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Unter der Haut, Auf der Haut  作者: えむ
第三章
14/26

 勇気を出してくぐった玄関の先、家の中は以前と変わってはいなかった。

 確かに見覚えのない家具や、一部の配置が変化してはいたが、それでも我が家の雰囲気は不変であった。そこかしこに、母親の気配が窺える。

 それなりに整理され、それなりに散らかった、生活感に充ち満ちた我が家だ。肩の緊張がほぐれていく。

 「奥様はこちらに」と言いながら進むAIBV-07FD-0013に導かれるままに、俺はきょろきょろと周囲を見渡しながら階段を登り、父の書斎の前を通り、かつての俺の部屋の前をも通り過ぎた。

 AIBV-07FD-0013が進む先に待ち受けていたのは、誰のものでもない空き部屋。

 それが広いクローゼットとバルコニーを持っていることは知っている。その設備から考えると、確実に何かに使うために、或いは誰かのために作られた部屋であるとしか思えないのに、俺には何も思い出すことが出来ない。

 頭の奥が酷く痛む。まるで子供の頃に、旅行先の風呂場ですっ転んだ時のようだ。あの不注意からの事故のせいで、俺は半日ほど意識不明になり、入院する羽目になったのだった。

 俺は堪らず、頭を押さえた。廊下に取り付けられたカメラに捉えられた自分の姿が、小さなモニターに映し出されていた。自分自身を客観的に見る違和感。

 かつてこんな風に頭痛に蹲っていたのは、母親だった。彼女はしつこい偏頭痛持ちだったのだ。その母に薬を差し出すのは、差し出すのは……華奢な。

 痛みに視界が白くけぶった。何も見えない。思い出せない。いや違う。最初からないのだ。存在しないのだ。思い出すべき対象は、実在しない。

「どうなさいました?」

 心配げに寄って来ようとするAIBV-07FD-0013を押しのけるようにして、俺は問題の空き部屋に突き進んだ。白に塗りつぶされた視界が、脈打つように蠢いている。一歩進む度に、頭の奥が慟哭する。

 粘ついた汗で滑る手を必死に動かして、ドアノブを回そうと足掻いた。昔ながらの非効率なドア開閉システムだ、と評したのは誰だっただろう。唇を突き出してどこか不満げに、同時に自慢げに。

