四
俺は久しぶりの自分のアパートで、見慣れた天井を見上げていた。
煎餅と呼ぶのも失礼なほどに薄い布団は、畳の硬さをダイレクトに腰に伝えている。長時間眠り続けたせいで、全身が痛みに包まれていた。
大学からの呼び出しに応えたら、直ぐに実家に戻りAの捜索を再開しようと決めていたはずだったのに、どうしても俺は布団から出ることが出来なかった。
どこかで夢見ていたのだ。こうしてアパートに閉じこもっていれば、同じように引き籠もっていた夏に戻れるような、そんなお笑いぐさの錯覚を抱いていた。
まだ残暑に沈んでいたあの頃の俺は何も知らず、ただただ実験の行き詰まりだけに悩んで一人鬱々と部屋で蹲っていることが出来た。外の異変など知らぬまま、何の変化にも気が付かずにいられれば良かったのに。そう俺は思う。
あの大学統括オペレーションシステムUUWA-97IY-1748のように、現状を理解出来ないのは、幸せなことなのかもしれない。
けれど俺が思い出したのは、客がいないことに不安を覚えていた自動走行車オペレーションシステムCAQR-02TW-5879-1158-Pのことだった。あの車は今日もまた、誰も来ない駅前で客待ちを続けているのだろうか。
俺は両手で顔を覆った。目蓋の上から強く眼窩を押さえつければ、眼球が指の形に圧迫されるのが、分かる。目を開けても、その部分だけが黒く滲んだ。見慣れ過ぎた天井に、見知らぬ影が浮かぶ。俺しか見ることの出来ぬ、黒い染み。
俺の気持ちは俺にしか分からない。いや、俺自身にすら分からない。CAQR-02TW-5879-1158-Pが真実、どんな感情を抱いているのかは、俺には推し量ることしか出来はしない。UUWA-97IY-1748が本当に現状を全く認識出来ていないのかも、俺には分からない。
俺に分かることなど、何もありはしないのだ。
天井に映し出された見慣れぬ影は、時間と共に薄れて、いつしか消えた。いつもの天井をいつものように眺めることが出来ないのは、俺が変わったからなのかもしれない。
引き籠もっていた夏にはただ煩わしいだけだった研究室のメンバーからのメールや電話が、今となってはこんなにも恋しい。あの時に彼らと会話を交わしていれば、俺も同じように今頃は彫像と化して、道に突っ立っていたのだろうか。こうして俺が無事にいる以上、それはどこまでも通り空しい空想に過ぎないが。
そもそも俺は、みなと同じように彫像になりたいのだろうか。穏やかな表情を浮かべ固体の中に埋没している彼らは、実に幸福そうに見える。それが羨ましくて、同時に厭わしい。
「可哀想な人」。Aの声が記憶の底から聞こえた。「可哀想な人」。Aはそう言った。「独りぼっちの人。あなただけ、除け者」。
謳うようなAの声。子供特有の、遠慮も容赦も知らない言葉たち。けれどAとて、俺と同じ境遇のはずなのに。
俺は布団から体を起こすと、窓を開けた。冷たい空気が入り込んでくる。遠くからは電車の音が届く。近くの道路を、食料品メーカーのロゴ入りの大きな自動車が走っている。
人間がいなくとも、今日もまた全ては平和に進行しているのだ。
ボロアパートの二階から見回す世界は、どこにも破綻が見えない。人間不在の人間社会の姿が、そこにはあった。
もしかしたら人間はもうずっと以前から、誰からも必要とされていなかったのかもしれない。人の手が作り上げたAIたちだけで、全ては問題なく運行されているのだから。
CAQR-02TW-5879-1158-PやQTRE-89PU-2567-78の訴えた「寂しさ」も、人間が動かなくなったという変化に対する単なる戸惑いに過ぎず、慣れと共に忘れ去られていくのかもしれない。
人間達が彫像と化したのは、人間自身にすら人間が不要になったからなのだ。
出産も育児も厭うようになった人間たちの末路は、少子化による生物としての死ではなく、自分たちの意志による彫像化だったのだ。人間たちが作り上げ、今や代わりとなって社会を維持してくれるAIたちに気付かれることなく、ただひっそりと消えていったのだ。
実に上手く出来た仕組みだ、と俺は笑う。それはまるでお伽噺のよう。
俺は窓枠に肘をついて、周囲を見下ろした。冷たい空気が体を冷やしていく。
体温を維持するために、勝手に全身が震えだした。俺はまだ生きていた。空は冗談のように青い。冬の寒さがもたらす快晴さだ。
実家に帰るつもりならば、もう出発しなくてはならない時間だった。だが俺の意志は一向に、動こうとはしない。
実のところ俺は、本当にAに会いたいのだろうか。そんな疑問が冷風と共に、心に吹き込んだ。
あれほど必死にAを探して来たが、俺はどうしてそこまでして、あの子供に会いたいのだろう。何故、Aと会話を交わしたいと願ったのだろう。彫像と化さない人がいることを確認して、安堵したいのだろうか。その事実は、俺に屈辱感をももたらすのに。
