでしょう? ここにたどりついたということは、君はこちら側に来たがっていた。やっと、手が届く距離まで近づいてこれただけだよ」

 親し気に語り掛けてくる。確かに不思議と、初めて会ったような気がしない。

 怖いと思ったのは、彼の姿にびっくりした最初の一瞬だけで、私に向けられた笑顔を見た途端、警戒心や恐怖といった感情は解けて消えていた。

 親戚のお兄ちゃんに久々に会ったみたいな気分。それに、とても温かい声をしていた。

「いいじゃん、硬いこと言わずにさぁ、こっちは退屈してるんだよ。踊るくらいしか娯楽がないからね。ヒトが来たら歓迎されるよ? 一緒に花札しようよぉ。好きなんだよね、花札」

 花札かぁ。いいよ。おじいちゃんが好きだったなぁ。花札の役とかあれこれ教えてもらったっけ。

 枚数がそろっていない古い花札を、おじいちゃんはとても大事にしていて、形見としてその花札は私がもらったんだった。不揃いなのでその札で遊ぶことはできないけど、年代を感じる少し色褪せた絵柄が、逆に魅力的な芸術品のように見えて、お守りみたいに大切に持っている。

「じゃあ花札しよう」

 狐耳の男は、嬉しそうな笑顔になって、こいこいと私を手招きする。

「ふふふ、こんなこと久しぶりだなぁ。今日はなんていい日だろう。じゃあお嬢ちゃん、君には特別に、僕の秘密の通路を教えてあげるね。どこにあると思う? 実はね、この机の下を通るんだよ」

 書斎の机の下には塩が盛ってある。

 机の下にもぐると。

 ふぅわり、と。生温かい夜風、湿った、お香のような匂い。そんな空気が流れてきた。

 カチリと、止まっていた柱時計の針が、軋みながら動いている音を背中で聞いた。





「焼き鳥好き? おごってあげるよ」

 美味しそうな串焼きを売っている屋台。果物が並んでいる屋台もある。

 こういう景色、夏休みアニメとかで見たなあ。

 狐は、飲み物を二人分買ってくれて、空いている席に腰掛ける。

 似たような雰囲気の人たちがうろちょろしてて不思議な気分。

 耳が生えてる人も、角が生えてる人もいる。

 飲み物を買うときに狐が手渡していたのも、見たことがない通貨だ。

 時代劇で見かけた銭に似てるかも? 錆びた銀色の粒を渡していた。

「大丈夫だよぉ。小説家・霧岬倶有の血筋の人間だって言ったら、みんな君に興味持つと思うよぉ。僕だけじゃなくてさぁ、みんな退屈してるから、面白い人間が好きなんだ。霧岬倶有は最高に面白い人間だったからねぇ」

「おーい、花紺、何やってんの? ひっさびさだなぁ」

 白いポンチョみたいな羽織を着た男の子が寄ってきた。

やっぱり似たような三角の耳が頭に生えている。

「霧岬んとこの書斎に出入りしてたらさぁ、この子がいてね。面白そうだから連れてきちゃったぁ」

「えええっ、ダメだろ勝手にヒトの子さらってきたら!」

「いいのいいの。ほら、花札できるってよ。今始めたばっかりだから、ゆすらも一緒に遊ぼうよぉ」

「おーいヒトの子、ダメだぞこんな怪しいやつに勝手について来たりしたら! オレは草食だしこいつは雑食だけど、中には肉食の妖怪もいるからな!うっかりしてたら喰われちゃうぞ」

「まぁまぁ、そう人聞き悪いこと言わないでよ、ゆすら。何も売り飛ばすために誘い出したわけじゃないんだしさぁ。今どきヒトの肉なんて、珍味好きにしか買ってもらえないでしょう。鳥や兎のほうが美味いしさぁ」

 なにやら不穏な会話をしてるけど、とりあえず聞いてないふりをして花札をくる。

 大丈夫だ。私にはおじいちゃんからもらったお守りがあるから多分大丈夫。多分。

「この子は霧岬倶有の子孫だよ。会ったときに気配ですぐわかったもの。こんな面白いものそうそう放っておけないよ。えーと、名前聞いてなかったね。なんだっけ」

「ナツ」

 本名は桐谷夏美なんだけど、確か神様や妖怪にはうっかり本名名乗っちゃいけないって、本で読んだ気がするぞ。

 名前を教えちゃうと、西遊記では瓢箪に吸い込まれちゃうし、死神のノートに名前を書かれると魂を取られちゃうのだ。

 ちなみに、ひいひいおじいちゃんの霧岬倶有も筆名、いわゆるペンネームで、本当の名前は桐谷有吉というのだ。

「はいはい。ナツちゃんね。僕は花紺で、こっちの口うるさくてチビなのが、ゆすら。

 さてと、ナツちゃん。いいこと教えてあげるよ。僕たちと花札で勝負して、勝てたら、何かいいものをあげよう」

花紺はにやりと目を細めて、愉し気に私を眺めている。

「霧岬倶有も、そうやって花札で僕たちをがんがん負かしていって、霊力を手に入れていったんだよね。あれはすごく面白かったなぁ。なんで人間ってそんなに花札強いんだろうね。僕たち妖怪と比べてよっぽど頭がいいのかなぁ」