 俺の頭の中で空白が弾けた。強制的に意識がもぎ取られようとしている。そんなのは駄目だ、と俺は歯を食いしばり抵抗する。

 滑る手は俺のもので、情けなく震える足も俺のものだ。痛みにのたうち回る頭蓋すら、俺のものだ。この皮膚も、その下も全てが、俺のものなのだ。

 そしてそこに閉じ込められた意識も、俺のものなのだ。俺だけのものなのだ。絶対に手放せない。手放さない。譲れない。

 形ある肉体も、形のない意識も、全てが俺個人の所有物であり、俺そのものでもあるのだから。血の一滴も、意識の断片ですら、誰かに奪われる義理はない。

 耳の奥で羽虫の飛び立つ音が聞こえた気がした。再生される映像。俺を咎める声の主は、存在しない。カタカタと聞こえるのは、下りようと足掻くブラインドの音。

 俺は一体、何を望んでいるのだろう。本当の望みは何なのだろう。分からない。分からないことだらけだ。

 所有を叫んでいながらその実、対象となるものを、俺は全く理解していない。何と言う喜劇なのだろう。我が侭なのだろう。

 だがそんな混乱は全て、手の下で鳴った現実の音に駆逐された。ドアノブが回ったのだ。扉が内側へと開かれていく。

 勢い余った俺は、部屋の内部へと倒れ込んだ。霞む視界に映ったのは、煌く結晶と化した母親と、人間をモニタリングするカメラ。

 ――その瞬間、俺は唐突に理解した。何故自分がこの家に戻ってきたのかを。

 同時に俺の口から溢れたのは、哄笑。

 けたたましく漏れる己の笑い声が、実に不愉快だ。だがこの声も、自分自身の一部なのである。確かに俺を構成する一部なのであった。そして俺そのものなのであった。

 俺とは、皮膚一枚で外界から隔てられた肉の塊であり、そこに宿る精神であり、外を覗き込む感覚器官であり、またその総体でもあり部分でもあるのだ。

 俺は俺の全てを知っている訳ではない。それどころか、理解出来ている部分の方が、遙かに少ない。

 俺は今の今まで、どうして自分が実家に戻ってきたのか、知らなかった。俺の記憶には謎めいた欠損、もしくは妄想が存在している。俺は俺自身すら、分からない。

 狂ったような俺の笑い声は、いつしか呻き声に変わっていた。フローリングに手をついて、ゆっくりと体を起こす。

 俺は今の俺がどんな顔をしているのか想像すら、出来ない。喉の奥から漏れる音の意味が、理解出来ない。だが同時に、それらを自分が知りたいと欲しているのかどうかも、判然としなかった。

 ああ、と俺は息を吐く。だからみな、AIに頼るのだろう。自分自身で判断することが出来ないからこそ、全能なる過たないAI様にご教授願うのだ。ただ一つの解を求めて。

 その結果が、この素晴らしい現在だ。人間の居ない、人間社会。くだらない。

 俺はカメラを睨みつけた。答えは必ずしも一つではないのだ。俺という存在が実に混沌とした己自身でも手に負えない強度の矛盾と、理解できない衝動を内包するものであるのと同じように。

 俺はずっとこの矛盾と衝動とを、己の支配下に置こうと足掻いてきた。一つに統合しようとして苦しんできた。それも、AIやシミュレーターなどの他者に頼ることなく、一人で解決しようとしてきたのだ。

 そのために俺は自分の頭で考えることを、己の手で実験することに執着した。例え自分自身という複雑怪奇な存在が無理でも、せめてもっとちっぽけな何かしらくらいは自分の支配下に置きたいと、完全に理解したいと願ってきた。

 ああ、どうして一つにしたいなどと思ったのだろう。どうして理解出来るなどと思い上がったのだろう。これほどの混沌を。これほどの衝動を。

 無理なものは無理なまま、何故受け入れることが出来なかったのか。矛盾は矛盾として、コントロール出来ない衝動は衝動として、あるがままに受け入れれば良かったのだ。

 それは降伏ではないのに。敗北ではないのに。

 だが同時に俺は理解していた。そんな柔らかな考え方を採用することが自分には出来ないことを。答えが一つとは限らないことを知りながらも、その一つの答えに拘泥しているのは俺自身なのだ。

 どうしようもない、この破滅的な嗜好。救われぬ、強度の拘り。

 思い出すのは、蝉。あの時の俺は、小さなその虫の全てを知りたいと欲したのだった。長じた俺は、だから実験研究科なんて奇妙な専攻を選び、時代遅れの実験にのめり込んだのだった。

 己の内面に潜む理解不能さや理不尽さや矛盾と直面しながら、出来るならばそれらを解消したくて、そのために全ての生命、物質の基礎となる電子の振る舞いを見つめることに没頭したのだった。

 最初は面白かった。電子の振る舞いは目には見えないが、実験結果から予測することは出来た。そこから新しい憶測を立て、それが確からしいかどうかを実験で検証することが出来た。そのパズルにも似た理論的な単純さは、俺にはとても素晴らしく思えた。

 単なるシミュレーションとは違ったのだ。他人任せではなく、己の手でそれを確認することが出来るのだから。俺はAIになど頼らずとも、己の頭脳だけを武器に生きていける。そう思った。

 だが、それにも行き詰ってしまった。

 いつからか実験データは、俺の予測を全て裏切り始めた。新たな結果を加味して立て直した推測も、次の検証実験でまた壊された。実験を重ねれば重ねるほどに、理解不能のデータだけが増えていく。

 指導教官は俺に、もう自分の頭だけで考えるのは止めて、一旦実験シミュレーションに演算させてみろと言った。人間よりもAIの方が演算能力は上なのだから、と。

 その時の教官が浮かべた曖昧な笑みを、今でもありありと思い浮かべることが出来る。俺を励ますようで、同時に蔑むような表情。思い出すだけで、彼に対して、今でもどす黒い殺意を抱くことが出来た。

