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Unter der Haut, Auf der Haut  作者: えむ
第一章
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 浴槽に身を沈めると、湯が私の体積分だけ零れた。私は深い息を吐きながら、湯に顔を付ける。暖かな水が、私をすっぽりと包み込んだ。でも、そこまでだ。

 水は決して私の内部に浸入することが出来ない。私の皮膚が湯を堰き止めているからだ。肉体と外部との境目を、明確に描き出している。

 けれどもそれは、決して「私」という存在の境界線ではない。私が私であるのは、この「私」という意識が存在しているからだ。この肉体を有している、それだけが根拠ではない。

 意識を目測することは不可能だが、それは確かに私の内側から迸り続けている。人間はこのエネルギーを失った時に、死ぬのだ。生とは、動そのものなのだから。

 「私」という意識は、肉体の物理的な境界を超え、周囲に流れ出す。他人の意識も同じだ。

 環境に放出された、それぞれの個人の感情、好み、考え等の情報は、互いに影響を及ぼし合う。ある程度以上に親しい人が何を言いたいか、どう考えているのか、言葉を介在させずとも直感的に「分かった」経験は誰にだってあるだろう。あの現象は、周囲に飛び交う相手の意識を無意識に読み取った結果なのだ。

 技術が発展した現在では、人間に備わっている不安定な感知能力以上の精度を、機械たちが有していた。AIを搭載するオペレーションシステムたちは、自動的に人間の意識を読み取り、わざわざ指示せずとも人間の欲する用件を満たしてくれる。しかも彼らは、絶対に誤らない。

 水面から顔を上げた。解けた髪から水滴が垂れる。煩わしい。

 指でぞんざいに掻き上げれば、そこから飛んだ水がモニターに付着した。だが水滴は一滴に留まらなかった。勝手に後から後から増え続けていく。湯気がその上で冷え、液体へと戻っているのだ。

 私の生活一般を補助する家庭用ロボットLQHJ-69CQ-9762-7379-Dが、鈍い銀色のアームを伸ばしてきた。髪を結び直してくれる。

「液体とは、固体、気体と並ぶ物質の三態の一つに過ぎない」

 私の古い記憶から甦ったのは、私自身の声。どことなく偉そうだ。瞬きに似た間を置いて、目の前のモニターに映像が投影された。

 映し出されるのは幼い私と、弟の姿だ。弟と言っても、ほんの数ヶ月しか生まれに差はないのだけれど。

 映像の中にいる子供の私は、どこか得意そうに指を振っている。どうやら、物質の三態の関係を説明しているらしい。三角形の図が机の上の紙に描かれていた。私の指が、その頂点のそれぞれ示す。

「固体、液体、気体状態において、その体積は大きく変わる」

 言いながら私は机の下に隠していた小さな保冷庫から、ドライアイスを取り出した。温度変化に強い特別の袋の中にその塊を放り込んで、きっちりと密封した。私を見上げる弟の瞳が、輝いていた。

 固体だった二酸化炭素は、室温に耐えきれずに気体と化していく。その変化により、体積が劇的に増加した。くったりと机に倒れ込んでいた袋が大きく大きく膨らみ、最後には弾けた。驚く弟と、笑う私。幸せな光景だ。