「そうだよねー、空想した作り話を延々と書き続けて本にまとめるなんて、人間しか思いつかないよな」

「あれ、僕大好きだったんだよねー。面白かったなぁ。今でもときどき霧岬んとこ行って、書斎の本漁るもん」

「言葉には霊力が宿るからなぁ。ヒトの凄いところってそういうところなんだろうね。架空の物語が現実に影響を与えるんだよ」

「ねー君もそう思うだろうナツちゃん」

 うっ。そんな、おじいちゃんの書斎の本なんて、難しすぎてあまり読めてないなんて言えないじゃないか。

 私に読めるのはせいぜい図書館で借りた児童文学全集ぐらいだよ。

「じゃあ、僕とゆすらと、花札勝負してどちらとも勝てたら、ご褒美に、観光案内してあげるよ」

 木のテーブルに、花札を広げて勝負を始める。

「遊び方は知ってる? ナツちゃん。確かねぇ、ヒトが使ってる遊び方と、僕たち妖怪の花札の使い方とはちょっと違ってるはずだよ」

 花紺が、にやにやと愉しそうに笑いながら、私と花紺の前に裏向きの札を八枚ずつ、真ん中に表向きの花札を八枚とを並べていく。

 おじいちゃんが、「もっとわかりやすい、特別な遊び方を教えてあげよう」と言ってたのを思い出した。

 八枚ずつ並べるやりかたが普通らしいんだけど、おじいちゃんに花札を教えてもらったときは、五枚ずつ、トランプみたいに手に取って、その中から役が作れるかどうか、ってのをやっていた。

 私の手元には、ちょうど、猪鹿蝶が綺麗に並んでいた。

 それを見て花紺が更に嬉しそうに目を細めていた。

「思った通り、当分、退屈せずにすみそうだ。嬉しいなぁ」

 


「もしもし……そこのお嬢さん、通りがかりとのころ申し訳ございませぬ。ですが、もしよろしければ、少しだけお手を貸してはくださらないでしょうか」

 串焼きに飴に小判焼き、と。、屋台で買った食べ物を両手で持ちながら歩いていると、女の人に呼び止められた。声が聞こえた方を振り返ると、市女笠を被った人形のような女性が、私に向かって手招きをしていた。

「ここの地面の小穴の中に、大切なものを落としてしまったのですが、暗くて何も見えないので、わたくしの代わりに、拾ってくださらないでしょうか」

 土の上に膝をつき、かがみ込んでいる。見ると、地面に小さな窪みのような穴が空いていた。手のひらを広げたほどの大きさで、それほど深い穴には見えないが、確かにちょうど木の陰になっていて、屋台や灯篭の明かりが届かず、ぽっかりと暗い。

「ここに何があるの」

私は串焼きを片手に持ちかえて、何も深く考えずに、さっさとその窪みへと手を伸ばす。

 すると、穴に手を近づけた途端、するすると細い蔓のようなものが伸びてきて、あっという間に私の指先に巻き付いた。

「ひゃっ!」

悲鳴を上げて、手に持ってた串焼きと飴は全部落としてしまった。

「あな、うれしや……」

市女笠の女性は、にたりと紅い唇を笑みの形にほころばせた。次の瞬間、日本人形のような、作り物のような顔はするりと溶けて消えて、真白い卵のような顔にぽつんと唇だけが残った。

蔓は私の指に、手首に、じわじわと巻き付きながら、葉と蕾を生やしている。小ぶりな朝顔……というよりは白い夕顔のような花が咲き、その一つ一つに、さっき見た女の人のような、笑みの形をした紅い唇がついている。唇だけで、顔も目鼻もない。口だけだ。

「ほほ」「ほほほほ」「ふふ、うふふ」「やっと咲けた」「ほほほ」

 咲いた花から、動く唇が笑い声を上げる。あまりの気味の悪さに、腕から、背中へ、そして全身へ鳥肌が広がった。

「やだやだやだ、やめて、離れて、巻き付かないで」

 私は巻き付く蔓をむしり取ろうとするが、引きちぎろうとするとかえって蔓はきつく締め付けるように右腕に巻き付き、ちぎれたところもあっという間にまた生えてしまう。

「ナツちゃん、何やってんの!」

 ようやく、私の様子に気づいたらしい花紺が、慌てた顔で駆け寄ってくる。

「ちょっと、かずら女、僕のツレに何してくれてんの」

「巻き付くものが何もなかったのです……、秋までに、蔓を伸ばして花を咲かせておかないと、実るのに間に合わなくなるというのに……。このあたりを通りかかる妖怪たちは、誰もかれも冷たくて、わたくしの声すら聴いてくれない」

「あーもう、そういう湿っぽい言い訳はいいから。とにかくこの子返してくんない。でないと全部引きちぎって跡形もなく焼き払うから。ほら、こいつで手を打とうよ」

 花紺が市女笠の女性に見せたものは、花札の束だった。

 すると、花から聞こえてくる、無数の口が笑う声が不意にぴたりと止まった。

 女は、のろのろとした手つきで、自分の袂から、草で編まれた小さな包みのようなものを取り出す。中には、同じく札の束が入っていた。

「五枚ずつ取り出して見せる、それでいいだろう」

 花紺が、裏向きのまま手の中に取り、残りの札の束を懐にしまう。同じく女も五枚手に取り、残りを片づける。そしてそれぞれ向かい合わせに立ち、札を持った手を差し出して、相手に見せるように表に返して札を広げた。