 俺はその忠告には従わなかった。それからも己の頭だけで考え続けて、そして袋小路に閉じ込められた。最後には逃亡する他、無くなってしまうほどに。

 所詮は無理だったのだ。俺にはそんな能力はなかったのだ。心の底からそう思う。

 だが同時に、まだ俺の深いところが叫んでいた。駄々をこねていた。今更、これほどまでに忌み嫌ってきたAIに頼ることなど出来ないと。俺は今まで自分の頭で考えることに拘ってきたのに、と。

 与えられたくはないのだ。己の手で掴み取りたいのだ。これ以外の生き方など、出来るはずがない。



 俺の上に柔らかな闇が落ちてきた。陽が沈んだのだ。最後の太陽の輝きを反射して、カメラが、母親が光った。

 実際のところ、どうやら俺は新しい生き方なぞ見つけることは出来なかったようだ。

 俺は意識してゆっくりと立ち上がった。そうしないと体がバラバラに千切れてしまいそうだった。壁にもたれながら、ナメクジのようなスピードで、母だった彫像に近寄った。

 俺は自分の頭で考えたいのだ。誰かに演算して貰うのではなく、誰かから答えを教えて貰うのではなく、自分の手で、目で、脳で考えたい。だから、俺は実家に戻って来たのだ。――データを得るために。

 酷い話だと思う。けれども「知りたい」との俺の大きな欲望の前では、道徳心はただ踏み潰されるだけの力ない存在に過ぎない。かつての蝉のように。

 視線の端で、部屋の隅に備え付けられた大きなウォークインクローゼットが、他よりも一層深く闇に沈んでいた。こんな大きなクローゼットがある部屋には、必ずや使用目的があるはずなのに、それを思い出すことが出来ない。俺は無能だ。

 それでも、自分の足で立っていたいのだ。それは酷く無謀で、無様で、聞き分けのないことだ。だからこそ、俺は彫像化から取り残されたのだろう。微笑んだままで平和に立ち尽くすことが、出来ないのだろう。彫像と化すことの出来た人たちに対する、強烈な羨ましさが突き上げてきた。

 壁から手を離して、俺は真っ直ぐに母親と対峙した。闇に慣れてきた目が、淡く輝くその表情を掴み始めた。穏やかな顔。他の彫像と同じだ。ただ俺だけが違う。

 母の視線の先を追い、よろめきながら窓の下を覗き込んだ。そこには同じく彫像と化した父親が、仄かに光っていた。

 彼は己の愛した庭に永遠に立ち続けるのだ。その姿は、先ほど家庭用ロボットAIBV-07FD-0013が見せた映像よりも、ずっと小さく見えた。

「母さん、父さん、こんな息子を許してくれますか?」

 発した声は、想像以上に情けなかった。それに答えなど必要ないのだ。それは聞かずとも分かっている。

 己の疑問を解きたいがために、実家に両親の彫像化過程のデータを漁りに来る息子など、誰が肯定するものか。

 大学のコントロールルームのオペレーションシステムUUWA-97IY-1748-07は、俺の入室を拒否した。俺にその権限がないから。

 図書館のオペレーションシステムQTRE-89PU-2567-78は、俺に映像データを見せてはくれなかった。俺にその権利がないから。

 自動車オペレーションシステムCAQR-02TW-5879-1158-Pは、俺に最後に動く人間を見た日付を教えてはくれなかった。俺にその情報を開示する理由がないから。

 だがここは俺の実家であり、情報は俺にも開かれている。

 俺は窓辺から振り返り、暗闇になお輝くカメラを強く見つめた。それが捉えている範囲には、母親が誂えたように収まっていた。その喜びに、俺は微笑む。

 先ほどから静かに佇み続けるAIBV-07FD-0013に声を掛けると、その映像をリビングにある大きなモニターに転送するように指示した。

 俺は人でなしだ。彫像化現象からも排除されるほどの。

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