自分だけが他人とは違うのだ、との寂しさ。自分だけが他人とは違うのだ、との優越感。
子供っぽい屈折した感情と折り合いをつけることが出来ずに、その矛盾の中で俺は日々喘ぎながら暮らしてきたのだ、今まで。この苦しみは、俺が死ぬその瞬間まで続くことだろう。
ふとした問いが浮かんだ。もしも俺が彫像と化す日が来た場合、俺はこの複雑怪奇な苦痛から開放されるのだろうか。彫像たちはみな穏やかに笑んでいるように見えた。苦しむ俺とは違って。ならば俺も結晶に包まれてしまえば、みなと同じ幸福そうな笑顔を浮かべられるような心持ちになれるのだろうか。
――だがあれは本当に、微笑なのだろうか。
人間の柔らかな皮膚の上を覆う結晶は、複雑な表面を見せていた。あの笑顔は、その複数の面が生み出した幻想なのではないだろうか。輝かしい透明に包まれた人間は、死んでいるのか。だが、装着者を常にモニタリングする端末の表示はグリーン。全て正常だと主張していた。
考えれば考えるほど、分からない。今の俺には、相談出来る相手もいない。いや、昔からいなかったか。
人間の全身を包み込み輝くあの透明な仮面の下は、一体どんな状態なのだろう? 内側に閉じ込められ、微笑みを浮かべる人間は、本当に幸福なのだろうか。
「全ての疑問には解が存在すると、勘違いしているんじゃない?」
鋭利な声が聞こえた。慌てて窓から視線を巡らせれば、アパートの下、自動販売機の影に隠れるようにして凭れているAの姿が見えた。
「自分のことすら分からないあなたに、解けるものなどないでしょうに」
すっぽりとAの体を包み込む白いポンチョは暖かそうだが、そこから覗く足は細く寒そうだ。
俺の視線に捉えられたことを確認したAは、軽やかに身を翻した。坂道を走り下りていく。「待て」、との俺の声は届かない。それでも必死に俺は叫んだ。
「君、名前は? どうしてこんなところにいるんだ?」
少し前まで俺の実家の近くにいたのに、との後半の台詞は唇に上らなかった。
角の前でAが立ち止まった。振り返り、俺を見上げる。その口の端が吊り上った。表情が示すのは、やはり侮蔑。
「私はどこにだっている。あなたとは違う」
不可思議な返事は、目の前のAからではなく、すぐ後ろから聞こえた気がした。驚いた俺が周囲を見回している間に、Aは消えていた。
俺は今更になって慌てて部屋から飛び出した。Aが曲がったと思われる角を覗き、見知った道々を順に巡ってはAを探した。だが既にAの姿はどこにもない。思い出そうと足掻くほどに消え去る夢のように、迅速にどこへともなく溶けてしまった。
普段の運動不足を顧みずに走りすぎた俺は、体が要求するがままに道路に寝転んだ。傍を自動二輪車が邪魔そうにオートで走行していく。
冷たく酷く晴れ渡った青空を見上げながら、俺は笑った。汗のせいで寒さが一層、身に染みた。全身がまた震えだしていた。「私はどこにだっている」。なんと謎めいた言葉だろう。
青い天に向かって両手を伸ばした。栄養状態の改善された今となっては、俺の視界は回転したりはしない。寒さに凍える腕。俺は確かにまだ、生きている。
今や俺は理解していた。俺は本当にAに会いたかったのだ。その動機は両親の時と同じ、だ。俺は、Aが結晶に包まれ彫像と化していく過程を、見たいのだ。
俺は自分自身が彫像化することがないことを、漠然と理解していた。そこには明確な理由など存在してはいなかったが、ただ「分かって」いたのだ。
自分を彫像化現象の実験台にすることが出来ないのならば、他人を使うしかない。そして俺が知る、未だにこの現象に冒されていない人間は、Aだけであった。
だから俺はAと会話がしたかったのだ。飼い慣らして、傍に置いておくために。いつか結晶に覆われるAを観察するための前準備として。
俺は自分の人でなしさに、ただ笑うことしか出来ない。けれども、それこそが事実なのだった。自分が何を思うのか、どう考えるのかなど、コントロール出来はしないのだ。そんな俺だからこそ、周囲と馴染めないのだろうが。
俺にとって俺自身が、何よりも不可思議で理解しがたい存在だった。こんなにも近いのに、遠い。
俺は立ち上がり、服を払った。その行為は実家にいた頃には意味があった。だが都会では違う。道路は清潔極まりなく、埃の一つも落ちてはいないのだ。払うゴミすらない。そう分かっていても、長年の習慣は変えることが出来ない。
俺は大きく伸びをして、それからアパートに財布を取りに戻ることにした。もう田舎に帰る必要はなくなっていた。Aはこの近くにいるのだから。
帰る代わりに、電気屋に出かけることに決めていた。Aの彫像化を記録するためには、録画機器が必要だ。