 花紺の手元には、菊が三枚、盃と青短、それから残りが牡丹と松。相手方の方は、藤が一枚と、他の四枚は、驚いたことに何も絵柄が描かれていない真っ白な札だった。

 女は、ぱらりぱらりと絵柄の無い札を落として、しくしく泣きだした。

「君は僕より弱い。さっさと帰りな」

 しくしく。しくしく。

 すすり泣く声を残して、陽炎のように消えてしまった。私の腕に絡みついていた蔓も、笑い声を上げて咲いていた花も、もう跡形もない。

「ああ、すごくびっくりした……」

「ダメだよナツちゃん。うっかり油断したら、変なのに取りつかれちゃうからね」





 図書館に行ってめっちゃ沢山本を借りてきた。

 私のよく読む児童文学全集と、花紺が読み漁ってるっていう話がどうも近代文学あたりだったのでその辺の、森鴎外、鏡花、芥川、太宰あたりの有名どころも。

 それから与謝野晶子と石川啄木とか歌人の歌集。

 それと源氏物語と万葉集。

 わー国語の教師になった気分だわ。

「うわーーーー本がいっぱいだぁ、すっげぇ嬉しい。好きなだけ奢るよナツ。食べたいものなんでも言ってくれよな」

 ゆすらが手に取って大喜びしているのは「いそほ物語」。イソップ物語の昔の翻訳版みたいだ。

「ひいひいおじいちゃんの本はねぇ…読もうと思って手に取ったことは何度かあるんだけど、不思議な言葉がぎっしり並んでてよくわかんなくて、文字の羅列を眺めてるだけで頭がくらくらしてくるのよね」

「霊力込められてる感じするからねぇ、倶有の言霊が籠ってるもの。だから読んでて美味しいんだけどね」

「私には文学作品はハードルが高すぎるわ。普段漫画ばっかり読んでるもの」

「漫画ってなんだ。美味いのか」

「絵草紙みたいなもんじゃないのか」

「ええとね、多分そんな感じ」

 妖怪に少年漫画読ませてはたして話が通じるのかしら。まぁ試しに今度持ってきてみよう。

「じゃあ出かける前に今日も一回花札やってこうよ」

「ほんと好きだね花札」

「その日の運試しみたいなものだしね。選ぶ道も変わってくるし」

 ある意味タロットカードみたいなものなんだろうか。猪鹿蝶で吉凶見てるのかあ。

「ナツちゃんが勝ったら今日もどこか面白いところに案内するって話ね」

「お、やったぁ」


 そんな流れで、今日は見世物小屋にやってきた私たち。

 水槽に入った美女が売られている。

「うわぁ…何あれ、ヒトが売られてるの?」

「あれはヒトじゃないよ金魚だよ」

「金魚!」

 その水槽を熱心に眺めている人がいる。

 ちょっと心配になるくらい青白い顔をしているものの、白皙の肌と整った顔立ちは、息も止まりそうになるくらいの美貌だった。

 気だるげな立ち姿と物憂げなまなざしが、まるで一枚の絵画を切り取った光景のよう。

「樺桜はお気に召しませんか。ご覧のとおり美しいでしょう。珍種や希少種を掛け合わせて、このように虹色の鱗を持つように品種改良を」

「なんとまぁ、この世のものとは思えない美しさというから見に来てみたものの。とんだ興ざめだな」

 溜息を吐く呼吸がなんとも艶っぽい。この世のものとは思えない、という表現が当てはまるとすれば、まさに彼のことではないかと思う。

 人間離れした美貌。魔性。

「私は、生きているモノには興味はないのでね。美しい『屍』は売ってはいないのか」

 そっと店主らしき生き物に囁いている。小声で会話しているというのに、澄んだ声が私の耳にもしっかりと届いてくる。言葉の一つ一つが無性に艶めかしい響きを放っている声音だった。ぞわりと、背筋に冷たい感覚が走るくらいに。

「御冗談を仰る、旦那。死んだ妖怪や獣をそのまま置いて飾っておけるわけがない。鳥や兎のような下等な小動物ならまだしも、死んで体の内側の霊力が吹き飛んでしまえば、半日もしないうちに体がぐずぐずに溶けて崩れてしまうのは、赤子でも知っている常識でしょう」

「それでも私は死んだ生き物が好きなんだよ。飾り物として手元に置きたい。そうだ例えば……ヒトの屍は特に美しい」

 なんだろう。あの声を聴いていると、背筋に悪寒が走ってひどく不吉な予感がする。なのに、あまりにも艶っぽくて綺麗な声をしていて、この場を動くことができない。

 花紺が私の背後でチッと舌打ちをしていた。

「おやおや、やっかいな野郎がいる店に居合わせちゃったようだねぇ。ゆすら、今日のところはこの辺にしといて、ナツちゃんと一緒にさっさとここを出ようか」

「えっちょっと待ってよ、ナマズが面白いんだよもう少し見てたいんだけど」

「ナマズなんか喰ったって全然美味しくないだろ」

 ゆすらは小さな子供のように、丸い瞳をきょろきょろさせながら、鯰の水槽を眺めている。

 発光する鯰の水槽は、青い光の粒がキラキラと水の中に揺れている。

「そうだなナマズ独特の風味があって癖があるなぁ。私は嫌いではないのだけどね」

 と、背後から例の艶っぽい声がした。

 一体いつの間に私の真後ろに立ったのか。

「ヒトの気配が全然しなかったから気が付かなかったよ。お前が隠してたのか? 銀狐」

「あなたみたいな変態趣味の野郎にうっかり連れていかれないように、匿っておいたんだよ。珍しんじゃない、引きこもりのくせにこんな場所うろうろしてるなんてさ」

「私をヒトさらいみたいに言わないでくれないかなぁ。不躾だね、狐」

 くつくつと押し殺したような声で笑う。

「失礼。可愛らしい、ヒトの子のお嬢さん。私は露帆という者だ。そんなに警戒した目で見なくていい。とって喰ったりはしないから。小さくて可愛らしいね、よしよし」

 頭を撫でようとでもしたのか、私に向って手が伸びてきた。でも花紺が引きはがすようにして私の肩をぐいと掴んで引っ張り寄せたので、露帆の手はするりと空しく宙を泳ぐ。

 なんとなくこの二人、仲悪そう。間に漂う不穏な空気がびしばし肌に伝わってくる。お互いに、相手を威嚇するような態度だし、口元だけ笑っているけど、目を見れば本心で笑っていないのが一目でわかる。

