二
電車が目的の駅に着いた。俺は電車から降りて、ホームで大きく伸びをした。動く人間が誰もいない妙に広々とした空間にも、いつの間にか慣れてしまっていた。
俺を実家の最寄り駅まで送ってくれた自動走行車オペレーションシステムCAQR-02TW-5879-1158-Pの姿を思い出した。CAQR-02TW-5879-1158-Pは、とても寂しそうにしていた。
そう考えるのは、本当に俺の感傷に過ぎないのだろうか。システムたちは、人間の作り出した機械に過ぎないのだろうか。プログラムに盲目的に従い、「人間らしく」振る舞っているだけの存在なのだろうか。
……そうに決まっているのに、今の俺は断言することが出来なくなっていた。俺の世界は、不安定さを増している。
俺は改札を抜けて、駅の出口に向かう。吹きさらしの階段で、冷たい空気が俺の頬を刺した。
美観のために駅の周囲に植えられている木々は、すっかり丸裸になっていた。だがそこから落下した葉は存在しない。この木は偽物なのだ。ただ「それらしい」だけの、紛い物。
それはとても味気なく、同時に本物の木に対する冒涜だと俺は感じる。だが地面に降り積もったその上を歩く際の楽しい音を知っている人間が、果たして都会にどれほどいるのだろうか。踊るように葉を踏んでいた、Aの姿が脳裏に甦る。
階段の上にいる俺の眼前に広がるのは、約二ヶ月ぶりの俺の暮らす街であった。入学式のために、初めてこの駅から大学へ向かった日のことを思い出す。人間に益になるようにと徹底的にカスタマイズされた人工的なこの都会という空間に、俺は感心したものだったのに。
今や、もうこの環境の下に人間はいないのだろう。みな結晶に包まれ、彫像と化してしまった。彼らは動くことはない。ただただ立ち尽くすのみだ。
俺はゆっくりと階段を降りた。大学への道を辿る。
今日、俺がこうして戻って来たのには、理由があった。大学から呼び出されたのだ。
授業料などと呼ばれる仕組みがなくなってから久しく、在学期間ももはや存在しない今、好きなだけ大学に残ることが出来るはずであった。それなのに何故、俺が呼び出されたのかが分からない。
送りつけられたメールには、添付データがあった。恐らくはそこに理由が記されているのだろうが、俺の端末が古すぎることが災いし、それを開くことが出来なかったのだ。
おかげでサッパリ状況が分からない。呼び出されている以上、大人しく出頭すればその理由も原因も分かるだろうと、俺は高をくくることにした。
俺が大学からの呼び出しに素直に応じたのには、もう一つ理由があった。俺はまだ大学という機関が存続しているのか、知りたかったのだ。
人間が学ぶための場所である大学は、果たして人間不在でも成りたつのだろうか? きっと無理なはずだ。それでも今も大学が生きているならば、それは即ち、生きている人間がそこにいるということなのではないだろうか、と考えたのだ。
Aを探し続けたことといい、つまり俺は、人間が恋しいのだ。引き籠もっていた間はずっと、外部からの接触の手を撥ねつけていたくせに。
俺は毎日見ていた馴染みの変色した校門を通り抜け、歩き慣れてはいてもなお歩きにくい石畳を進む。
ネット技術が発展した恩恵で、今や遠隔地からでもその場にいるのと全く同じように授業を受けることが可能だと言うのに、どいつもこいつも何故わざわざ大学までやって来るのか、ずっと疑問だった。俺のような実験系ならば仕方が無い。実験器具と環境は、大学にしかないのだから。だがそれ以外の学生は家で授業を取ればいいのに、と昼休みの食堂の混雑に辟易しながら、俺は思ったものだった。
けれど、と俺の口元に、歪な笑みが浮かんだ。
俺は立ち止まって、周囲を見渡した。静やかに立ち並ぶのは、あれほど煩かった学生たちだ。構内の賑やかさは死に絶えている。
その静寂を見ることが出来るのは自分だけなのだとの優越と、自分だけが部外者のように置き去りにされてしまったとの孤独が、鬩ぎ合う。
今ならば分かる気がした。彼らがネットを介してではなく、わざわざ大学にまで授業を受けに来ていた理由が。恐らく彼らは回線越しではなく、直に他人とコミュニケートしたかったのだ。
結婚と呼ばれたシステムは既に死に絶えた。恋人との概念も絶滅寸前だ。友人という言葉には、どこかチープさがつきまとうようになった。それでもまだ人間は、他者を必要としているのだ。俺が今になって他人を恋しく思うように、彼らは当時から人との関係を欲していたのだろう。
