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Unter der Haut, Auf der Haut  作者: えむ
第四章
17/26

 腰の痛みで目が覚めた。見上げた視界には、いつもの染みだらけの天井を捕まえることは出来ない。代わりに映ったのは、黒く蹲る暗闇。高い天井。ここはアパートではないのだ。

 俺はようやく自分のいる場所を理解した。長い間引き籠もり続けたアパートから出て、実家に帰ってきたのだった。そして、俺は。

 腕を天井に向かって伸ばした。両の手の甲が痛む。遅れて訪れるのは、違和感。再度腰が、次には肩が、鈍い苦痛を訴えていた。

 いつからか俺は眠ってしまっていたらしい。陽は既に沈んだ後のようで、部屋は闇に沈んでいる。随分と長い時間、睡眠を貪っていたようだ。その間ずっと床に横たわっていたせいで、全身が痛んだ。

 俺の起床を感知したのだろう、フロアライトが淡く発光した。

 その柔らかな光を反射したのは、真っ白な包帯だった。左手首に付けた端末が、俺の疑問に答えるべく画面を光らせている。

 そこに表示されたのは、右手全治三週間、左手全治二週間、唇三日との文字。既に手当は施されており、病院に行く必要はないとの有り難いお知らせが続く。それから既に見慣れた、食事を取れとのお節介も。

 全てを無視して、俺は左腕を額の上に乗せた。殴った俺を介護してくれたAIBV-07FD-0013に申し訳なさを感じる。そんなこと、人工物に過ぎないAIBV-07FD-0013は、全く気にしてはいないのだろうが。それでも、感じてしまう。皮膚に触れた端末の画面の冷たさが、とても心地良かった。

 だがその鋭利な刺激が、頭全体に広がる不快な重さを強調してもいた。この曖昧な頭痛が連れてきたのは遠い昔、泣き疲れて眠った翌朝の風景だった。

 子供の頃から世間に馴染めなかった俺は、様々な出来事に文句を言い、楯突き、自分の主張が正しいと証明するために足掻いた。そのくせ、いつも失敗していた。いつだって結局は、俺などよりも既にある仕組みの方が正しいことを、思い知らされた。

 その度に俺は泣いた。大声を上げるのは悔しくて、だからいつもひっそりとベッドの中で泣いたのだ。翌朝目覚めれば、いつだって頭は鈍く重たかった。けれど、大きな手が慰めてくれた。柔らかい体が抱きしめてくれた。

 それはもう遠い過去の記憶。俺はあの頃とちっとも変わっていない。だが、頭痛から救ってくれた人たちは、今やもう冷たい結晶の中に閉じ込められている。二度と触れることすら、出来ないのだ。

 過去を振り切るように、俺は上体を起こした。途端に頭がぐらついた。体に掛けられていた薄い布団が滑り落ちる。これを俺に掛けてくれたのだろうAIBV-07FD-0013の姿は、見えない。

 今や鈍く脈打ち始めた頭を軽く振って、俺は立ち上がった。ギシギシと軋む体をほぐしながら、ゆっくりと歩く。

 俺の動きに合わせて、床面に設置されているライトが順に点灯していく。続いて暗闇にぼんやりと、床が発光した。柔らかな光を浴びながら、俺は庭へと続く大きな窓へと手を掛けた。

 開いた窓から流れ込むのは、秋の空気。十月も半ばともなれば、既に夏の気配も消え去り、庭の木々には色の変わった葉も見える。周囲には冬の予感がひそやかに生まれていた。

 人間がいてもいなくても変わりなく、季節は巡っていくのだ。

 俺は靴下を脱いで、庭に降り立った。家の壁に沿って、ゆっくりと西側へと回る。足の裏を、芝生の柔らかくて冷たい葉がくすぐった。

 植えられたばかりで元気のない緑を指差しながら、珍しく本物なんだぞ、だからちゃんと世話としてやらないと死んでしまうんだ、とどこか自慢げに言っていた父は、その上で輝く結晶に包まれていた。部屋から漏れる光に微かに輝く、美しい、「それ」。

 幸福だった子供時代が、走馬燈のように俺の中を走り抜けていった。

 植えてすぐにすっかり萎れてしまった芝生を、俺は馬鹿にした。こんなのもう駄目だよ、と言ったのだ。だが父は決して諦めていなかった。毎日手入れをし、毎日世話をした。俺もそれに付き合わされた。

 その結果、いじけたように項垂れていた芝生は、父の愛情に応えるように、次第に瑞々しさを取り戻したのだった。

 芝生の上を裸足で歩く楽しみを教えてくれながら、父は言った。「諦めなくて良かっただろう?」

 ……きっと彼は、俺に「頑張れ」と伝えてくれていたのだ。失敗ばかりを繰り返し、ちっとも上手く生きられない義理の息子に対して、負けるなと言ってくれていたのだろう。

 記憶の中の父親は、まだ若い。だが今、俺の前に輝く彫像と化した父親には、老いの影が忍び寄っていた。俺は静かに、血の繋がらぬ、けれども確かに俺の父親だった人の彫像を見つめ続ける。

 彼もまた、実に満足そうに穏やかに微笑んでいた。その表情から目を逸らさずにいるためには、多大な勇気と覚悟が必要であった。今にも母親のなれの果てを目にした時のように、錯乱してしまいそうだ。

 意識して息を吸った。そして吐いた。一瞬でも気を抜けば、正気を失ってしまうのが分かっていた。

 それでも俺は、見なければならない。直面しなくてはならない。俺は、彼らが彫像と化す過程の映像データを得るためだけに、この家に戻ってくるような人でなしなのだから。その真実と、向き合わなくてはならないのだ。