「この子は花札が得意でね、面白いから連れて来たんだ。なぁ、ナツ」

「えっと」

「ああそうか。それは楽しそうだね。私が見たところ、他にも何かありそうだけど、何か隠してないかい?」

「さぁてね。知らないな。妖怪で花札が上手いやつとはあまり出会ったことないから、どうしてもかわいがりたくなるしね。どうだい、露帆も一勝負やっておくかい」

 と、投げかけられてから。露帆はしばらく考え込んで「今日は気の流れがあまりよくないみたいだ。 やめておこう」と答えていた。

「最近は、何か面白いものでも見つけたのかい」

「まだ見つからないが、見つかりそうな予感がするからこうして足繁く出歩いているんだよ。何よりもうすぐ、宴も近いことだしね」





「あーこれ面白いねー。しぇいくすぴあ? ってゆうの? へー西洋の戯曲なんだねー」

「そういうのも読むんだねあんた」

 そしてまた私は花紺の住処で読書会をやっている。

 難しそうな全集をにやにやしながらめくっている花紺を眺めながら、私はお煎餅を食べている。駄菓子美味しい。

「ねー、今日金魚屋さんで会った、黒髪のあの人も妖怪?」

「んー、まぁ、広い意味では妖怪だよねー、あいつの正体は確か骸だけど。わかってないなら言っておくけど、こちら側の世界は、輪廻転生の輪を抜けて寄り道してるモノが集まってだらだらして過ごしてる連中がたむろってるところだからね、ある意味みんな妖怪だし、ヒトに近いものもケモノに近いものもモノに近いものもいろいろ混ざってるよ。わかりやすいから、だいたいみんな、外見は『ヒト』に近い姿をとるけどね。こんなふうに一部だけ元の姿を残したりするのは、ある種のアイデンティティかなぁ」

 ぴょこん、と、花紺の頭についてる三角の耳が揺れる。

「そうなんだぁ。おじいちゃんの小説の中にも、そういう話があった気がするなぁ。難しくて全部は読めてないけど」

「面倒がってないで、難しくてもちゃんと読みなよぉ。?有も、普通の人には見えないものが目に見えてた人種だからねぇ。あの手の人間は凄く面白いんだよなぁ。こちら側に平気で入ってくるし、霊力が強い人間は、怯えて逃げたりしないしね。それに花札も強かった」

「へぇぇ」

「まぁそれはさておき、念のため、今のうちに言っておくけど、露帆ね、あいつにはうかつに近寄っちゃダメだよ、ナツちゃん。なるべく変なのに目をつけられないように、ナツちゃんがこっちに来ている間は、ヒトの匂いを消しておいたんだけどなぁ。見つかっちゃったからもうこれは仕方ないね」

「え、やばいひとなの? 私、次に見つかったら食べられちゃう?」

「ううん、言ったじゃないさ。ヒトの肉は不味いから、好き好んで食べたがるやつはいないよ。それに、ヒトは妖怪とは正反対の性質の霊力持ってるから、うっかり体内に取り込むと具合が悪くなるんだよねぇ。喰われちゃう心配はしなくて大丈夫だと思うよ。ただね、あいつはそれ以上に面倒なやつなんだよ。露帆はね、変態だから」

「妖怪にも変態っているんだ」

「そうなの。あいつは、死体好きなんだよ」

「ふぇっ」

 思わず変な声出た。急にホラー味のある話が出てきたぞ。

「死体をお屋敷に集めて、ガラスケースに入れて飾っておくのが大好きなんだよ。もうだいぶ昔の話だけど、あいつは、ヒト…、というか、人間の娘と恋しあってた。でも、人間って、びっくりするぐらいすぐ死んじゃうじゃない。妖怪は数百年くらい余裕で生きてるけど、人間はせいぜい数十年でしょ。外見に関しては、数年くらいで変わっちゃったりするじゃないのさ。

 あいつだって馬鹿じゃないんだから、そのくらいはわかってたよ。承知の上で、それでも、その女の子のことが本当に愛しかったんだ」

 ここまで話聞いてる限りだと、良い話に聞こえるんだけどなぁ。でも、この手の物語って、あまり幸せな結末にはならないんだよね。

「ずっと一緒にはいられないって、そんなことは最初からわかってただろうにね。こちら側に出入りしていることを、家族に知られたらしくて、妖怪と会うことなんてできなくなるように、その娘の身内が彼女を引き離そうとしたんだって。そんなときに、彼女は露帆に言ったんだ。『私を殺してください』なんて。泣きながら。彼女も、こちら側に来たかったんだろうね。人間の世界じゃなくて、露帆と一緒に暮らせる、こちら側にさ。でもできなかったんだよ、露帆は。どうすれば彼女を幸せにしてあげえられるのか、わからなかった。人間と自分たちはやっぱり違うモノだって、ちゃんとわかってたからね。結局、殺すことなんてできなかったし。向こうの世界に……普通の人間の暮らしに戻った彼女は、やがて露帆のことも記憶から忘れて、人間として寿命を全うしたんだってさ。ようやく露帆が、愛しい彼女と再会できたのは……いつだったと思う?」


