表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Unter der Haut, Auf der Haut  作者: えむ
第一章
1/26

 見上げた天井は、時計回りに回転していた。

 いや、これは誤解を招く表現だ。実際には天井は回転などしていないのだから。ただ貧血のせいで酸素の足りない俺の脳みそが、そう捉えているだけの話に過ぎない。

 だが俺の世界とは、俺の脳みそが認識する世界に過ぎない。つまり天井が回っているというのは、俺にとっては事実に他ならないのだ。他の人にとってはお伽噺であろうとも。

 そんなことを考え始めれば、いつものこの面倒この上にない思考を進めるために脳がフル回転を始めようと足掻き始めた。ただでさえ足りない酸素と糖分に文句を言いながらも、必死に駆動しようとする己の脳みそを無理矢理に黙らせると、俺は横を向いた。何も考えたくなどないのだ。

 その僅かな動きに、視界が派手に大きく揺れた。

 左の手首への装着を義務づけられている小さな個人端末が、耳障りな警告音を垂れ流し続けるのが実に不快だ。メールや電話機能はオフに出来ても、生命監視機能だけは強制的に起動させられているのだ。俺には自分の生命すら好きに出来ないのかと思えば、それもまた不愉快さに拍車をかける。

 音から逃れるために、布団に顔を埋めて、固く目蓋を閉じた。

 いつもいつも纏わり付いていたいかにも健康に悪そうな有機溶媒の臭いはしない。それを不満に思う自分に、俺は苦笑する元気もない。現実から逃げ出した夢の先、そこにまで研究室はついてくることを知っていたからだ。

 分かっていても、それでも俺は、歪む視界のまま睡眠へと逃げ込んだ。他に逃げる場所などないのだから、仕方が無い。

 だが夢もまた、現実の一部に過ぎないのだ。不安定な俺の精神状態を表現するかのように、夢の世界もまた不確かに揺れ動いている。

 地面は踏みしめるような確かさを有さず、見上げる空はどこまでも煙る。個人端末の警告音は、研究室の実験機器たちの騒音へと姿を変えていた。強制的な換気システムのせいで常に微風が流れる広い空間は、けれども数多の機器たちと実験台のせいで狭苦しい。時代遅れのガラス器具。割れたそれを直すのも、なんと人間の手作業だ。

 使う試薬の瓶に記されるのは、毒々しい髑髏マーク。横には「人体への有害性は未知」との文字が躍る。つまりは使うならば、自己責任でやれと言っているのだ。

 そんな危険を冒してまでも俺が追い続けたのは、電子の振る舞いであった。裸眼では見ることの叶わない極小の世界。その小さな小さな世界こそが、全ての基礎なのだ。

 俺はそんなちっぽけな世界に魅せられた。謎を解きたいと願った。理解したいと欲した。それが分かれば、全てを知ることが出来るのではないかと、夢見た。

 それなのに、それなのに、今の俺はこうしてボロアパートの一室で、栄養失調状態になるまで引き籠もっているのだ。

 夢を見るというのは残酷なことだ。大きな希望を抱けば抱くだけ、自分がそれに見合わないと知らされた時の失望は巨大なのだ。他の人間のように、何も考えず何も求めず、ただ諾々とAIたちに囲まれて生きていれば良かったのだ。そうすれば、俺ももっと幸福になれただろうに。

 結局のところ、俺の身には余る大きすぎる夢だったのだ。無理だったのだ、俺には。

 ああ、吐く息はどこまでも情けない。

 俺は指導教官に大学院を辞めると言うことが出来なかった。それは俺の今までの人生全てを否定するのと同義であったから、どうしても勇気が出なかったのだ。

 行き詰まってしまった以上、新しい道を探さなければならないのは当然だ。今までの俺とは違う俺にならねばならない。

 分かっていても、そんなものを見つけることは出来なかった。見つけたくもなかった。自分が行き詰まったことを認めることすら、苦痛で耐えられやしないのに。

 だから俺はこうして引き籠もっているのだった。情けなくて、小さい俺は。



 左手首の端末がけたたましい警告音を発した。今までとは違うその音に、俺は思わず端末の画面に視線を走らせる。そして肩を竦める羽目になった。

 黄色に点滅する画面に表示されていたのは、最終通告であった。このまま栄養を摂ることなく俺が自分虐めを続けるならば、強制的に救急車と警察官を呼んでくださるのだそうだ。もしも実際にそんな事態になれば、俺は己の不摂生の責任を負わされることだろう。