 父も母も、もう二度と俺と会話を交わすことはない。彼らは確かに今も物質として存在してはいるが、もはや一個の個性を備えた生物ではないのだ。誉めてもくれなければ、叱ってもくれない。暖かい手で、触れてもくれない。

 腕に嵌められた個人端末の表示は、オールグリーン。俺よりもずっと健康である筈なのに、彼らは動かない。透明な結晶に包まれたまま、ずっとここに立ち続けるのだろう。

 俺の義理の両親は、どちらも穏やかな人間であった。同時に、既に滅び去った概念でもある結婚という儀式を行い、夫婦生活なるものを営み、その上、子供をも引き取って「家族」と呼ばれる小集団を作り上げた奇妙な人たちでもあった。

 わざわざ自分たちの生活に招き入れた俺が、AIを受け入れられず、自分の頭で考えることに拘泥する奇妙さを発揮しても、決して頭ごなしに俺を否定したりはしなかった。理解してくれていたとは思わない。それでも、好きに生きろと言ってくれた。

 俺の目の前で淡く輝く父は、俺の記憶のままの穏やかな瞳で二階を見上げていた。その視線を追えば、そこにはカメラのレンズが。悔しさが甦った。俺は彼らが遺してくれた最後の贈り物を、受け取ることができなかったのだ。

 どうして両親はこの場所を選んだのだろう、との疑問が俺の中にふわりと浮かんだ。

 カメラなど他の場所にも嫌というほど設置されている。それなのにどうして母は、あの使用目的すら分からない空き部屋を、自分の最後の場所としたのだろう。何故父は、この西側の庭に決めたのだろう。

 父の愛した芝生は庭のほぼ半分に広がっている。彼が大切にしていたサクラの木は南側だ。この場所でなくてはならない理由が、俺には分からない。母とて、あんな空っぽの部屋よりも良い場所があっただろうに。

 父はわざわざ壊れたカメラを修復させたのだ。母はレンズを拭いていた。彼らが自分の彫像化を撮影させるカメラを、自分の意志で決めたのは、明らかだ。

 けれど俺には、その理由が分からない。

 俺は二階を睨み付けた。一体あの空き部屋は何なのか。誰のための、或いはどんな目的のために用意された、部屋なのだろうか。広いウォークインクローゼットと、昔ながらのドアノブを備えた部屋が、全くの無意味に作られたはずもないのに。

 いくら頭を捻っても、俺には何一つ思い出すことが出来なかった。思い出すべき対象が存在しているのかすら、分からない。

 だからただ俺は立ち尽くした。父の彫像の隣で、窓越しに母の結晶が輝くのを眺めながら。時間はいつだって変わらずに流れていく。風が吹き、サクラの木から奪い取った葉を俺に叩きつけた。雲が頭上高くで蠢くように移動していく。明日は雨かもしれない。

 どこかで微かなモーター音が聞こえたような気がした。それは聞き慣れたAIBV-07FD-0013の駆動音と似てはいるが、少し違う。次に、足音が聞こえた。葉を踏みつける、ささやかな気配。遅れて今度は、声がした。「可哀想な人」。人間の声帯が産み出す音だ。

 咄嗟に振り返った俺の前で、小さな影が踊った。庭に落ちた葉を選んで踏みしめる様は、一種のステップを踏んでいるかのように見える。

「可哀想な人」

 再度口を開いた影は、サクラの木に抱きついた。

 その瞬間、俺の意志に応じて、家中の灯りが点された。同時に生き残った闇が、その深さを濃くする。対立する白と黒。その境界線に立つのは、先ほどの影。黒一色だったそれが、色と形を持つ。

 俺が目撃したのは、小さな顔だった。性別が分からないほどに、整っている。それに短い髪、細すぎる肩、ショートパンツから伸びる脚は細くて頼りない。大きすぎるそのスニーカーには、鮮やかな赤色で記されたAのロゴ。一体どこのブランドのロゴマークだっただろう、との平和な疑問が俺の中で生まれて、消えた。

 男とも女とも見える子供は、俺の動揺を楽しむように腰を曲げた。まるで俺の表情を覗き込むかのように、こちらを見る。口角がぐっと上がった。それはどこか侮蔑するかのように。

「可哀想な人」

 子供はまたしても繰り返した。

「可哀想な人。独りぼっちの人。あなただけ、除け者」

 その口から漏れるのは吐息か、微かな嘲笑か。

 彼、或いは彼女、は光から逃れるように、影へと飛び込んだ。灯りに惑わされた俺の目から、その姿が消え失せる。

 ただ認識出来るのは、落ち葉を蹂躙する足音だけ。それも遠ざかっていく。

 俺は子供の見えない背中に、「待ってくれ」と声を掛けた。「君、名前は?」 必死な俺の問いかけも、子供に効果を及ぼしはしなかった。

 最後の一瞬に、その靴が光の中に浮かび上がった。目を惹くのはやはり、Aのロゴ。

 どこからともなく現れた子供は、どこへとなく消え去った。今頃になってAIBV-07FD-0013が、異常を感知してこちらへと走り来る音がする。

 もう遅いよ、と言うために振り向いた俺が見たのは、安ぽい銅色をしたAIBV-07FD-0013のボディに残る俺の拳の跡。血液こそ付着してはいないが、確かに俺がAIBV-07FD-0013を殴ったことを証明している。

 あぁ、と俺は嘆息した。全てが夢であれば良かったのに。未だに生きている人間が俺以外にも存在しているのだとの事実は俺を安堵させ、そして同時に落胆もさせていた。


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