 花紺が私の目を見て訊いてくるけど、私は何も返事ができなかった。ただただ、花紺が話す、次の言葉を待っていた。

「彼女が墓に葬られて数年経って……生きていたころの肉体もすっかり剥がれ落ちて、綺麗な白骨になった頃。露帆は、墓から彼女の骨を盗み出して連れて帰ったんだってさ。その頃から、あいつの魂は壊れちまってるんだよね。もうどうしようもないくらいに。もっと早く迎えにいけばよかった、って。あの時、一緒にいたいと彼女が願ってくれたのに、どうして自分はそうしなかったんだろうって。人間の命なんて、あまりにも脆いし、朽ちた姿は醜くて、目を背けたくなる。あの時の美しい彼女の姿のままで、ずっと留めておけたなら、きっと、露帆も彼女も幸せだったのに。とはいえ彼女は、人間の世界に戻ってから普通に暮らしていたんだから、もしかしたら幸せだったのかもしれないけど」

 ふぅ、と短い溜息をついて、花紺はぺろりと唇を舐めてから、笑う。

「まぁ、僕にはわかんない話だけどねぇ。僕は自分が大好きだから、自分以外の誰かに心を砕くなんて、想像できない話だからさぁ。あ、僕もお煎餅食べよっと。お茶もいるかいナツちゃん」

「そっかぁぁ……。あのね、本で読んだことがあるよ。そういうのね、ヒトの世界では、ネクロフィリアって呼ぶんだよ。死体愛好家。おとぎ話にもそういう話があるよ。毒林檎を食べて死んでしまったお姫様に、王子様がキスしたらお姫様は目を覚ますんだよ」

「でも、人間は死んだら生き返ったりしないでしょう。死んで九日のうちならまだ魂とつながってるからわからなくもないけど」

「そうなんだ」

「ともかくねぇ、ナツちゃんは僕が見つけた大事なオモチャだから、うかつに危ない目に合わせないように気を付けておくけどさ」

「オモチャって言った? ねぇ、ひとをオモチャって言わないでくださいチャラ狐」

「ナツちゃんも、うっかり一人で僕の目の届かないところを歩き回らないように気を付けてね。……ああ、そういえば、ナツちゃんはこの話読んだことあるっけ。はい、これだ。この本」

 霧岬倶有の小説に、こんな作品がある。

『屍体賛美』。

 自殺願望の男が樹海に迷い込むと、そこで美女の死体を発見する。

死してから相当な時間が経っているであろうことは、死体に絡みつく蔓から見てわかるのに、死体は腐敗することはなく、蝋人形のように静かに横わたっている。

 じっとその美女の死体を眺めて過ごしていると、死体から様々な種類の花が咲き乱れ、美しい蝶が飛ぶ光景を目の当たりにする。

やがて男は長い夢から目が覚めたような心地で立ち上がり、こう悟ったのだ。

「あゝ、この世の生き物といふものは、みんな、死ぬために生きてゐるのだろう、俺の手を這う蟻も、屍体にたかるあの煩い蠅も、空を優雅に飛ぶ小鳥も、みんな、生きながらにして死んでいるのだ。万歳! 万歳! 生きるということは、未完成な芸術品なのだよ! あゝ、なんと美しい、生きることも死ぬことも、腐って土に還ることで大成する、なんと脆くて美しい作品だ」

 男は眼を歓喜に輝かせ、ひとしきり声高に叫んだのち、高らかに笑いながら全力でがむしゃらに樹海を走り続けた。どこを走り抜けたのか全く覚えていないが、男は樹海を走り抜け、元住んでいた街までたどり着いた。

 死ぬことばかり考えていた男は、うって変わってよく笑うようになり、陽気になった。愚鈍で何の才能もなかった木偶の坊だったのに、まるで賢い博士か偉い王様のように堂々と振る舞うようになった。

しかし、彼はことあるごとに、人や生き物を見かけてはうっとりと声高に叫んでいる。「あゝ、屍体が動いている、なんと美しい、生きた屍体なんだ」と。

街の人々は、気味悪がって誰も彼と話したがらなかった。仕方ないさ。彼は屍体としか話そうとしないのだ。


「どう、読み終わった? 傑作だよねぇ」

「いや、正直気持ち悪いんだけど。あー…、読むんじゃなかった。こんなのばっかりせっせと書いてるから、近代文学作家って自殺ばっかりしてるんじゃないの? こんなの読んだら精神病んじゃうわよ」

「ふふふふ、僕は人間のそういうところが好きなんだけどねぇ」

 純文学がちょっと苦手な理由はこのあたりなんだよね。明らかに、ちょっと作者、精神大丈夫か? って思っちゃうようなものがあるよね。

 太宰治なんて「人間失格」だし芥川龍之介の「地獄変」も狂った絵描きの話だし。きっとあの時代の小説家には、常人には見えない別の世界が見えちゃってるに違いない。

 でも梶井基次郎の「檸檬」は個人的には好き。「絵の具のチューブから絞り出して固めたような」っていう檸檬の描写の一文が大好きだ。絵の具のチューブを絞り出して実践したくなる。

「さてさて、ナツちゃん、楽しい読書の時間が終わったところで、作戦会議をしよう」

「作戦会議?」

「はいこれ、なーんだ」

 花紺がぴらりと見せたのは、蝋印を押された一通の手紙。

「実はね、露帆から晩餐会の招待状が届いたよ」

「え」

「残念ながら、露帆はかなり花札が強いんだよねぇ……。手痛くやられちゃって突き返せなかったんだ」

「妖怪同士でも花札やるんだね」

「そー。争ってどちらかを噛み殺すよりは平和的だしね」

 不穏なこと言ってるなぁ。

「で、お招きをいただいちゃったよ。ナツちゃん、君も同伴でってことで」

「なるほど……」

「あいつ、何もしないよって言ってるけど、正直何をしでかすつもりか怖いんだよねぇ。なんせあいつは死体愛好家だから」

 背筋にぞくりと寒いものが走る。

 生きているモノには興味はないのでね。美しい『屍』は売ってはいないのか。金魚屋で話していた時の、露帆の声が耳に残っている。低くて静かな声だ。セリフの一つを謳いあげている舞台役者みたいな、思わず聞きほれてしまいそうな声。そして作り物の蝋人形のように整った美貌。

