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Unter der Haut, Auf der Haut  作者: えむ
第三章
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 進学した海外の大学での生活は楽しくもあり、苦しくもあった。悲しい時も、嬉しい時も、いつだって思い出すのは弟のことだった。彼は今、元気にやっているだろうか?

 弟が背中を押してくれたからこそ、私はあの家を出ることが出来た。この変化が彼に幸せをもたらすようにと願っていた私は、進学して以来、連絡を自主的に断つことにしていた。

 それは両親の関心を彼に引きつけておきたいとの意図もあったが、それとは別に、彼が私に強い劣等感を抱いていることをも知っていたからだ。

 もっと幼い頃には純粋に私を見上げていた瞳は、いつからか強い負の感情を抱いて私を見下ろしていた。一体いつが境目だったのか、私には分からない。身長が逆転した頃だろうか。

 それでも彼は私のことを嫌いはしなかったし、いつだって私に親切だった。彼は優しいのだ。だから余計に、自分の心の中に屈折したものを抱えることとなったのだろう。

 私への劣等感を私への嫌悪に変えて、当たり散らすことが出来るような人間だったならば、もっと楽に生きられただろうに。不器用な人だ。

 そんな弟の性格を知っていたからこそ、私は彼にすら連絡をしなかった。私が大学生活を順調に謳歌していようとも、挫折に塗れていようとも、ともに彼を刺激するばかりで、決して益にはならないだろうと考えたのだ。

 ただ家を出る時に、彼に小さな贈り物をした。光り輝く結晶だ。

 まだ幼い子供だった彼に「欲しい」と言われたのに、心の狭い私は手放せなかったものだった。そんな昔のことを弟が覚えているかは分からなかったが、それでも彼はにっこりと笑んで受け取ってくれた。嬉しかった。

 その結晶を渡しながら、私は祈った。彼が幸福でありますように。彼が彼の望む彼のままでいられますように。極度な拘りを持つ彼が、ずっと生きて行けますように。

 私は危惧していた。いつか彼が壊れてしまうのではないかと。

 彼は何度も奇妙なことをした。鈴虫が産み出す音の秘密を知るためだけに、その羽を毟ろうとしたのは、単なる一例に過ぎない。

 いつかは鳥が飛ぶ仕組みを知るために、人工翼を作り上げたことすらあった。子供にはたいそう大変な作業だっただろうに、彼はそれを己の好奇心だけで成し遂げたのだ。

 弟はとても誇らしげに、私にその完成品を見せてくれた。そして私の制止など聞かずに、二階の窓から飛び降りたのだった。それは「飛ぶ」なんてとてもではないが形容出来る状態ではなく、彼は重力のままに自由落下した。

 私は耐えられずに悲鳴を上げた。自分が彼に深い愛着を感じていることを、失いたくないと思っていることを知ったのは、この瞬間だったように思う。

 けれども弟は、サクラの木の枝に偶然に引っ掛かった。弟の体重を支えきるほどの強さを持たない枝は折れてしまったが、直接地面に衝突するよりもずっと軽い怪我だけで済んだ。

 思い出すのは、「失敗しちゃった」と落ち込む弟の姿と、その無謀な行為に対する両親の呆れ顔。彼らには、彼が理解出来なかったのだ。私にとて彼のことが分かっていたとはとても言えない。けれど私はその不可解さをも含めて、弟を愛しんだ。

 しかし両親は、彼を放置し、距離を置いた。訳の分からない義理の息子に理解があるフリをして、その実、突き放したのだ。

 彼らがそんな態度を取ったのは、美しい家族と言う概念を守るためだった。外面を取り繕うためだけに、演技をしていたのだ。養護施設に戻す方が、きっと彼のためだっただろうに。そうなれば、私はとても寂しい思いをすることになっただろうが、でもその方がきっと彼には良かった。

 何て馬鹿らしいのだろう、私の両親たちは。外面など、今や取り繕う必要などないのだ。誰も見てやしないのだから。家族と呼ばれる概念とて、とうの昔に死に絶えているのに。

 一つの概念が死ぬのには、理由がある。その土壌を理解せずに概念そのものだけを復活させても、それは単なる猿まね以上のものには決してなり得ない。

 いかに過去を取り戻そうと足掻いたところで、問題の根本を解決出来なければ、焼け石に水だ。当時の私には、彼らが何故そこまで必死に過去に縋り付くのか、理解が出来なかった。

 けれど今ならば分かるような気がした。

 私の目の前のモニターの中で、淡い色をした花びらたちがいくつもいくつも舞っている。その間からは、僅かに緑の葉が見えた。春だ。長く辛い冬を生き延びた生命が、己が生きている喜びを全身で表現する季節だ。

 私の義理の親は、非婚化と超少子化の現状に恐怖を覚えていたのだろう。誰も敢えて問題にしようとはしなかったが、それらは明白に人間の、いや、生命の黄昏の現れであった。

 彼らは必死に滅び行く人間世界を、何とか健全化しようと足掻いていたのだろう。たった二人で何が出来ると言うのか。ただの死体と化した結婚生活や家族の概念をなぞったところで、どうしようもないのは誰にだって分かるだろうに。笑ってしまう。

 そんな愚かな両親のしわ寄せを喰らうことになったのが、養子である私と弟だった。

 私たちは、「古き良き家族」という演目を公演するに当たってのキャストとして、迎え入れられたのだから。何も知らされぬままに。

 だが私は義理の両親に一つだけ感謝していた。彼らが私を選んでくれたおかげで、弟にとって特別に近い存在になることが出来たのだ。

 今になっても、二人で遊んだ思い出は、いくらだって数え上げることが出来る。

 当時は広く思えた庭で、二人で追いかけっこをした。乾いた地面に絵を描いた。秘密基地を作った。買って貰ったお揃いの長靴のことを覚えている。雨の度に、大きな水溜まりに二人で飛び込んだものだった。

 それらは美しくて、とても大切な宝物だ。今となっては、それらを後生大事に抱きしめているのは二人の当事者の内の片方、私、だけになってしまったけれど。

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