SOS
電話がかかってきたのは、午後二時を過ぎた頃だった。
「……もしもし」
声を聞いた瞬間、妻は眉をひそめた。
いつもの夫の声ではなかった。
「どうしたの?」
「ちょっと……気分が悪い。暑さにやられたみたい……」
電話の向こうで、夫が苦しそうに息を吐いた。
「取引き先から会社に帰ろうと思ったんだけど、運転するの怖くて……悪いけど、迎えに来てもらえない?」
妻は、窓の外を見た。
今日は暑い。
外に出るなら、化粧をしなければならない。
今日は一日家にいるつもりだった。
髪も整えていない。
部屋着のまま。
もちろん、化粧もしていない。
「……無理」
「え?」
「無理。行けないよ」
夫はしばらく黙った。
「……俺、体調悪いんだけど」
「だからって、すぐには出られないよ」
「視界が狭まってる気がして、動けないんだよ……」
「会社の人に連絡してみたら?」
「みんな仕事中だよ」
「私だって暇じゃないよ」
夫は、何も言わなかった。
妻は、少し苛立ったように続けた。
「そもそも、急に言われても困るから」
「……そうだな」
夫の声が、さらに小さくなった。
「ごめん」
それだけ言って、電話は切れた。
妻はスマホをテーブルに置いた。
夫が今体調を崩していることよりも、自分が化粧をしていない状態で、外に出なければならないことの方が一大事だった。
すっぴんで人前に出るのは嫌。
近所のコンビニでさえ嫌だ。
ましてや、夫の会社の近くまで夫を迎えに行くなんて。
「大人なんだから、自分で何とかするでしょ」
そう呟いて、妻は冷蔵庫から飲み物を取り出した。
その日の夜。
夫は遅くまで、帰ってこなかった。
連絡もない。
さすがに気になって何度か電話をかけると、数回目の呼び出し音のあと、夫が出た。
「どこにいるの?」
「病院」
「……病院?」
「会社の人が救急車を呼んでくれて…」
「え……」
「熱中症だったみたい」
夫の声は、弱々しかった。
「点滴して、今は落ち着いた。念のため今日は入院だって…」
「そう……」
妻は、何か言わなければと思った。
ごめん。
大丈夫?
迎えに行けなくて、ごめん。
そう言えばいいだけだった。
けれど、口から出たのは別の言葉だった。
「大げさじゃない?」
返事はない。
そのまま続けた。
「熱中症くらいで救急車って……」
「……そうだな」
その夫からの返事には、感情がなかった。
夫が妻に電話をかけた時、頼りたかったのは、車で迎えに来てもらうことではなかった。
苦しんでいる時に、迎えに来てくれる人が、心配してくれる人がいると、そう思いたかっただけだった。
妻は、「無理」という一言で、その夫の淡い期待を全て断った。
それから数ヶ月後。
夫は家を出た。
「これからも夫婦を続ける意味が、俺にはわからない」
そう言われた妻は、泣きながら叫んだ。
「たった一回、迎えに行かなかったくらいで?」
夫は、静かに首を振った。
「たった一回じゃないだろう」
「じゃあ何よ!」
「俺が困った時、苦しんだ時、助けてほしいと思った時……いつも、お前には俺より優先するものがあったじゃないか」
妻は言い返そうとした。
化粧をしてなかっただけ。
面倒だっただけ。
忙しかっただけ。
いくらでも言い訳はできた。
けれど、夫はもう何も聞いていなかった。
「俺はあの日、熱中症で倒れた」
「つたない意識の中で、お前に迎えに来てほしいって俺が電話した時、『無理』そう言って、お前はあっさり断った」
「それを聞いて、俺はお前にとって、夫でも家族でも、気にかける相手でも心配する相手でもないんだってことに気づいた」
それを聞いて、妻は思い出した。
苦しそうな夫の声。
自分が夫に言った言葉。
鏡の前に立つ。
そこに映る姿は、家にいるときのいつも通りの自分。
化粧をすれば、まだまだ、誰かに見せられる顔だ。
化粧をしていないその顔を、他人に見せるのは大嫌いな妻が、気づくことは、この先もないのだろう。
夫が毎日見ていたかったのは、見栄え良く綺麗に整えた、必ず化粧をしている人の顔、ではなかった。
夫を気遣い、心配してくれる妻の顔だった。