「この花札を渡しておくからね、ナツちゃん。万が一、僕の目が届かないところで、露帆から何かされそうになったら」

「ちょ、ちょっと待った。何かされそうになったらって、たとえば何」

「たとえば? そうだね、君を殺して死体にして、自分の屋敷に飾っておこうとしたりとか」

「ごめん聞くんじゃなかった」

「だよねぇ、言わなくてもわかるよねぇ、僕が心配している事態の一つや二つくらい、想像力豊かな君なら予想できるでしょ」

「こんな想像力ほしくなかった。宝島に行った主人公のその後とか、そんなことばかりあれこれ空想できる想像力がよかった」

「まぁ、嘘嘘。冗談だよ。もし何かあっても、ちゃんと守ってあげる。僕の暇つぶしに付き合ってくれる、大事なお友達だもの。ナツちゃんは」

「大事なお友達ねぇ。花紺は、何年くらい生きてるの? 三百年くらい?」

「さぁ。どうだろうねぇ。でもね、僕とお友達になってくれたヒトは、倶有と君だけだったよ」

 飄々とした口調でさらりとそう言って、花紺は、古びた本をぱらぱらとめくる。まるで蝉のヌケガラのようにぼろぼろのページが、乾いた音を立てる。触ると今にも敗れそうなくらい、茶色く色褪せた紙の束だ。

「花紺」

「なぁに」

「花紺は、ヒトを、人間の女性を、好きになったことはある?」

 私が訊ねると、花紺は大きく目を見開いた顔で、瞬きを何度も繰り返して私を見ていた。

「なんで、そういうこと聞きたいの? 何か面白い話を期待するなら、 残念ながら君の期待に応えられるような話は何も出てこないよ」

茶化すようにそう言って、ぺろりとおどけて舌を出す。

 私の頭の中には、最初に書斎に入って、花紺の姿に気づいたときの、あの時の光景が忘れられないのだ。

「ナツちゃんが心配するようなことは何もないよ」

 花紺は、まるで小さい子をあやすみたいに、私の頭を撫でた。





 空が夕闇の色に染まり始める。

 やっぱり私、こちらの世界に来ない方がよかったのかもしれない。全くそう思ってないと言うと嘘になる。

 だけど、もし、小説家の「霧岬倶有」が、普通の人の目には見えない異界を見て、文章を紡いでいたのだとしたら、それがどんな世界か一度見てみたかったんだ。

「よし……、行くぞ」

 私は、自分の手の中にある「招待状」を握りしめて、小さな声で呟いていた。自分を奮い立たせるための独り言だ。

 正直に言おう。ヒトの死体をコレクションするのが好きな妖怪に、名指しで呼び出されて、冷静になるとかなり、身震いするくらい、怖い。ここでもし私の身に何か起こったら、いつもこちら側と出入りしている書斎には帰ってこれず、私は行方不明扱いになって、家族が捜索願いを出して、近隣の山や沼や畦道なんかを探し回られて、学校ではひそかに神隠しの都市伝説がささやかれたりするかもしれない。そんなの漫画みたいな話だけど、実際に自分の身に起こるかもしれないと考えるとちょっと何もなかったことにしておうち帰っておとなしくすやすや眠ってしまいたくなる。

 でもそういうわけにはいかない。

 踏み込んだ物語の世界をこの目で見てみたい。

 霧岬倶有と呼ばれた小説家が、どんな世界を見てきて、何を感じて、言葉に替えて書き残そうとしたのか、それを覗いてみたい。

「可愛いお嬢さん、ふふ、そんなに警戒しなくても、何もしないよ」

 露帆は、私にこう言ってきた。「もし、一人で来てくれたのなら、霧岬倶有と、花紺の、君の知らない秘密を教えよう」と。

「本音を言うと、来てくれないんじゃないかと思ったよ。花紺が私のことをあれこれ君に悪く言いふらして吹き込んだだろうと思っていたからね。でも、ヒトというのは時に好奇心が警戒心や恐怖心を上回る生き物だからね。ふふ、そういう自分の心に正直なところ、嫌いじゃないよ。ああ、そう固まらないで、くつろいで座っていてくれ、ナツ殿。何もしないというのは本当だよ。妖怪というのは、悪戯は好んでも、他者を騙したり嘘をついたりということは忌み嫌うからね」

「どうしても気になることがあって、ここに来たの」

「いいとも。私に教えられることがあれば何でも答えよう。こうして私の暇つぶしに付き合ってくれているお礼にね」

「花紺が……、百年以上待ち続けているものって、何」

 百年はとっくに経っているのに。書斎で見かけたときに、花紺が苦し気に独り言で漏らしていた言葉が、ずっと気になっていた。

「ナツ殿、君は、霧岬倶有と花紺が親しい友人だったと、そういう話は聞いているかな」

「うん。それで、花紺はあの書斎とこっちの世界とを行ったり来たりして、霧岬倶有の持ってる書物を面白がってずっと読んでたって」

「あいつはね、ヒトと近くで過ごすと、近寄られたヒトの残りの寿命はどんどん削られて早死にするという、そういう類の妖狐なんだよ。そうして吸い取った寿命で生きている化物だ」

