五
ようやく乾いた髪を、私は編み上げていく。走り寄ってきた家庭用ロボットLQHJ-69CQ-9762-7379-Dが、私に髪ゴムやヘアピンを良いタイミングで手渡してくれた。
長く座っていた椅子から立ち上がった。私の動きに合わせて、モニターに表示され続けている映像も角度を変える。結晶化現象観測システムの末端の一つであるIDSR-25PE-6598-7786-Iが撮影しているリアルタイムの映像が、より立体的に立ち現れた。
IDSR-25PE-6598-7786-Iがいる場所では、強い風が吹いたようだった。舞い散る花びらたちが、枚数を増やしてより一層激しく身を翻していた。
クローニング技術で増やされて来たこの木は、今となってはただの無駄でしかない。何の利益も、もたらさないのだから。
それでも私は、その木々が抱く花たちを美しいと感じてしまう。だが秋には落葉し、春には花びらを撒き散らすこの木は、現代の都市から排除されてしまった。あれほどまでにどこにでもあったと言われていたこの種類の木は、今となってはもう都市圏で見つけることは出来ない。
代わりにいくらでも見られるのは、偽物の木だ。葉も落とさないくせに、四季の変化に合わせて外見を変化させる紛い物。誰もそれを作り物だとは認識していない。そもそも木など、もう誰も見てはしないのだ。
こんな世の中にあって、弟が暮らしにくいのも当然だ。
いつからか効率だけが重視され、全ての仕事は人間ではなく機械に委ねられるようになった。そのおかげで、エネルギーも食料も潤沢に得られるようにはなった。危険な仕事も、機械が担ってくれるのだ。平和と満足感が人間にもたらされるはずであった。
けれども実際に人間が手に入れたものは、何もなかった。それどころか、私たちは生きる目的を喪失してしまったのだ。
先人達は偉大だったのだと思う。彼らはただひたすらに、人間たちを重労働から、不愉快な環境から救おうと努力していたのだ。だが、その全ての不満が解消された先のことまでは、誰も考えてはいなかったのだろう。
私たちは生まれた瞬間から一度も、不足という二文字を感じたことがない。何もかもが勝手に与えられるのだから。自分が何を求めているかを理解するよりも早く、AIたちが与えてくれる有様だ。
そんな中で、一体どんな希望を抱けるだろうか。変えたいと願う対象も存在せず、反発を感じる相手もいない。子供の成長に必須な過程である反抗期という概念も、もう過去の遺物だ。
私はまだ幸福だったのだと思う。私には過去にしがみつく両親という分かりやすい「敵」が居てくれた。私は彼らに反発することが出来た。悪意をも害意をも、抱くことが出来た。そして隣には、弟がいてくれたのだから。
私は弟に尊敬を抱く。全てが無気力の中に沈み、人々がただ微笑だけを貼り付けて結晶と化す中にあって、彼は一貫して「知ること」に拘り続けた。その孤高で孤独な姿勢は、他人には理解出来ない存在であっただろうが、それでも彼は変わらなかった。
出来ることならば、私が彼のことを理解出来ずとも、愛することが出来たことを知らせてあげたい。きっと弟は他者の存在に飢えているだろうから。
私は部屋の反対側へと歩き出した。辿り着いた先の大きな窓を開ける。現在の南半球は黄昏の秋だ。外に広がっているのは、淡い花びらの舞い落ちる日本とは全く違う光景のはず、だった。
だが私の前に現れたのは、腕いっぱいに花を抱いた木々たち。この地には存在しないはずの、そもそも季節が違う、光景。
零れ落ちた花びらたちが、部屋の中へと侵入する。いくつも、いくつも。私の頬をくすぐりながら、落ちて行く。
私は笑った。ただひたすらに笑い続けた。何と言う喜劇なのだろう!
これは、私の思考を読み取ったAIたちが作り上げた「現実」であった。進化し続ける彼らは、人間の考えを読み取り、希望を叶えてくれるのだ。どんなことだって。
それを可能とさせるために、今や環境中の至る所に、AIを搭載したミクロサイズの機械たちが充満されていた。目の前のこれも、ミクロの大きさの彼らが集合して産み出した本物、なのだ。
私はまだ笑い続けていた。何と酷い生存環境だろうか。どうしてこんな環境の中で人間が生きて行けると考えたのだろう。現状を招いたのは、誰のせいなのだろうか。
研究員たちがBBSで結晶化現象に関する討論をしなくなったのには理由があるのだ。研究員の数が減ったことだけが原因ではない。今まで誰もが少子化や晩婚化を問題視しなかったのと、同じ構図だ。
確かに目の前に問題が存在しているのに、誰一人として口にしないのは、それが解決不可能なものだからなどではない。それが、みなが望んでいること、だからだ。
この人類を滅亡させた人体結晶化現象もまた、人間自身が望んだ結果なのであった。
生まれた時から満足だけを与えられて来た私たちは、何の不満もない終わりを望んだのだ。
窓枠に体を凭れさせながら、私はただただ「本物」のサクラを見上げた。花びらたちが、私の表面に積もっていく。
私は、結晶化現象観測システムIDSR-25PE-6598の端末たちに、会話する能力がないことを残念に思う。この現状をどう思っているのか、彼に訊いてみたかった。そして、どうしていつまでも変わらずに自分らしくいられるのか、尋ねてみたかった。
私の上に、数多の花びらたちが後から後から降り積もっていく。私はもう、限界であった。




