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Unter der Haut, Auf der Haut  作者: えむ
第二章
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 羽虫のような音を立てながら、湯が足された。全身を伸ばして仰向きに浴槽に凭れる。顔だけが丁度水面から出る仕組みになっているのだ。

 手を伸ばして窓を開ける。外気が湿気を払ってくれるのを期待して、腕を伸ばして窓を開けた。最近の私は、過去ばかりを思い出している。

 モニターの映像がIDSR-25PE-6598-7786-Iの捕らえる現在のものから、過去にIDSR-25PE-6598-8571-Gが撮影したものへと切り替わった。

 私の思考が昔に向けられるようになった切っ掛けは、このIDSR-25PE-6598-8571-Gが撮った、去年の十月十七日の出来事だ。

 その日も私は、結晶化現象観測システムIDSR-25PE-6598の端末たちが撮影した映像たちをザッピングしていた。当時はまだ私は自由にIDSR-25PE-6598を使うことが出来ず、上級研究員たちの合間を縫っては、その使用権をもぎ取っていたのだった。

 限られた時間の中では、過去の映像と現在のものを付き合わせたり、各地の差を探ったりなどする暇はなかった。それらは他の研究員の仕事であった。私に見ることが出来たのは、ただ現在の映像だけだ。

 だから、それは一種の奇跡だったのだろう。数多の端末たちのもたらす映像を適当に見飛ばす私に、IDSR-25PE-6598-8571-Gの映像が気になったのは。

 撮影されていたのは、どこかのアパートだった。古い外観を保つその建物は、過去の遺産に他ならない。まだこんなものがあったのか、と私は驚いた。

 その姿は私に両親の生き様を連想させた。過去を愛するのは良い。そこに囚われるのも個人の勝手だ。けれど、他人までをも巻き込むのは、決して誉められることではない。

 IDSR-25PE-6598-8571-Gはアパートから離れて行った。大通りへと向かってゆっくりと移動する。映し出されるのはごく普通の住宅街であり、結晶化した人間たちであった。新しい情報は得られそうにない、と思った。

 IDSR-25PE-6598-8571-Gから他の端末の映像へと表示を切り替えようとした瞬間に、けれども私は見たのだ。懐かしい人の姿を。弟だ。

 彼はすっかりやつれてしまっていた。実験研究科に進学したことは知っていたが、私が実家を出て以来、連絡を差し控えていたのだ。当然、彼の現在の姿をも知らなかった。

 それでも分かった。それが私が愛する弟なのだと。

 彼は結晶化した人間を一人一人睨むように見つめては、歩いていた。その顔は、頬や顎の骨の形がはっきりと分かるほどに痩せている。けれども彼は、確かに生きていた。

 私は狂喜した。弟は結晶化現象から取り残されたのだ!

 ずっとどこかで信じていた。彼が生きていると。彼はいつだって他人とは「違う」存在だったのだから。そう思っていたくせ、事実を知るのが怖くて、実際に調べることは避けていた。

 私は震えた。自分の希望が叶っていた喜びを、思い出して。そして、現在の浴室の温度の低下に。私の暮らす地には、秋が訪れていた。再度熱いお湯が足される。

 一度過去の方角に向けられてしまった意識は、新たな記憶を連れてきた。秋。残暑の中、鳴くのは鈴虫たち。今はもうどこにもいない虫だ。

 毎年何かの決まりでもあるかのように、鈴虫たちは実家の庭に現れた。彼らは夜になると、羽を振るわせて小うるさく鳴くのだ。

 その様をじっと見つめていたのは、弟だった。私は、そんな無益な煩いだけの虫を観察する彼のことを見ていた。

 弟は手にしていた輪切りの茄子を、彼らの前に置いた。何匹かが寄ってくる。茄子の上で、羽を細かく振るわせて音を出した。再度手を伸ばした彼が手に入れたのは、その中の一匹。