 弟が私に再度視線を投げた。唇が動く。

「気体の方が固体よりもずっと体積が大きいんだ! じゃあ液体は気体よりも小さくて、固体よりも大きいのかな」

「正解。普通はね」

 私の思わせぶりな言葉に、弟が大きくその口を開けるのが可笑しい。

「普通じゃないのがあるの?」

 舌っ足らずな声。実に愛おしい弟。

 血の繋がらぬ、ただの他人がこんなに大切だなんて。きっと私は狂っているのだろう。それも幸福な狂人に違いない。

「あるわ」

 にっこりと笑んだ過去の私は、弟の鼻の頭に吹き出した汗を拭った。「水よ」

「水?」

「池に氷が張るのを見たことがあるでしょう。固体が液体よりも体積が小さいならば当然、密度は高くなり、本来なら氷は水の下に沈むはず。だけど、実際は?」

「そっか!」

 弟が飛び上がった。「僕、実験してくる」との声を置き去りにして、走り去る。その背中。

 私は溜め息を吐いた。どうして今さら「実験」なのか分からない。シミュレーションで充分だと思うのに。

 けれど私はそんな弟だからこそ、好きなのだ。この時代に於いて、今でもまだ、己の手で物事を確かめずにはいられない人。きっと、とてもとても生き辛いことだろう。

 それでも彼はずっと変わらなかった。己の生き方を貫いていた。

 モニターの映像が切り替わった。前の画面から数時間後だろう。何故だか弟は、大きくて透明な氷の塊を抱きしめて帰宅していた。私にくれるのだと言う。

 その煌めく固体に、子供の私は目を細めていた。モニターが現在の私にも見せるそれは、とても輝かしい結晶。儚く溶ける、けれども確固たる規則に基づいて形成されたものだ。

 それは美しいけれども、いつだって何度だって再現できる、下らないもの。たった一人しか存在しない彼の方が、ずっと価値があるのに。

 後から後から液化する水蒸気のせいで、画面を認識することが困難になっていた。代わりに私はただ、瞳を閉じた。

 脳内に再生されるのは、思い出と呼ばれるもの。もう何年も前のことなのに、昨日のことのように鮮やかに思い出せる。弟もまた覚えていてくれれば、良いのに。とても残念だ。



 LQHJ-69CQ-9762-7379-Dが再度腕を伸ばして、モニターを拭いていた。水蒸気から生まれた多数の水滴たちが呆気なく消えていく。

 同時にモニターの映像が切り替わった。今度映し出されたのは、結晶化現象観測システムIDSR-25PE-6598の末端、実務を担当するロボットの一つであるIDSR-25PE-6598-7786-Iが現在捉えている映像だ。

 そう言えば、定時に報告代わりに映像を回せと指示していたのだった。最近はあまりに簡単に私ごときの下っ端研究員の指示が通る。本来ならば観測システムはなかなか使用順番が回って来ないほどの人気のはずなのだが。

 その理由を考えるならば、と私は空を見詰めたが直ぐに止めた。そんなことは今となってはもはや、どうでも良いことだ。

 私の前で展開されている映像は、IDSR-25PE-6598の処理を挟んでいるせいでほんの数コンマ秒ほど消費されてはいるが、ほぼリアルタイムと言って差し支えのないものだった。

 軽やかな音を立てながら、モニターが浴室の壁一面に展開されていく。その中で舞うのは、数多の薄紅色の花弁たちであった。かつて私が生まれた国で、最も愛された花。

 この花をつける木は、通常の種子ではなく、人工的な手段によってクローニングされ、増やされたのだと言う。種が必要ではないのならば、どうして花など咲かせなくてはならないのか。それはどこまでも、無駄だ。

 だが私の意識は、それを美しいと感じてしまう。いや、感情がそう評価しているのは花そのものではなく、私の過去の幻影なのだろう。

 庭に咲き誇る、淡い色の花びら。それを見上げていたのは私と、そして弟だ。

 子供の私たちが見上げた木は、とても大きく見えた。今でも変わらず大きいのだろうか。

 想像するだけ無駄なのは分かっていた。私は二度とあの木を見ることもなければ、あの家を訪れることもないのだから。

 今の私は、IDSR-25PE-6598が見せる映像とは遠い場所で引き籠もっているのだ。柔らかな春が訪れる日本とは違い、こちらは今や秋の黄昏の中だ。

 いつだって思い出すのは、子供時代の幸福さだった。あの頃はいつだって隣にいた、弟のこと。

 けれど私は今でも充分に幸せなのだろう。かつて下した自分の決断に、悔いは無い。

 淡い色の花びらを映し出すモニターに優しく触れた。手の形にべったりと水が付く。だがそれも一瞬のこと、重力に引き摺られて、流れ落ちて行く。

 私には、この結晶化現象観測システムIDSR-25PE-6598があるのだから。だからまだ、孤独ではない。

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