 俺はゆっくりと身を起こした。その動作だけで、視界が酷くぐらつく。今となっては逆に骨董的な価値すら持ちそうな土壁が、目の前で白に黒にと色味を変えていた。

 栄養状態は端末が警告する通りに深刻だ。

 下げた視線の先には、畳に染み込んだ茶色が。もう何日も前に俺が作ったインスタントのラーメンの汁だ。気が付かない間に、こんなにも盛大に零していたらしい。

 俺は漫然とその跡を見つめた。汚してしまった以上、管理人の田中に畳のクリーニング代を支払わねばならないのだろうか。或いはこの程度ならば、生活する上の必然として許されたりはしないだろうか。そもそも、畳とはクリーニング可能な代物なのだろうか。

 些細な質問が後から後から湧き出しては、俺の脳のエネルギーを無駄に消費していく。

 見つめる茶色の染みは、その表面に結晶を伴っていた。触れれば表面はざらついている。まだ汁が暖かかった時には水溶液として液中に分散されていた調味料が、温度が下がりさらには溶媒を奪われた今、固体に戻ったのだろう。

 指でこそげ取ったその整然とした結晶が思い出させるのは、子供の頃に行ったささやかな実験だ。もう何世紀もお馴染みの、析出した小さな結晶を飽和水溶液に吊るして大きくする遊び。

 水溶液をゆっくりと冷やせば、結晶は成長し、実に美しい姿となった。取り上げたそれは大きくて重たかった。あの宝物は、一体どこに行ってしまったのだろうか。確か、たくさん作ったはずなのだが。

 汚れ放題の窓ガラスから射し込み始めた日光が、畳に複雑怪奇な模様を描く。同時に「結晶と固体は違うんだよ」、と囁く声が過去から届いた。

「固体とは、液体、気体と並ぶ物質の三態の一つに過ぎない。そして結晶とは、一定の条件を満たした固体のことであって、固体全てが結晶と呼ばれるわけではないんだ」

 記憶の中の俺が手に乗せている白色の結晶は、三角形で構成された面を八つ持っていた。不細工な形になってしまった別の塊を割れば、そちらからは数多の直方体が生まれた。その不思議さ。

 全ては、もう何年も昔の出来事だ。

「結晶と称されるのは、それを構成する分子あるいは原子が三次元的な繰り返し構造を有しているものだけなんだよ」

 声はまだ聞こえる。一体誰が発したものなのだろう。思い出せない。

 「ガラスは結晶とは呼べないんだ。固有の繰り返し構造を持ってはいないからね。これは」、と細くて頼りない指が、窓ガラスを示した。当時の俺は、語られるその内容に胸を弾ませたのだ。「アモルファスと称される。ガラスは単一の分子から成る固体ではないけれど、その主成分は二酸化ケイ素だ。それが結晶となったものが、石英だよ。透明なものを特別に水晶と呼んでいる。君も欲しい?」

 はい、と渡された煌びやかな水晶に、素直に感心する子供の頃の自分の姿が見えるようだ。もしかしたら俺は、この誰かも分からない人物の声に導かれて、実験科学に手を染めたのかもしれない。

 だとしたら、と俺は笑う。その相手が実に憎憎しい。



 俺は時間をかけて、それでも必死に身だしなみを整えた。

 俺のせいで警察なり何なりがこのアパートに来るのだけは阻止したかったのだ。俺はアパートの管理人でもあり、友人でもある田中に迷惑を掛けたくはなかった。

 こんなモニターどころかAIも有さない時代遅れにも程がある建物は、今やここくらいであったし、そんなアパートを運営する田中は人間中心主義を掲げており、政府に問題視される一族の一人でもあったからだ。

 這うように玄関に辿り着いた俺は、久しぶりに扉を開けた。侵入してくる空気は、秋の予感を孕む朝の空気。屋根も壁もない吹きさらしの廊下から見たのは、建物の隙間から覗く朝日。背景の空は白い。