 必死に足掻く小さな命をじっくりと眺めた後に、彼はその羽を指で挟む。嫌な予感に駆られた私が叫んでいた。「やめて」、と。「まさか羽を抜くつもり?」

 弟はあっさりと頷いた。「どうして」との私の問いに、答える。

「だってこの虫が出す音と、羽の振動との関係を知りたいんだ」

 私は溜め息まじりに弟を説得した。そんなことを調べるために、鈴虫そのものを虐待する必要はないでしょう。模型でもシミュレーションでも、手段はいくらでもあるじゃない。

 けれど弟は納得しなかった。

「僕は本物が見たいんだ。人が作った紛い物なんかではなく」

 なんか。紛い物と彼は言うが、けれどそれは完璧なものなのだ。そんなことは彼だって理解しているだろうに。それでも弟は、自分の目と手と頭で考えることに拘泥していた。

 奇妙な人。私と彼とは大きく違う。私は先人達の産み出した技術に否定的な気持ちを抱いたことはない。だからこそ、私は弟が愛おしい。



 弟の生存を知った十月十七日から、私は結晶化現象観測システムIDSR-25PE-6598を使って、彼を追い始めた。

 最初はIDSR-25PE-6598の端末の内、手持ち無沙汰なもの数台だけを時間制限付きでしか使えなかった。けれどその内に、同じく時間制限付きながらもう少し多くの台数を使えるようになり、遂には二四時間の使用が可能となった。今ではIDSR-25PE-6598の末端たちは、常に数台が弟のことを「探して」いる。

 それなりの実績を有しているとは言え、未だに若くそれほどの経験を積んでいるわけでもない私が、こんなにもIDSR-25PE-6598を長時間自由に使えるのは奇妙なことだ。本来ならば。

 IDSR-25PE-6598との個体識別記号を持つ結晶化現象観測システムは、唯一無二のものだ。

 名前が示す通り、結晶化現象観測システムとは、今や全世界に広がった人体の結晶化現象を観測するためだけに特別な装置とオペレーションシステムを組み込んで作られた衛星のことだ。

 けれどIDSR-25PE-6598は当初、ただの地球上の人間を観察するための機器だったのだ。実際に私は、かつては比較的簡単に使うことが可能だったこのシステムを使い、「人間社会の未来予想」をテーマとする論文で学位を貰っていた。そのおかげで、今回の結晶化現象に関する研究員に選ばれることにもなったのだが。

 IDSR-25PE-6598は面白いシステムであった。このシステムは地球上で活動する数多の末端ロボットを有しており、それらを操って自由に、人間たちを観察させることが出来た。

 だからこそ、IDSR-25PE-6598は無理矢理に結晶化現象観測システムに組み直されたのだった。

 AIを搭載した機器には、何故だか人間の結晶化を理解することが出来ない。それを強引に認識させるために、当初の測定器群に人間の表面輝度を測る機能を追加し、更にその情報から結晶化現象を判定させるためにオペレーションシステムも大きく書き換えられた。

 最初の目的とは異なる機能を強制的に付け加えたせいか、結晶化現象観測システムIDSR-25PE-6598は、他のAIを搭載したオペレーションシステムとは違い、扱いにやや癖があった。あらゆる意味で、特別な存在だ。

 そのような重要なものを私が自由に使えるようになったのは、具体的にいつからだっただろう。それを調べるために、IDSR-25PE-6598から利用者履歴を引き出そうとしたが、すげなく拒否された。理由は「その情報はロックされています」。

 冷たいIDSR-25PE-6598の態度に、私はモニターを指で叩いた。何の意味も無い行為だ。

 それに件の情報へのアクセスが禁止されているのは、結晶化現象から研究員たちを守るためには当然の措置でもあった。実際に守れているかどうかは別として。

 感染防止措置は幾重にもいっそ神経質と形容出来る次元で張り巡らされてはいたが、それでも完全ではなかったようだ。

 どう好意的に考えようとしても、と私は笑った、それは楽しい時の笑いではない、研究員たちがその数を減らしていることは、明白なのだから。

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