 だけど、霧岬倶有は、ヒトでありながらとんでもないやつだった。花札勝負をして、勝ち負かした相手の妖怪の力を逆に吸い取って、手持ちの札の中に閉じ込めてしまったのだ。

「ヒトの語るつくり話って面白いよねぇ。どうして人間というものは、こういう嘘の物語を作るのがうまいんだろうね」

「誰かにとっては嘘の物語でも、それを書いた人や、あるいはそれを読んで物語の世界を受け取った人にとっては、嘘ではなくて本当の物語になるからだと思うよ」

 霧岬倶有が、人喰いの化け狐に教えたのは、ヒトと同じ感情を持つことだった。

 もしも、寂しいという感情を知らなければ、数百年生きることも何の苦痛も空しさもなかっただろうに。

「妖怪はね、誰かを恋い慕って他の者と寄り添ったりはしないんだよ。ヒトだけだよ。ある誰かが隣にいないと、こんなに苦しいとかそんな感情を思うのは」


「いい加減にしろよ露帆、貴様の独りよがりな執着に、これ以上他所者を巻き込むなよ」


 鬼火のようなものが浮かんで、線香花火のように弾けたかと思うと、そこには花紺の姿があった。

 見慣れた感じの、呑気で飄々とした雰囲気は消え失せて、まなじりが釣り上がった両目は、銀色の炎のようだ。茶化すような口調もがらりと一変して、地に響く低い声は、骨にまで響く心地がした。

「何をそんなに怒っているんだね、古狐。この小娘はお前の所有物というわけでもないだろう」

「それでも、貴様に興味本位に手を出されて良い気分はしないんでな。変な気を起こす前に返してもらう」

「やれやれ。花紺、お前というやつは、昔はもっと気まぐれで冷血で面白い妖怪だったというのに、あの霧岬倶有と名乗る物書きと出会ってから、ずいぶんと軟弱になってしまったものだ。人間くさくなった」

「代わりに暇つぶしもいろいろ教えてもらったよあいつには」

「暇、なんてものを知ってしまったから弱くなったんだろうよ。余計なことばかり考えているから、お前は妖怪としての本性を徐々に忘れていっている。嘆かわしいじゃないか」

 数秒ほどの沈黙の後、花紺は不意に私の手を掴んだ。「帰ろう」と。短くそれだけ言って。

 目には見えなくても、花紺の全身から、重々しい怒りのオーラが立ち上っているのを肌で感じて、私はただ何も言わず頷くしかない。

「そうそう、これ、返しておくよ。今まですっかり忘れていた。花紺、お前がずっと探していたのはこれだろう」

 と、露帆が和綴じの冊子のようなものを手渡していた。

「霧岬の、書きかけの小説の草稿」

「なんでそんなものをお前が持ってるんだよ」

「いいじゃないか。面白かったんだから。その続きをずっと探しているお前を見ているのも、なかなか面白かったよ」

 くすくすと、わざとらしいような声をあげて、露帆は笑っている。花紺の反応を見て楽しんでいる様子に見えた。

「失くしたくないものなら、目を離さないようにしないとだめだよ、狐。私だって、愛する人はどんなに姿が変わっても手元に置きたくなるものだ。たとえ抜け殻になっていてもね」

「お前と一緒にしないでくれ、骸骨野郎。いいからナツちゃん、こっちにおいで。帰ろう」

 強引に強く私の手を引っ張って、露帆のお屋敷を後にする。

 ぽつり、ぽつりと闇夜に浮かぶ灯りが揺らめいて見えた。灯篭ではなく、鬼火かもしれない。それとも、人魂かも。

「なんで一人であいつについていったの」

「ごめん、いろいろ気になることがあってつい……」

「やっぱり、君をこちら側に連れてきたのは、僕の間違いだった。もういいよ。もう二度と来させないから。早く帰りな」

 花紺は冷めた目をしてそう言い捨てた。

 別人のように素っ気ない態度だった。

「なんで、そんなに怒ってるの? 一人で勝手に出歩いたことが許せないなら、もう絶対にこんなことしないから。何も言わずにどこかへ行ったりしないから。そんなこと言わないでよ、ねぇ、花紺」

「怒ってるんじゃないよ。ただ、僕は」

 何か言いかけて、不自然に言葉を止める。

花紺を説得しなければ、ここで突き放されてしまったら、私は二度とこちら側に来て花紺に会えなくなってしまうかもしれない。それが怖くて、一生懸命、言い訳の言葉を考えていた。

 言い訳?

 ううん、そうじゃない。そもそも私は、なんで花紺がこんなに不機嫌になっているのか把握できてない。

 花紺が怒ってるんじゃないんだとしたら。

「花紺は、私のこと心配してくれたの?」

 釣り上がった二つの眼が、じろりと私を睨み付ける。

 今にも噛みつきそうな獣のような迫力がある。でも落ち着いてよくよく見ていると、花紺の素振りは、我儘が通らなくて駄々を捏ねている子供と似ている。

「私、おじいちゃんが霧岬倶有の話をするたびに、きっと、小説家だったあの人は、普通の人には遭遇できないような不思議な何かを見聞きしてたんだろうって、そう信じていたのよ。そう思うたびに、私もそうなりたいって興奮して震えそうになってたし、花紺を見た時も、多分、びっくりしたけどその反面、ああやっぱりね、って心の中で思ってた。好奇心って言ったらそうなのかもしれないけど、私ね、私にしか見えないものを、今ここで見ておかなきゃいけないような気がしたの」

