第一夜【黒猫・幽霊・主人公】
夜。それは、私の時間。
さあ、今日も出掛けよう。
私の家がある八夜丁は市街地や住宅地から離れた所にある。
夜になれば明かりは五十メートル置きに並んだ古い街灯だけ。
隣の家までは一キロ以上歩かないとたどり着けないし、
家の周りを囲むのは田畑と山。
つまりここは、田舎なのだ。
夜歩くには少し不便だけれど、それはそれで楽しい。
なによりも人と会わないのが、楽でいい。
明かりが少ない分、空は街中よりずっと明るい。
だから私は家を出ると、暫く空を仰いで歩く。
月は穏やかに輝き、星々はチラチラと瞬いている。
ここは私の世界。誰にも侵されない私の聖域だ。
気分が高揚してくるのを感じる。
その時、ガサッと茂みが動く音がして、
咄嗟に音が聞こえた方へ顔を向けた。
風じゃない。明らかに、何かが動いたのだ。
体にピリピリとした緊張が走る。
いつでも逃げられるように、じりじりと体勢を整えつつ、
私はじっと動いた茂みを凝視した。
ガサガサと茂みが揺れる。
もう気のせいではありえない。
一際大きく茂みが揺れて、茂みから黒い何かが飛び出してきた。
ビクンッと体が反応する。
「にゃー」
猫だった。姿が見えづらいのは黒猫だからだろう。
タヒタヒと黒猫が近づいてくる。
「にゃ」
足元まで来ると、私を見上げて一声鳴いた。
「ああ、なんだ。クロさんか」
昔からこの辺りを根城にしている黒猫だ。
私はクロさんと呼んでいる。まんまだ。
「今日は良い月夜ですね。散歩には最適です」
「にゃ~ん」
クロさんも『そうだね』と、言っているように感じる。
「クロさんはどちらへお出かけですか?」
「うにゃ~」
『猫の夜会に行くところよ』と、言っているように感じる。
「そうでしたか。では、また今度」
「にゃー」
私がそういうと、クロさんは一声鳴いて歩き去った。
クロさんの歩く姿は相変わらず優雅で気品があって、
見ているとうっとりしてしまう。
私はクロさんの姿が見えなくなるまで、
その背中を見つめていた。
――――――――――――
背筋を冷たいものが走る。
歩く道の先には、お墓が並んでいた。
丁寧に手入れされた墓石もあれば、
苔と蔦に巻き付かれ、風化した墓石もある。
ここはどちらかと言えば後者のほうが多いかもしれない。
夜の墓場と無縁仏の組み合わせは、かなりのホラーだ。
寒い季節でもないのに、肌寒さを感じる。
戻りたいと本能が告げている。
でも、あえて進む。
冒険心無き夜歩きに、真の面白さは無いのだ。
お墓の一つ一つを眺めながら歩く。
過去に生きた人が最後に残す作品、それがお墓だ。
そう思って見てみると、恐れとは違うものが見えてくる気がする。
金色が文字に使われた派手なお墓や、変わった形の墓石。
それだけじゃない。
綺麗に手入れされたお墓は、
当人がいなくなった後も続く繋がりを作り上げた人。
墓石は新しいのにあまり人の訪れを感じないお墓は、
繋がりが途絶えたか、作れなかった人だろう。
産まれてから最後までまで築き上げてきたものが、
結果として墓石に現れている。
全てが全てそうじゃないんだろうし、
想像とまったく違う理由かもしれない。
でも今の私には関係のない事だし、
墓の下の相手にも私の考えは関係の及ばない事だ。
という考えで頭を埋め尽くし、
なんとか肌寒さの原因を考えないようにする。
考えないようにするって考えが、
もう考えないようにできてない証拠なのだけど。
そんな私の目が一つのお墓で止まった。
たぶん、お墓だろう。
風化してもう、原型すら留めていない。
そんなお墓の上で、紅いヒガンバナが一輪咲いていた。
血のような紅色だ。
「――紅色は命の色よ。羨ましいわ」
どこか遠い薄ぼんやりとした声が、ヒガンバナの上から聞こえた。
ハッとして顔を上げると、そこには白い靄が浮いていた。
