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Unter der Haut, Auf der Haut  作者: えむ
第五章
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 俺の視界の端を、羽虫の如き音を立てながら、小さなカメラが飛ぶ。その音は俺に、実家の家庭用ロボットAIBV-07FD-0013が映像を投影する際に発する騒音を思わせる。そのせいか時折、自分が見ている世界が虚構に思えた。

 だが俺の見ている景色は、希望に反して確かに現実であった。この羽虫は映像を俺に見せるためではなく、記録するためのものだ。

 汗が目に入って痛い。俺は漕いでいた自転車を止めた。袖で汗を拭う。

 オート走行機能もアシスト機能すらも付いていない自転車を漕ぐという行為は、想像以上に体力を消費させた。もう何日もこの自転車と付き合っているのに、未だに慣れることが出来ない。

 俺は自転車のサドルを撫でた。これは元々、田中のものだった。昔と変わらぬ機能しか備えぬこの機種は、今となっては骨董品だ。ただ誰も欲しがらないが故に、値は付かないが。

 AIに頼らずに生きるべきだとの「人間中心主義」を掲げていた田中が、いつか俺にくれたのだ。大学の広い構内を移動するのに便利だろう? そう言って笑っていた彼の顔を、俺はもう思い出すことが出来なくなっていた。

 太陽の光はどこまでも明るく、皮膚を刺した。その痛みは、冬が終わったことを告げている。

 俺は田中からのプレゼントを放置していた。アシスト機能もないのに、車輪が二つしか存在しない乗り物がちゃんと走るとは思えなかったのだ。

 それを今更引っ張り出したのは、どうしてなのだろう。単なる暇つぶしだったのかもしれない。

 数多の失敗と怪我を繰り返しながら丸一日練習すれば、自転車はちゃんと俺の意志に従ってくれるようになった。シンプルな乗り物。田中は良い物をくれたのだ。

 彼がまだ動いている間に、その価値に気が付いてやれれば良かったのに。俺が自転車を乗りこなしている姿を見たならば、彼は何と言っただろうか。

 彫像化した田中の姿に逃げ出した日が、遠い昔のように思える。それが僅か半年前に過ぎないなんて、悪い冗談のようだ。

 結局俺はあの日から、いやそれ以前から、何一つ変わってはいないのだ。前進も後進も出来ず、ただただ足踏みをだけを繰り返し、もがき続けている。

 強い風が吹いた。その苛烈さが、ここが都市圏ではないのだと思い知らせる。淡いピンク色の花びらたちが、大量に舞い落ちた。その間からは緑の葉も見える。この地方の今年のサクラは、もう終わりだ。

 数多の花びらたちが、俺の上にも地面の上にも、彫像たちの上にも、分け隔て無く降り注ぐ。

 俺は自転車に再度跨がると、北だと思われる方向に進路を取った。地図情報くらいならば俺の端末でも呼び出すことは可能だが、敢えて知りたいとも思わなかった。

 目的地もなければゴールもないのだ。迷うことや袋小路に入り込むことを、避ける理由もなかった。

 両親が養子を求めて南下したのとは対照的に、俺はただサクラの淡い花だけを追いかけて、北上し続けていた。

 一体何のために旅をしているのか、俺自身にも分からない。ただ居場所がないだけなのかもしれない。「生きている」人間は俺一人でしかなく、数多の彫像とAIしか存在しない都市圏で暮らすのに、限界を感じていたのも確かだった。

 脚の筋力だけを頼りに、坂を上り詰める。頂上から見下ろせば、広く視界が開けた。強風に薄紅色の花びらが顎からもぎ取られ、吹き荒れる。

 その柔らかな色の中で、春の日差しを反射して輝くものが一つあった。彫像だ。人間の皮膚を包み込む透明な固体は、規則正しく分子が整列した結晶であり、その表面もまた数多の規則的な面で構成されていた。

 対称性と規則性を有したものに美を感じるのは当然だと俺に教えたのは、誰だっただろう。自然はそれらを愛するのだから、自然の一部である人間の嗜好が同じになるのは当然だ、とその人物は続けたのだ。宝石の多くも結晶だ。だからこそ古来から人は、宝石に永遠と完全性を感じてきたのだと言っていたように記憶している。

 だが俺は、その説を鵜呑みには出来なかった。坂の下で輝く彫像。俺はあれを美しいとも、完璧だとも感じ、そして同時に深い嫌悪をも抱くのだ。この屈折した複雑さは、何だろう。

「あなただけ違う」

 また強風が吹いた。今度の風は俺の元に色の違う花びらを運んできた。他の淡い色味のものとは違う、濃いそれ。

「可哀想な人」

 視線を廻らせれば、少し離れたところに紅色の花を付けた一風変わったサクラの木が見えた。その下には、Aの姿が。その整った顔は、相変わらず男女どちらなのかを、俺に判断させない。

 Aは今日も繰り返した。「可哀想な人」、と。謳うように。

 俺はただ薄い笑みを浮かべてみせた。不思議なことにこのAは、俺の行く先々に現れるのだ。最初に実家に、そして次にはアパートで姿を見せたように。まるで俺の行動を予見しているかのようだ。

 こんな小さな子供が、どうやって俺の移動に付いて来ているのか、分からない。

 不思議なことはもう一つあった。Aは俺が会いたいと願う時には、決して現れないのだ。この子供が姿を見せるのは、俺がAのことを忘れている時に限られていた。まるで常時、俺を監視しているかのようだ。ただの子供にそんなことが出来るはずもない以上、それが俺の被害妄想に過ぎないのは明白であったが。