 赤茶けた階段は靴音をむやみと反響させる。脳に響くその音から逃れるように、慌てて道路に下りた俺の視界に映ったのは、奇妙な代物であった。極度の貧血のせいでいつでもブラックアウトしてしまいそうな俺を嘲笑うように淡く輝くのは、等身大の人間の彫刻。

 俺は目を擦りながら、慎重にその彫像に近づいた。視界がぐらついて、思わず蹈鞴を踏む。途端に足首が痛みを叫んだ。どうやら夢ではないらしい。

 俺よりもやや大きな男が、透明な固体の中に収まっていた。彫像である以上、人の手で作られたはずだが、その表面は結晶が構成分子の性質によって自然に生み出したかのような、精巧で複雑な面のみで構成されていた。それは水晶に似ている。平面と平面の接合部となっている直線の角が、朝日を反射させており、実に煌びやかだ。

 ふと随分昔に流行った3Dクリスタルと呼ばれた置物を思い出した。あれはクリスタルガラスの中にレーザーで像を刻むという技術であった。その技術によって作られた作品は、まるで中に何かが実際に閉じ込められているかのように見えたものだ。

 だが、あれは単色でしかなかったし、それにその保持体となるクリスタルガラスは単純な形をしていた。

 今、俺の目の前に立っている彫像の外側を構成しているのは、理路整然と結合した複雑な表面を持った結晶だ。一つ一つの面は単純な形をしているが、かつての3Dクリスタルの保持体とは、明らかに難易度が桁違いだ。それも、表面と中の男との間は薄い。

 これはもしかすると、新たな技術を投入した3Dクリスタルの新商品なのだろうか。だが何故、俺の住むアパートの前などに放置されているのか?

 疑問をそのままに、俺は更にその彫像をまじまじと眺めた。中に閉じ込められているかのような男は、天然の結晶を真似た外側以上に、精緻に人間に似せて作られている。彼の浮かべる表情は、決して気取ったものではない。それはどこまでも自然に微笑んでいた。実に満足そうな顔をして。

 見つめれば見つめるほどに、言い知れぬ不安が心の底から込み上げて来た。その化けものが必死に言葉を探して脳内をのたうつ。

 彫像の中の男は、決して美男子と呼べるタイプではなかった。団子っ鼻であるし、唇は厚すぎる。肩幅と身長のバランスも欠いている。わざわざ作品にするには不満ばかりの、どこにでもいる人間だ。……俺と同じように。

 胸に蟠っていた不安定な気持ちが、今、確かな形を取った。自分を表現する単語を見つけたのだ。それは絶叫した。「本当にこれは彫像なのか? 実際に人間が閉じ込められているように『見える』だけなのか?」と。

 答えは一つであった。その衝撃に俺は思わず男の彫像から飛び退る。酸素と糖分の不足に悩む脳が、俺のその大きな動きに不満を主張した。だがそんなことは、どうでもよかった。

 俺は走った。アパートの前の小道を抜けて、大通りを目指す。丁度通りかかった自動走行車が驚いたように俺に道を譲ってくれた。そして辿り着いた人気の多いはずの道で、俺は。

 意識するよりも早く、地面に崩れ落ちていた。膝をアスファルトで擦った痛みを、他人事のように認識する。左手首の端末のあげる警告音も遠い。

 複雑な濃さを見せる光が、幾つも幾つも俺の上に注がれていく。それは透明な結晶の角部分が反射させた光。それは透明な結晶部分が透過した太陽光。


 俺が大通りで見たのは、どこまでも続くように錯覚させるいつもの道と、どこまでも立ち並ぶように感じられるいくつもの見慣れぬ彫像たちであった。

 像は全て、俺がアパートの前で見た男の結晶と同じ代物だ。その中身は決して、実際に閉じ込められているように「見える」のではない。これは事実、人間が中に閉じ込められているのだ。

 先ほどまで胸の中で絶叫していた不安は、今や霧散していた。その代わりに胸に満ちるのは冷たい感情。その正体の名を知ってはいたが、俺は頭から追い出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