でも、と俺は一人で笑う。実際にAなり誰かなり生きた人間と出会ってしまえば、俺のこの柔らかな恋しさは、相手への煩わしさへと姿を変えるに違いなかった。自分でも理解出来ない二重性だ。
何故全国の大学で採用されているのか分からない歩きにくい石畳を越えて、俺はメールの差し出し元である教務課の建物に辿り着いた。構内の中央に位置する教務課の隣には、俺がいつか無理矢理侵入しようとしたコントロールルームを擁する学生課の建物が見える。
自動ドアをくぐって教務課を訪ねれば、直ぐに実務担当用のロボットが迎えてくれた。それは妙に愛想良く、俺に自分の個体識別記号UUWA-97IY-1748-1298-Tを名乗った後に、迷いのない足取りで俺を案内し始めた。
てっきり教務課で話が済むと思っていた俺はあっけにとられる。しかもUUWA-97IY-1748-1298-Tが俺を連れてきたのは、なんと学長室であった。
俺は動揺した。まさか学長が出てくるほどに重大な案件だとは、想像していなかったのだ。今の俺は、お世辞にも綺麗な格好をしてはいない。
だが俺の動揺を無視して、UUWA-97IY-1748-1298-Tがドアを無造作に開けた。反射的に背を伸ばした俺が見たのは、空っぽの椅子と、その横の大画面モニターの中で微笑む中年の黒髪の女だった。
女は俺に話しかけた。
「警察署でお会いして以来ですね。覚えておいででしょうか。私は大学統括オペレーションシステムUUWA-97IY-1748です」
俺をここまで連れてきたUUWA-97IY-1748-1298-Tが――統括オペレーションシステムUUWA-97IY-1748の末端に位置するロボットが――俺の後ろのドアを閉めて、立ち去る足音が聞こえた。
その瞬間に、理解した。確かに大学は未だに存続してはいるが、そこにはもう生きた人はいないのだ。人間が学ぶ場所であるはずの大学は、人間不在のままゾンビの如く不自然な姿で生き続けている。
UUWA-97IY-1748は俺に向かって、告げた。俺が所属する大学院実験研究科の廃止が決まった、と。
理由は、九月から始まった教員たちのストライキだと、UUWA-97IY-1748は説明した。九月の頭から大学に出て来ない職員あるいは帰宅しない職員が増え始め、現在では全員が何の連絡もなく欠勤あるいは部屋に無断で留まっている状態なのだそうだ。
UUWA-97IY-1748はこれをストライキと捉えてはいるが、職員からは何らの要求も出されてはいない、と続けた。UUWA-97IY-1748は各教員に対して問い合わせを行って来たが、それに対する反応も現在まで皆無であるという。
困り果てたUUWA-97IY-1748は、ついに全員の解雇を決定せざるをえなくなったのだ。
それに伴い、新しい教員の募集も行ってはいるが、応募が全くないこともUUWA-97IY-1748は教えてくれた。
人員の欠乏はAIで補うつもりではあるが、俺が所属する実験研究科が人間の職員の下で実験を行うことを目的として設立されている以上、人間の教員なしで今まで通りに当該研究科を維持することは出来ない。故に廃止せざるを得ないのだ、とUUWA-97IY-1748は告白した。この説明を行うためだけに、俺を含む学生全員に呼び出しメールを送ったのだそうだ。
実際に出て来たのは、もはや当然のことながら、俺一人であったが。
俺は事態を全く把握出来ていないUUWA-97IY-1748を笑った。AIは誤らないとされてきたが、現実はどうだろう! AIを搭載しているはずの、このオペレーションシステムの失態は。
ストライキ? 違う。彼らは移動したくとも、出来なくなってしまったのだ。透明な結晶に閉じ込められてしまったのだから。みんな、そうだ。俺だけが違う。
俺の感情の高ぶりを不思議そうに見守っているUUWA-97IY-1748に、俺は口を開いた。UUWA-97IY-1748は俺の思考を拾えるはずなのに、一向に理解が進む様子はない。
「アンタはさ、俺と違って大学内の全てのデータにアクセス出来るんだろうに、ちっとも分かっていないんだな。一体何が起こったのか」
モニターに映し出されている女が、微かに首を傾げた。まるで悩んでいるかのような仕草。
だがどうせ、フリだけだ。
「この構内にいる人間達のデータを遡ってみろよ。同じ場所に同じ姿勢で、みんな何日も何週間も何ヶ月も立ち続けているだろう?