「そう、私よ」
今度は少しはっきりと聞こえた。
声の主はこの白い靄……なんだろうな。
「アナタは誰ですか?」
白い靄に聞くと、
「知っているはずよ」
という答えが返ってきた。
まあ、十中八九この風化したお墓の主なんだろうけど。
「名前が分かりません」
掠れてるどころじゃない、もはや原型すらないのだから。
「私も忘れたわ。
もう随分、呼ばれることもなかったし」
その声は心なしか、悲しげだった。
「なら、私が名前を付けましょう。
呼び方が無いと不便でしょう? これから」
「あら、お仲間になってくれるの?」
ゾワリと怖気が走る。
殺意にも似た歓迎の感情。
「生憎とまだ、死ぬ予定はありません。
けどたまに、話し相手になるくらいならできますよ」
白い靄が私の体に近づいて、
抱きしめるように私を包んだ。
「ありがとう」
耳元で囁くような声が聞こえた。
一瞬、白い靄が形を成す。
瞬きほどの瞬間、
それは憂いを帯びた綺麗な女性の姿に見えた。
しかし、その姿は彼女が私の体から離れると、
すぐ元の白い靄に戻ってしまった。
「さて。アナタは私にどんな名前をくれるのかしら?」
「じゃあ、ヒガンさんで」
ぱっと見、私が名前を言うと彼女は、
ちょっと無言で考え込み。
「……それ、花の名前から?」
と、聞いてきた。
「はい」
「…………」
あれ、なんだろう。
無言なのに、ちょっと怒ってるような気配が。
「この花、毒草だって知ってる?」
「そうですね。
だから、野生の獣に土を荒らされないよう、
墓に植えられているとか」
「それは、
アナタの口にこれをねじ込めって事かしら?」
すごく、怒ってる。
「彼岸花、嫌いなんですか?
こんなに綺麗なのに」
「嫌いでは無いけど、好きでも無いわ。
なんか色合いも毒々しいし、
語感もなんだか固いわ」
まあ、確かに。
そう言われて見てみれば、毒々しい外見にも見える。
語感が固いとは思わないけど、濁点の影響かな?
「大体、この花は勝手にここに咲いてるんであって、
私とは何の関係もないわ」
関係が無いってことは、無いと思うけど。
まあ、本人が嫌っていうのなら、やめとこう。
「うーん。それなら、フウカさんで」
「フウカ、フウカ……風化?
それって、お墓の事じゃないでしょうね」
あれ、また怒りが見える。
見えない靄に怒りが見えるとはこれ如何に。
語感はいいと思うんだけどな。
「ええと、そうそう。風香ると書いて風香ですよ」
これ以上考えるのも面倒くさいので、
なんとかこれで済ませたい。
「風香る? ふーん、それならまあいいかな~」
今度は少し嬉しそう。
気に入ってくれたのなら、良かった。
「じゃあ、フウカさんで。
気が向いたら来るので、またよろしくお願いします」
「そうね。気が向いたらなんて気にせず、
バンバン来てね」
随分嬉しそうだ。喜んでくれたなら幸い。
「それでは、さようなら。フウカさん」
そう言って私は、フウカさんに背を向けた。
「ばいばい。――あ、ちょっと待って」
立ち去ろうとする私を、フウカさんが呼び止めた。
「なんですか?」
「アナタはなんて、名前なの?」
そうそう、フウカさんの名前を考えるのに夢中で、
名乗るのを忘れていた。
「私の事は、ルイと呼んでください」
「分かったわ、また今度ね。ルイ」
今度こそ本当に、私はお墓から立ち去った。
――――――――――――
何とはなしに山頂を目指していたのだけれど。
墓場で時間を取りすぎたようだ。
そろそろ日が昇る。
山頂へはまた今度行くことになりそうだ。
山の中腹から東の空を見ると、
丁度太陽の先が、顔をのぞかせた。
私の時間は、ここでお終い。
突き刺すような太陽の光が、私の意識を真白で塗りつぶしていく。
まあ、新しい友達もできたし、良しとしよう。
では、また次の夜に。