 六ヶ月経った今、Aに関して俺が知りえたことは僅かに二つ。一つ目はこの子供はどこからともなく現れては、そして立ち去っていくということ。二つ目は、Aは自分の言いたいことだけを話すのみで、決して俺が口にする反論やら問いかけには無頓着だということだ。時折、俺の考えていることに対する反応のようなものを見せるが、それが単なる偶然なのか、真実Aが応答しているのかは判然としない。

 つまりは、Aとのコミュニケートはほぼ不可能なのだ。Aは徹底して自由気ままに振る舞っている。その姿勢はいっそ、潔いほどだ。

 いささか気が早いとも思える淡い緑色のカーディガンを翻して、Aが駆け出した。俺の進行予定方向とは真逆に走り去る。

 その背中に向かって、俺は声を掛けた。

「サクラ、綺麗だな。もうここは終わりみたいだけど」

 当然ながら、反応はない。ちっぽけな体は、あっという間に花吹雪の淡い色の中に消えた。

 羽虫のような音を立てながら、俺のカメラがその後を追っているが、どうせ今回も無駄なのだろう。いつか訪れるだろうAの彫像化を映像に収めるべく、出会う度にその後を追わせているが、一度も成功したことがないのだから。

 自転車に跨がりなおして、俺は坂道をノンブレーキで下った。周囲に立ち並ぶサクラたちは、どこまでも永遠に続くかの如き薄紅色を振りまいている。この季節だけの、僅か一週間程度の現象に過ぎないと分かっているのに、どうして俺はそこに終わりの無さを感じてしまうのだろう。これもまた、俺の感傷なのだろうか。

 花びらたちが、俺の視界を遮る。実に不可思議だ。

 俺の暮らしていたアパートがある街では、環境を清潔に保つためだけに多大なエネルギーが投入されていた。美観目的で植えられる木も、葉や花を落とさぬ紛い物であった。道で転がっても、ゴミの一つも服には付着しなかった。

 あれほどの潔癖さを求めたのは人間だろうに、その同じ人間がこれほどのサクラの木を道沿いに植えたのだ。こんなにも花を撒き散らす存在を。矛盾だ。

 猛スピードで走る自転車が、煌びやかな彫像の傍を通り抜けた。この人もまた、俺の両親と同じく、彫像と化す場所を自分で決めたのだろうか。それはこのサクラたちが目的だったのだろうか。

 答えの得られない疑問が、俺の中でまた一つ積まれた。

 横道から出て来た自動走行車が驚いたように俺に道を譲ってくれた。自転車が珍しいのか、俺の後ろ姿をいつまでも見送っている。好奇心が旺盛なタイプなのかもしれない、と想像すれば、ふと実家の最寄り駅で出会った自動車オペレーションシステムCAQR-02TW-5879-1158-Pのことを思い出した。

 CAQR-02TW-5879-1158-Pはきっと、今日もまた客待ちをしているのだろうか。また人間の不在を寂しく思ってくれているのだろうか。それとももう忘れてしまっただろうか。図書館オペレーターシステムQTRE-89PU-2567-78はどうしているだろう。

 俺は顔を上げた。数多の花びらたちが柔らかく俺を叩く。

 サクラ前線を追いかけて北上する旅が終わったら、彼らに会いに行くのも良いかもしれない。その行為にどんな意味があるのか分からないが、どうせ予定などないのだ。

 自転車の進む速度が下がり始めていた。坂道が終わり、道はゆっくりとだが確実にまた登りに入りつつある。

 俺はサドルから尻を浮かし、ハンドルを握りしめてペダルを全力で漕いだ。俺の力だけで、面白いように坂道を駆け上ることが出来る。快感だ。代わりに、慣れない疲労感が全身に蓄積されていく。

 汗が額から落ちて、顎から垂れた。吹く風が汗を気化させるついでに、俺の体温を奪っていく。寒い。だが体の内側からは、新たな熱が生まれている。俺はまだ、確かに生きていた。

 Aの後を追わせていたカメラが、戻って来た。微かに耳障りな音を立てながら、俺の後ろを併走する。Aを撮影するために購入したはずのこの羽虫が記録しているのは、実のところAではなく、俺だった。笑ってしまう。

 だが俺はきっと結晶とは無縁だろう。彫像と化した人間たちの姿に距離を感じてしまう俺には、自分が彼らと同じ姿になるとは信じられなかった。恐らく俺は結晶に飲み込まれることなく、ただ普通に死ぬのだ。そして腐敗し、塵芥と化すのだろう。

 Aは彫像化するだろうか。その様を俺に見せてくれるだろうか。

 その質問の答えも否だと思えたが、俺はまだ諦めてはいなかった。俺が受け取れなかった両親からの贈り物を、Aから強奪したいと強く願っていた。

 結局のところ、俺は変わることなど出来ないのだ。自分の能力の不足を理解していても、それでも、俺は己の手で、耳で、頭で考えることに固執している。その魅力の前では、倫理観など簡単に吹き飛んでしまうのだ。

 終わりの見えない坂道を、俺はただ登り続けた。向かう先にはただ一面の淡い色の花吹雪だけが見える。

 それは俺に夕陽を反射させる彫像群を連想させた。彼らが透過させ、或いは跳ね返していたのは、血のような赤。だがその実、彼らが血を流すことはもう決してない。

 果たしてあの硬い結晶の下、柔らかな皮膚の内側には、未だに赤い液体が潜んでいるのだろうか。――俺と同じように。

 疑問は尽きない。だがその問いに答えは得られない。

 先ほど俺のことを見ていた自動車が、後ろから走り寄ってきた。追い越すのかと思いきや、そのまま同じスピードで俺の隣を走る。

 どこか嬉しそうに併走し続ける自動車の向こうに、輝かしい結晶と化した同型の自動車の姿が見えた。

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