「そういうところが、本当、馬鹿だよねぇ」

 吐き捨てるように、ため息交じりに呟く。なぜか花紺は、ぐったりと疲れたように手で顔を覆ってしまった。

「もう、いいや、わかったよ。意地悪な言い方した僕が悪かった。ナツちゃんは僕が思ってるよりずっとしたたかで賢くて肝の据わってる子だよ。あの露帆とも対等に話してけろりとした顔で帰ってくるくらいだものな。僕がそんなに気を揉んで心配することはなかったってことか……。ああもう、本当に、僕としたことが」

「ちょ、ちょっと、花紺、何をそんなに疲れ果ててるの、なんだか変だよ花紺、ねぇ、大丈夫、どこか具合が悪いんじゃないの」

「そうじゃないんだよ。ああ。確かに少し力が抜けちゃったのは本当だけど……」

 よろける花紺が、今にも倒れてしまいそうに見えたから、私はうろたえながら彼の袖にすがりついてた。

「少し休みたいし、またちょっと寄り道していこうかぁ。何か食べていこうよ」

 うなだれていた花紺が顔を上げたとき、弱弱しくも、へらりと笑ってくれたので……今度は、私の方が、安心したあまりに足の力が全部抜けてしまいそうになった。

 夜風が肌に生温かい。




「実を言うとねぇ、僕は、ヒトを死なせてしまうのが怖いんだよ。こんなこと、他の妖怪仲間に話したって誰も信じないだろうけど。露帆だけが、僕の本性を知ってて、こうしてからかってきたり罠をしかけてきたりするんだ。まったく忌々しい。自分と同じくらいの強さの相手に弱みを握られてしまうことほど、厄介で不愉快なことはないね」

 出店が並んでいる通りにやってきた。最初に私がこちら側に連れてこられたときに通った場所だ。

 花紺は甘酒を二つ買った。私に一つ、自分も一つ手に取って、店から離れた場所まで来て、ようやく、ぽつりぽつりと話し出す。

「僕は本来なら、ヒトより獣に近い性分だったんだけどね。どうやら僕は、霧岬倶有に出会ってから、すっかり人間に近くなってしまった。笑っちゃうよこんなの。あいつと出会って、愉しいこと愉快なことも沢山知ったけど、僕はすっかり弱くなってしまった。ヒトや獣を気まぐれに食い殺して、骨を噛み砕く感触を愉しんで過ごしていた時代の方が、よっぽど楽だったかもしれない」

 暗闇の中には、ぽつりぽつりと灯篭や提灯の明かりが浮かんでいる。生温かい夜風が、静かな笑い声のように、首元を掠めて通り過ぎていく。

 花紺は茶色い竹筒の器から甘酒をすすり、唇についた滴をぺろりと舐めとる。その時にちらりと口の中に尖った八重歯が見えた。

「僕がこういう話しても怖くないの?」

「別に、そんなふうに、へらへらとゆるく笑った顔で語られてもさぁ」

 濃く白く濁った甘酒を、のろのろと口元に運んで喉へと流し込む。ざらりとした舌触りが広がって、溶け切れていない米粒がころころと喉に引っかかる。むせる。

「つまらない昔話だけど、もう少し、ナツちゃんに聞かせてあげよう。まだ倶有と出会ったばかりの頃で、百年くらい前だったなぁ」

 その頃、まだ小説家としてろくに売れてもいない書生だった桐生有吉には、ひそかに思いを寄せる女性がいた。だけど、裕福な家柄のお嬢さんで、いわゆる身分違いの恋だったんだそうな。

 ところがある時、たまたま、その女性が手に取った絵草子に、妖怪が棲みついていた。それは、ヒトに取りつく類の妖怪だった。

「結局、その人を取り戻して、めでたく一緒になったんだよね」

 ヒトって面白い生き物だよねぇ。恋慕すると、その他のものは何も見えなくなるくらい夢中になるんだもの。

「僕が、倶有を茶化すと、あいつさぁ、したり顔して言うんだよね。『君も、百年くらい待ってみなよ。そういう女性に出会えるかもしれないよ』って。まぁ、百年待ってみたわけだけど、今のところ残念ながらそういう誰かには会えていないね」

 ころりと、空になった甘酒の器を地面に転がす。

「倶有の書く小説や、書斎の本が面白くてね、あれこれ読みすぎてしまったかなぁ。僕はすっかりヒトに感化されて人間くさくなってしまったし、退屈が怖くなったし、独りで過ごす時間が、誰かと過ごす時間よりも数倍は長く感じるようになってしまった。面白いなぁと思って眺めてみても、ヒトは、すぐ死んでしまうから脆い。本は、火事でも起きない限り、勝手にいなくなったり手元から消えたりしないけど、ヒトは全く思いもがけない頃合いでいなくなってしまうから、本当にタチが悪い」

 地面を一歩踏むと、砂利が乾いた音を立てた。

 そろそろ帰ろうか、と花紺は言った。

「面白がってあちこち連れまわして悪かったよ。ナツちゃん。また今度、書斎で会おうね。お気に入りの本があったら、そっと置いといてよ。誰もいないときに読みに来るからさぁ」

「私、もうこちら側に来ちゃ、いけないの……?」

「僕以外の妖怪に眼をつけられて、玩具にされちゃったら大変だからね」

 




 夏休みが終わった。

 私の手元には、不揃いな花札が残っている。

 あれから、書斎に行っても花紺は現れない。机の下にもぐっても、別の世界にたどり着いたりしない。花紺がどうやら入り口を閉じてしまったようだ。

「別に、ほんのちょっと会うくらい、許してくれたらいいのに……」

 どうしようもなく、心にぽっかりと穴があいた気分だった。

 庭に、赤い彼岸花が咲いていた。

 ふと、小説の中では、女の死体から花が咲いて蝶が舞ったという、あの描写を思い出していた。




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