それを奇妙に思わないのか。変だと感じないのか」
UUWA-97IY-1748が答えた。
「どこに、どのように、どんな期間立っていようとも、それは個人の自由ですから」
AIは間違えない。最初にそんな寝言を言い出したのは誰だったのだろう。そして、どうしてそれを鵜呑みにして来たのだろう。俺は。俺たちは。
「それがアンタの認識なら、そのままゾンビとして生き続ければ良いさ」
俺は空っぽの学長椅子に視線を投げてから、モニターに背を向けた。
入学式で新入生に挨拶をしていた学長は、この時代に珍しいくらいに恰幅の良い爺さんだった。灰色の豊かな髪を綺麗になでつけていたあの人は、一体どこで彫像と化しているのだろう。
部屋から出て行こうとする俺に、UUWA-97IY-1748が声を掛けた。
「大学はどうするのです? こちらの都合で研究科を廃止するのですから、出来うる限りの便宜を図らせて頂きますよ」
俺はただ手を振った。もはや学籍に未練などなかった。俺は無言で教務課を後にした。それは最後の生きている学生が、大学の籍から消えた瞬間だったのだろう。
残るのは煌めく彫像と、大学という枠組みに縋り付く機械たちだけだ。
俺は最後にゆっくりと構内を見て回った。懇意にしてくれた若い司書の彫像を見つけた俺は、その前に立ち止まり、じっくりとその姿を見つめた。
冷たい空気に、俺の吐く呼気が鈍く濁る。だが彫像と化した彼女には、結露も見られなければ、息をしている様子もない。けれど、その腕に付けられた端末の表示は、オールグリーン。
覗き込む俺に対して、彼女の外側を覆う結晶は多彩な表情を見せた。細く繊細な平面がいくつも接合されて形成されている表面は透明で、内側に取り込んだ人間の姿をどこまでも公平に見せるのと同時に、その複雑な表層は素晴らしく巧妙に内部を覆い隠している。
皮膚と呼ばれる柔らかで頼りない面のみで、世界から隔絶されていた人間は、今やこの透明で硬く美しい結晶によって、周囲から孤立させられているのだ。
俺は己の手首を撫でた。爪を立てれば容易に破れて、中から血が零れ出す。弱い俺。弱い皮膚。
対して彫像と化した司書に触れれば、その表面は確かな硬さを返して来た。爪ごときでは傷つけることも出来ない、強固な結界。そこに守られるように抱き込まれた人間はこんなにも近いのに、どこまでも遠い。触れることも、話すことも出来はしない。
俺が視線を上げれば、ゆるやかな下り坂にはいくつもの彫像が見えた。俺と同じ学生たち。今や俺とは違う学生たち。生まれるのは僅かな優越感と、そして孤独だ。
今までずっと、どこかで他人との間に壁を感じていた。いっそこうして分かりやすい形で区別されてしまえば、すっきりする。
……そう思いはするものの、突きつけられた差にが寂しさを胸に吹き込むのも確かだった。
冬の昼は短い。いつしか太陽は傾き、その光の色を変えていた。赤い陽が構内を平等に照らす。だが彫像たちは俺と違い、実に美しく華やかに輝くのだった。
数多の結晶が反射させた夕陽の赤が、周囲に満ちていく。小さな反射光と透過光がいくつもいくつも重なり、俺の上にも赤が降り注ぐ。
その色は俺に血を連想させた。先ほど傷つけた皮膚から零れた赤が、まだ手に残っている。だが実家の家庭用ロボットAIBV-07FD-0013を殴りつけた俺の拳は、今では完治してしまった。
俺はじっと彫像たちを見つめた。俺は怪我をすることが出来る。血を流すことが出来る。そしてそれを修復することが出来る。傷つき癒やし、そしてまた傷つきながら生きている。
だがこの彫像たちはもう、血を流すことは出来ないのだ。透明な結晶に守られた彼らは、これからもずっと変化なくこの場所に立ち続けるのだろう。それは幸福なのだろうか。
彫像たちが産み出した赤い赤い光に満ちた空間を、俺は一人歩いた。煌びやかに輝く結晶たちの中にあって、俺の影だけが黒々と赤を切り裂いていた。




